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瑠璃の目前に、蒼がいる。
それは店のカウンター席……瑠璃の特等席。
彼の白い額から流れる赤い血を見て、瑠璃は唇を震わせた。
「あ……蒼くん」
「瑠璃さん、あんまり見ないでください」
蒼は瑠璃に気づいたのか、一瞬だけ苦しそうに口を歪ませる。
が、彼はそれを無理やり笑みの形に変えた。
「髪の毛、染めムラがあって……恥ずかしいから」
「蒼、くん。頭、怪我」
瑠璃は震える指で口を押さえる。
「なんで、怪我」
……瑠璃が蒼の店についたのはつい30秒前のことだ。
店から妙な音が聞こえた気がした。薄く開いた扉から覗いてみれば、巨体の男が蒼の前に立ちふさがっていた。
強盗だ、と瑠璃が悲鳴を上げる直前、蒼が慌てて首を振ったのである。
聞けば巨体の男はこの店の譲り主だという。
白川と名乗ったその男は、店に強盗が入った。と瑠璃に語った。
蒼は頭を殴られたが、無事だ。と彼は短くそう言って姿を消した。
残されたのは、赤い血を流す蒼と、顔面蒼白の瑠璃だけである。
「大丈夫です。ちょっと……泥棒に襲われただけです。顔色悪く見えるのは多分、髪の色のせいで」
「大丈夫って……泥棒って……」
大丈夫だと蒼は言うが、顔は青い。血は乾いているが、かすれて額を染めているのが痛々しい。
何が無事なのかと、瑠璃はおろおろと蒼の肩をつかむ。
「だから早く鍵を直せって……なにかこの店に、大事なものが?」
「別に。ただの……そうそう、食料狙いの泥棒です。それに痛くないんですよ。頭って小さな傷ですぐ血が出ちゃうんです。もう動けるから、髪の染剤だけ落としてきます」
「で、でも傷」
「瑠璃さん。このままの恰好、結構恥ずかしいんですよ」
おどけるように蒼が言って、瑠璃は初めて気がつく……彼は半裸だ。
無我夢中に触れていた肩から慌てて手を離し、瑠璃は一歩下がる。触れていた指先が燃えるように熱い。
「……ご、めん」
「ちょっと流してくるので、待っててください。すぐだから、帰っちゃだめですよ」
蒼はそう言いながら、素早くシャワー室に入っていく。数分後、シャワーから上がった彼を見て、瑠璃は張り詰めていた息をほっと吐く。
湯で温まったせいか、蒼の顔色がましになっていたのだ。
見つめる瑠璃に気づいたか、蒼が吹き出す。
「瑠璃さん、顔真っ青」
「……だって、シャワー室で倒れてたらどうしようかと」
蒼の髪は、きれいな青色に染まっていた。怪我をしたのは頭の上ではなく額らしい。
そこが痛々しく腫れ上がり、小さな傷が見える。
そっと触れると彼は痛そうに眉を寄せた。
「ほら、痛いんじゃないか」
「あんまり見ないでください。ちょっと恥ずかしくて」
瑠璃は救急キットを探し出し、傷を消毒してガーゼを貼り付ける。じんわりと滲んだ血の色が恐ろしい。
ケガのせいか、湯冷めのせいか。蒼が小さく震えるのを見た瑠璃は自分のマフラーを解く。そしてそれで彼の首を覆った。
「瑠璃さ……」
「暖かくして、まずはちょっと休んだほうがいい」
「マフラー……ありがとうございます。あの、洗って返すので」
「いいよ、あげる」
淡い黄緑色のマフラーが、彼の顔をより白く見せる。
その顔を見つめていた瑠璃はふと、微笑む。蒼が珍しく動揺したように見えたのだ。
「他に私にできることは?」
「じゃあ、ここにいてください。僕も心細いので」
しかし気づけば蒼は動揺の色を消してしまった。いつものように軽口をたたきながら、椅子に腰を下ろす。
立っているのも辛いのだろう。そんな蒼を見て、瑠璃はおろおろと眉を寄せることしかできない。
「蒼くん、やっぱり誰か、呼んでこようか。あ、あの、小左衛門さんとか……」
蒼は平然としているが、目の奥が不安そうに揺れている。無理をしている。彼は無理をしているのだ。
だから瑠璃は思わず、口にしていた。
「あ……蒼くんの大切な、人……とか」
その一言を。
「……なぜ?」
ふっと、蒼の目が静かに薄くなる。それは初めて見る蒼の表情だ。
その顔を見て、瑠璃は固まる。
「なぜって……だって、その人、心配してるだろう。もし怪我のこと、あとで知ったらきっと怒るだろうし……私なら、一番に知りたいと、思う」
「瑠璃さんは心配してくれますか?」
「そ、そりゃあ……」
「じゃあ、いいです、そうだ。せっかく来てくれたんだからお酒飲んでいきませんか」
蒼は顔をそらし、立ち上がる。その拍子に蒼の膝にあったノートが床に落ちた。
見覚えのあるピンクのノートだ。それを見て瑠璃は目を丸くする。
「ノート」
ノートは端っこが少し破れていた。蒼はその傷跡を、優しく撫でる。
「すみません。ちょっと破けてしまって。でも直します。僕、直すの得意なんで」
ノートの表面には蒼の血と思われるピンク色のシミがついている……そして、指が擦れたような黒い跡も。
それをみて、瑠璃は小さく震えた。
(……もしかして)
この店は通りに面していない。町の外れ、袋小路の端っこだ。
目的がなければ、ここにはたどり着かない。
蒼は食料目的の泥棒だ、と言っていた。その割に食料も酒も漁られた形跡はない。汚れているのはノートだけ。
レジスターの横を見れば、『青の世界』が消えている。
(シアンが、狙われた?)
蒼は瑠璃の震えに気づかない顔で、ノートを撫でている。
「もう少し借りてていいですか? 感想は言わないし、誰にも……」
「だめ、返せ」
無理やりノートを奪い、瑠璃はそれを抱きしめる。指先がちりりと震えて、体に寒気が走った。
「持ってちゃ、だめだ。また変な強盗が来たら」
「来ませんって。それに……瑠璃さん、なにか隠してるみたい」
蒼はじっとりと、瑠璃の持つノートを見つめる。が、すぐに平然とした顔で立ち上がった。
「まあ、まあお酒飲みましょ、それでのんびり話でもして……」
「蒼くん私は」
「綺麗な緑色の瓶。見てください、これ、貰ったんです。瑠璃さんのお祝いに。でね、瑠璃さんぽいなって思って」
「怪我してるのに、お酒なんて」
蒼は瑠璃が止めるのも聞かず、カウンターに入り込む。彼が手にしたのは机の上にあった青色と緑色の瓶だ。
彼は大きなグラス2つに氷と、酒を注ぐ。レモン汁を絞り、砂糖に炭酸水も。
蒼のグラスには青色の瓶の酒を、瑠璃のグラスには緑色の瓶の酒を。
「中は透明なんです。ジン・フィズです」
傷は大したことがないのかもしれない。襲われたことなど忘れたように、蒼は淡々と酒を作り続けている。
注がれた酒は彼の言う通り、水のように透明だった。
「蒼く……」
「でも瓶の横に置くと、色がほら、写り込んで見える」
蒼はグラスを瓶の横に置く。天窓から注ぎ込む光が瓶を通過して、グラスを染め上げる。
「きれいな深い緑の」
それは深みのある青色に見えた。
空が青く見えるのも夕日が赤く見えるのも、すべて脳の錯覚だ。
……脳がそう見せるのだ。
「きれいな青と緑の色でしょ。混じり合うと深い色にみえませんか?」
瑠璃はその色を見て、微笑む。
「蒼くん、この色はね」
瓶を通したその色は、深みのあるブルー。緑の混じった、暗い青。
(今になってこの色を見ることになるなんて)
……脳は意地悪だ。と、瑠璃は苦笑する。
「シアンっていうんだ」
その言葉を口にした時、蒼の背が少しだけ震えた。
美しい青色の光の筋を見つめて、瑠璃はふと思い返す。
それは自室のことである。
今日、瑠璃はキンコツ新聞に正式な退職届を出しにいったのだ。
ただ、菊川が不在だったので机の上、一番目立つ場所に退職の意志を書いた手紙を置いて帰った。
……シアン宛の手紙が瑠璃に直接届くのは尋常ではない。
そろそろ、例の支援者から連絡があるはずだ……その予感がする。
菊川への報告を済ませ、帰宅すると家の中が荒らされていた。
それはまるで台風でも通過したような、そんな惨状だ。ダンボールがひっくり返され、備え付けの鏡は割られていた。
慌てて猫を探せば、彼らは無事だった。
うまく戸棚の隅っこに逃げ込んでいたらしい。
床下にしまい込んだノート、そしてシアン宛のファンレターも無事である。しかし、支援者から届いた手紙は失われていた。
振り返れば割れた鏡の破片に、空の青が写り込んでいた……それは嫌味なほどに美しい青である。
それを見て、瑠璃は悟ったのだ。
もう、この場所は安全ではない。
青色はいつも瑠璃に幸せと不幸を持ってくる。
「……蒼くん、ごめん。きっと、私のせいで襲われたんだ」
瑠璃のすぐ隣。蒼がカウンターに突っ伏したまま、心地いい寝息を立てていた。
青い髪の毛が机にさらりと広がって、まるで海のようだ。青い光の塊だ……瑠璃はもう長い間、海なんてみていないが。
「せっかく、髪の毛染めたのに、怪我させてごめん」
瑠璃は手の中にある小さな小瓶を見つめた。小さな瓶に詰まった液体は、睡眠剤。
これも支援者から送られてきたものの一つだ。
瑠璃が眠りにくいときに使うのは、丸い小瓶に詰まった薬。
なにか危ないことがあったとき、相手に使うのは四角い瓶に詰まった薬。
今、瑠璃の手元にあるのは四角い瓶だった。
危ない薬ではない。とは聞いている。それでも不安になって、蒼の息を何度も確かめた。
幼い寝顔を見て、瑠璃はようやく息を吐く。
「薬を盛ってごめん。でも君がいつまでも見張ってるから……」
二人でジンフィズを飲みながら、蒼はいつまでも瑠璃の手を離さなかった。だから、瑠璃は彼を眠らせることを思いついたのである。
気づかれないように、彼のグラスに落とした一滴の睡眠剤で、蒼は緊張が溶けたようにするりと眠った。
「シアンの色は薄暗くて、重くて、黒い」
机の上に置かれたジンの瓶、そこからカウンターに伸びる光はシアンの色だ。
「やっぱり私は、引きこもってなきゃだめだった。外に出ちゃいけなかったんだ。小説も書いちゃだめだった。調子に乗ってしまった私が全部悪い」
眠ってなお、蒼は瑠璃の手を離さない。それを名残惜しく離して、瑠璃は立ち上がった。
ピンク色のノートを開き、小説の写しが書かれたページを切り裂く。
細かく、細かく、ちぎる。潰す。
そうして、カウンターの上にできた紙の束を見て、瑠璃は泣きそうになる。
「ああ、本当に、私が全部バカだったんだ。大人しくしておけばよかった。閉じこもっておけばよかった。蒼くんに……最初から、会わなきゃよかった……あのとき、逃げておけばよかった」
ぽろりと転がり落ちた涙の粒は熱いほどで、ああ。自分は生きているのだ。と、冷静に瑠璃は思う。
生きているから苦しい。しかし自分は死んではならない。自分を信じてくれる人のためにも。母のためにも。
「生きてるから、逃げなきゃいけない。今でも、遅くない。今からでも、遅くない。遠くに行くんだ。もう蒼くんには会わないから。津島さんたちにも、あの杜氏の人にも、この町の人にも、誰にも……それで、いい」
涙を拳で押しつぶし、瑠璃はカウンターの横にある電話機を手に取った。
この地区にはここにしかない、貴重な電話だ。
ポケットに忍ばせておいた機関の手紙の一枚。そこには長ったらしい番号が書かれている。
何度も見たが、一度もかけたことのない緊急電話。瑠璃は息を吸い込み、ゆっくりと番号を押すと機械音のあとに無音が続く。
瑠璃が名前を名乗ると、やがて機械音声が響いた。
……10分後、アパート前で。
腕時計が刻むのは15時。店からアパートまでの距離は2分。
たった8分の残り時間が悔しく、惜しい。
「蒼くん」
眠る蒼の顔はまだあどけなさが残る。この傷が残りませんように、と何度も瑠璃は願った。
「プリンも、結局食べられなかった……ジャムも、来年のは、もう無理だ」
美味しかったジャムの味が思い出された。パンに染み込んだあの味も、ここで飲んだ酒の味も、酩酊感も、何もかも。
幸せだった数ヶ月の記憶を、瑠璃はここに置いて消えるのだ。
これまで通り。
「蒼くんは、私が消えたらびっくりするかな。驚いてくれたら……少し悲しいって思ってくれたら、多分うれしいな」
離れがたく、瑠璃は彼の頭を撫でる。
きっと瑠璃が消えたことを知ったら、蒼は驚くだろう。もしかすると少し悲しんでくれるかもしれない。
でも、その感情のゆらぎもきっと一瞬だ。
蒼はやがて瑠璃を忘れて、ここで「大事な人」と幸せに暮らす。その暮らしの中で、彼はきっと瑠璃を完全に忘却するはずだ。
きっと、それが蒼の幸せだ。瑠璃にとっても、幸せだ。
「だから、もう消えるね」
ちぎったノートの残骸を、カウンターの内側にあるゴミ箱に投げ入れて、瑠璃は蒼の額にそっと唇を寄せた。
つん、と化学物質の香りがする。
(蒼くんは大事な人と幸せになるんだから、私がちょっと、触るくらい、多分、許される……額に、キスくらい)
震える唇で触れた彼の額は、燃えるように熱かった。
「約束を破ってごめん。大切な人と、大事な人と、幸せになって、蒼くん」
彼の小指を見て、瑠璃の胸が痛くなる。指切りげんまん。結んだあの熱は、もうはるか昔のことのようだ。
結局、黒髪の蒼を見ることがないまま、瑠璃は去るのだ。
あとにも先にも、瑠璃にここまで優しくしてくれる同年代は彼だけだろう。
(誰も私のことを知らないこの場所でなら、うまくやっていけると思ったけど)
まるで蒼の熱を吸い込んだように熱い唇を、瑠璃はきゅっと結ぶ。
蒼の大切な人は、成長していく彼の姿も、黒髪の彼の姿も見ることができる。なんて羨ましいことだろう。
考えても仕方のないことを考えて、瑠璃は苦笑する。
(情けないな)
蒼の作る料理も、この店も、町の人々も皆、好きだ。
(7年前のあのとき、やっぱり逃げなければよかった。そうしたら被害は自分だけですんだのに)
……蒼のことも、たまらなく好きだった。
「蒼くん、好きだった」
だから離れるのだ。と、瑠璃は蒼の頭を優しく撫でた。




