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時計が15時10分を刻んだ途端、一秒の遅れもなくアパート前に大きなトラックが止まる。
くすんだ青パーカーを着た男が一人飛び降りて、瑠璃に頭を下げた。
1年前と同じ光景だ。瑠璃は惰性で頭を下げ、部屋を指し示す。
男が少ない荷物をトラックに投げ込む。瑠璃が持っていく荷物といえば小さな鞄と、猫のみなので、あとは部屋の片付けだけである。
「今回はどこに逃げるんですか?」
いつもは機関から行き先を伝える手紙が届いて、それからの逃亡となる。
今回は少し順番が逆だ。
「さあ、上の指示まちなんだよ。俺は運転だけだ。悪いな」
部屋に入り込んだ男は散らばったゴミを手際よく片付け、綺麗に掃除していく。どんどんと、部屋から思い出が消えていく。
「できれば……来週水曜以降に逃げたかったな」
痕跡の消えていく部屋を見つめ、瑠璃は呟く。
今日は日曜日。授賞式まであと、3日、たった3日だ。
叶わない願いだが、来週水曜の授賞式を覗き見たかった。そこで瑠璃の小説が言葉で紡がれる。声になって、響き渡る。
瑠璃が母に小説を読んだ、あのときと同じように。
せめて、遠くから聞いていたかった……などと言えば叱られるだろうか。
「水曜……かあ」
瑠璃がよほど悲しい顔をしていたのか、男が困ったように動きを止めて瑠璃を手招く。
「聞いてみようか……多分無理だと思うけど」
彼は外に止めたトラックに戻ると助手席の扉を叩いた。
「すんません、お嬢さんの対応お願いします。水曜にどうしても用事があるんだって」
一言、二言……中から聞こえるのは女性の声だ。そういえば、これまでの7年、瑠璃は機関の人間を見たことがない。
ふと、瑠璃はトラックを凝視する。
綺麗なハイヒールが、助手席から降りてきた。
「大事な用事があっても、残念ながらもうタイムアップね」
聞き慣れた声が聞こえ、瑠璃の動きが止まる。
「ここまで状況が逼迫してることに気づかなかったこっちの落ち度だわ。ごめんなさい」
「え?」
助手席から降りてきたもう一人の影をみて、瑠璃の目が丸く見開かれた。
きれいなパンツスーツ、高いハイヒール。
「次は幸い、温暖な場所になるわ。ここよりは過ごしやすいと思う。ね……深山ちゃん」
降りてきたのは、菊川である。
「シアンの頃に金髪にさせていたのはね、いつでも元の生活に戻れるように。深山瑠璃に戻った時、生きていけるように。シアンを忘れられるように」
菊川は細い煙草に火をつけ、ふっと煙を上に吐き出す。
ぽかんと固まる瑠璃を見て、微笑んだ。その顔は、いつもの菊川だ。キンコツ新聞社で仕事をしていた時と同じ顔だ。バー群青で隣り合って飲んだ時と、同じ顔だ。
パニックになりそうになる瑠璃の背を、彼女の手が優しく撫でた。
「キンコツ、新聞、は」
「私のアイデアよ。あなたが外に興味を持ったのをみて、何かをさせよう。と思ったの。私の仲間は……まあ察してると思うけど。あなたが機関、と呼ぶ宇宙機構の人間ね……みんな難色を示したけど。でも私は、あなたに何か仕事をさせたかった。新聞社とパタンナーと文字の打ち込み。3つの仕事を用意したけど、やっぱり文章を書く仕事を選んだわね」
彼女は笑い瑠璃は顔を赤くした。
仕事を3つの中から選ぶように、選択を与えられたようで瑠璃は誘導されていたのだ。
「仕事、してたつもりで、私」
「安心して。ちゃんとした本当の仕事よ。あなたの書いた記事はちゃんと広報に使われていたし、これからも使われる。ま、キンコツ新聞社は閉鎖になるけど」
夕日が差し込み、菊川は眉を寄せる。
「ああ、眩しい……ねえ知ってる? 夕日が赤いのって脳みその誤作動なんですって。宇宙計画がこんなに進んでも、人間の脳はまだまだわからないことが多い。脳みそってね、宇宙より凄いのよ」
……夕日が赤いのも空が青いのも脳の錯覚。そう母は、いつか語った。
それは瑠璃に対して言ったのではない。
彼女の隣に座る後輩とその話をしていたのだ。
人の脳は、宇宙だと。
「菊川さん、あなたは」
「……深山博士」
煙草を携帯灰皿に落とし、菊川は呟く。
「あなたのお母さんに命を救われた者よ」
彼女は瑠璃の向こうに母を見るように、微笑んだ。
「深山ちゃん、荷物はこれだけ?」
菊川はがらんどうとしたアパートの部屋を見て、呆れるように言う。
そして猫を抱き上げ、その柔らかい腹に何度もキスをした。
「ああ、お前たちは荷物じゃないわ。分かってる。深山ちゃんの家族よね」
「猫、興味ないんじゃなかったんですか?」
「嘘よ。猫は好き。でも私が預かるなんて言ったら、あなたすぐにどこか行くつもりだったでしょ。あのときはまだ危険はなかったし、勝手に出ていかれると困るから止めただけ……荷物、もういい?」
荷物はほとんど運び出され、残されたのは猫と……床下のノートだけだ。
瑠璃はそっと床板を外し、ビニールにくるまれたノートを取り出す。
それを見て、菊川の目が寂しそうに揺れた。
「最近になって、あの事件は……7年前の事件は、シアンの預かり知らないところで起きたものだ。って話が出てるの。あなたを否定する人ばかりじゃない。そのうち分かってくれる人が増えたら、小説だってまた書ける。書けるようになれば、私は全力で応援するわ。私だって、あなたの小説のファンだもの」
そして菊川がそっとノートを取り上げる。思わず差し伸ばしかけた手を、瑠璃は握りしめた。
7年前、決まったルールは単純だ。
シアンはもう小説を書かないこと……すべての誤解が解けるまでは……それが機関の出した、逃亡のための絶対ルール。
シアンに結びつくものを持たない、捨てる。それは絶対の命令。
それなのに、瑠璃はノートを密かに隠し続けてきた。
「でもまだ今、これを持つのは危ない。わかるわよね」
隠し続けたノートは、菊川の手から、トラック備え付けのダストボックスへ。母の文字も小説の文字も、全てが失われる。瑠璃の背が震え、立っていられない。
それでも瑠璃は、まっすぐに立ち続けた。
平然と立っていられる自分に絶望した。
「せめて、あの……一枚だけ、持っていきたい、ものが」
投げ込もうとした菊川の手を、瑠璃は無意識に掴む。
「小説はだめよ」
「そうじゃなくって」
ノートの合間から一枚、封筒がはらりと落ちる。
「……ファンレター? ああ、あの」
菊川は封筒の表面を見るだけで何かがわかったのだろう。
それは、事件が起きて一ヶ月経った時に出版社に届いた手紙である。
この頃、シアンに届くファンレターは罵声と罵倒に彩られていた。殆どの手紙は編集部が処分していたはずだ。
捨てられるばかりだったシアン宛の手紙の中に一通だけ、この手紙が混じっていた。
だから、この一通が瑠璃の元に届いたのは奇跡である。
……僕はあなたに救われました。
緊張しているのが、文字から伝わる。
お礼をどうしても言いたくて手紙を出すことにしたのです。シアン先生。
もう何百回も読んだ、手紙。
逃げる準備をしていた瑠璃に、担当者が泣きながら渡してきた一通だ。
それを見て、瑠璃も泣いた。生きていていいのだと、そう思った。
「これ、だけは」
抱きしめると手紙に温度があるような錯覚を覚える。
それは不思議と、蒼の額と同じ熱さに感じられた。
「私はこの手紙に救われました。命があるのは、多分、この手紙のおかげなんです。命の恩人を……捨てないで」
菊川は少しばかり迷ったようだが、やがてポケットからペンを取り出し「シアン先生」の文字だけを塗りつぶした。
「一枚だけよ、特別に」
菊川がほほえみ、瑠璃の荷物を積み込む。急かされ、瑠璃も猫の入った鞄を抱えてあとに続いた。
(……手紙をくれたこの子も、きっと今頃、宇宙のどこかで元気に)
封筒の裏面に書かれた名前を見て瑠璃は目を細める。
(私のことも忘れて、でもそれでも……いつか、お礼を言えたら)
トラックに乗り込むと、外はすっかり夜である。周囲には人気もなく、音もない。星だけが美しい夜だった。
その星の一つに、きっと彼は存在するのだろう。
いつか。と瑠璃は空を見上げ、祈るように目を閉じた。
(氷室……正宗くん、ありがとう)
見たこともない名前、口にしたこともない名前。
そんな人が宇宙にいて、そして瑠璃の小説に救われたと言ってくれた。
なんと美しい奇跡なのだろう。




