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ごちそう様で、また明日  作者: みお(miobott)
青のジンフィズ
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1

 今の時代、水は貴重だ。

 わかっていても月に一回だけ、蒼は贅沢してたっぷり水を使う。

 


(瑠璃さん、昨日平気だったかな。ずいぶん酔ったみたいだったけど……)

 小さな器に青色の染剤をひねり出し、蒼は鏡を見つめた。

 曇った鏡には、上半身裸の自分が写っている。

 ずいぶんと気の抜けた恰好だが、扉には本日休業の看板をかけた。客は誰も来ないはずだ。

(……やっぱり今日くらいが染め直しにちょうどいいな)

 髪の毛の根本がかすかに黒くなっているのを確認し、蒼は一人頷く。

 来週、瑠璃の小説の授賞式があるのだ。染めたてでは派手すぎるので、今くらいから染めておくのがちょうどいい。

(髪を染め終わったら、アパートまで……瑠璃さんの様子見に行こうかな……さすがに見つかるとまずいかな)

 髪を染め直すのは半月に一回、と決めている。

 青色の染剤はもう残り少ないので、何度も染められない。

 しかし、この店で青色に染まるのは蒼の義務だ。青の世界を表現するためには、自分自身を青色に染め上げる必要がある。

 だから蒼はいつも、祈るように願うように、染剤のブラシを握るのだ。



 髪に染剤を塗り終え、このまま、30分。やることもなく、蒼はふらりと店に戻った。

「ジン、かあ」

 机の上に置かれた青色と緑色の瓶を横目でみて、蒼は呟く。

 昨日、皆で瑠璃の受賞記念のお祝いを行った。

 最初の数杯で瑠璃が酔って帰宅してしまったが、その後、噂を聞きつけた町の人が数々のお祝い品を持ってきてくれたのだ。

 青色と緑色、揃いの瓶に入った双子のような2つのジン。

 並べて光にかざすと、なんとも言えない色に染まる。

 もちろん色がついているのは瓶だけで、中は透明だ。今ではこんな美しい瓶も、希少品である。

 椅子に腰掛け、蒼はじっとジンの瓶を覗き込んだ。美しい2つの瓶を見つめていると、自然と笑みがこぼれた。

「……きれいな青だな」

 蒼は立ち上がり、カウンターの奥から『カクテルブック』、と書かれた古い本を手に取り、めくる。

 発行年はもう随分昔のもので、ざらりとした紙の感触が心地良い。様々な匂いを吸い込んだこの本は、多くの持ち主の手を渡って、この店にやってきた。

(カクテルの勉強も、もう少し真面目にしようかな。甘いのなら、瑠璃さんも飲めるだろうし) 

 本は買ったものもあるし、拾ってきたものもある。

 発行自体、年々減っているので、本は貴重だ。特にカクテルの本など、嗜好品色の強いものは。

(ジンバック、ジントニック……できればご飯にあうもので)

 机や冷蔵庫に並ぶのは、酒と甘いもの、肉。

 町の人々から届く祝いの品で、冷蔵庫はあっという間に一杯になる。

 それは皆から瑠璃へ対する愛情の証だ。

 瑠璃がこの町で認められている。贈り物を見るだけで、そんなふうに感じてしまう。

 蒼にとってはそれが一番うれしい。

(瑠璃さん聞いたら喜ぶだろうな)

 それを想像すると、蒼は思わずにやけた。

 瑠璃のための酒だ、そう言ってカクテルを出せばきっと瑠璃は驚いて謙遜する。照れて強がりなことも言うだろう。

 それでも、結局飲んで……思わず微笑むに違いない。

「甘めのほうがいいなら、なにかいいソーダでも手に入れて……」

 蒼は青色の瓶をひねり開け、そっと鼻を近づける。中は無色透明だが、息を吸い込むとむっとハーブの香りが広がった。

(これはジンフィズ、かな)

 遠い昔、施設にいた「少し悪い」子どもたちが、よく口にしていたカクテルの名前を思い出す。

 彼らは不思議と蒼をいじめるようなことをしなかった。

 調理係の蒼をいじめるより、子分のように手懐けるほうが賢いと思ったのだろう。

 彼らは蒼に炭酸と砂糖、そしてレモンをねだったものだ。それを粗悪なジンに混ぜると美味しいジンフィズができる。そうして、蒼にも飲ませてくれた。

 埃臭い実習室の隅で飲んだ濃すぎるジンフィズが、蒼の人生で初めて触れたアルコールである。

 その作り方は、レモン汁に炭酸、そして砂糖を少々。そこに、ジンを注ぎ入れるのだ。

 大きなカップに作ったジンフィズは、泡の感じも美しい。客に出す時はレモンを切って浮かべれば、きっと綺麗だ。

「……うん、悪くない」

 ハーブの香りがレモンにまじり、柔らかい味になる。

 鼻を抜けていく香りも心地良い。

 ふわふわと柔らかい気持ちになり、蒼はカウンターに置かれたノートを引き寄せる。

 それはピンクの表紙の、古いノートだ。

 中をめくると、癖の強い瑠璃の文字が見える。

「瑠璃さんの、小説だ」

 何度も見直していると、書いている時の瑠璃の気持ちが手に取るように分かってくる。

 書き直し、迷った場所。

 勢いに乗って書かれた場所。

 勢い余って、消しゴムで破いてしまった場所。

 すべてを記憶するように蒼はノートを見つめる。

(……瑠璃さんの、小説)

 それは数年ぶりに見る、瑠璃の、シアンの新作だ。

 町の中で起きる小さな不思議と、出会いと別れと、そして幸福と。

 小さな物語はキンコツの街並みの中で始まり、終わる。

 終の文字まで指を這わせ、蒼はもう一度冒頭に戻る。

(返してしまうの、もったいないな……)

 もう少し、持っていたい。そう願い、読み直し、もう一度視線を冒頭へ。

 机の上に置いたジンフィズに手を伸ばそうとして、蒼は周囲の暗さにふと、気づく。

「あれ? 今日は晴れの……」

 振り返ると、黒い影がある……いや、それは人影だ。大きな影が、蒼の背後に立っていた。

「誰……」

 はたり、と青色の染剤が蒼の顔に垂れ落ちる。

 同時に、なにかが、蒼の頭を激しく殴打した。

 


 頭を殴られて椅子から転がり、床に落ちた。その一瞬の間に、蒼は夢を見た気がする。

 それは両親の夢であり、施設での夢であり、瑠璃との出会いの日の夢である。

 夢の中で瑠璃は去ろうとしている。だから蒼は腕を伸ばす。ぬるりと何かが腕に触れる。

 それは青色の染剤と……赤い色の血。


「てめえ、誰だ!」


 遠くに白川の声が聞こえた気がする。聞いたことのない男のうめき声と、ドタバタと駆け抜けていく足音と。

 うめいて立ち上がろうとするが、床に落ちた染剤のせいで蒼は再び倒れた。

 その蒼の手を、厚い手のひらが掴んだ。

「おい、大丈夫か!」

「俺……は」

 蒼の手のひら掴んだ手は、ごつごつと大きく節くれだった指を持っている。

 しっかりと支えられ、蒼は朦朧とする意識の中で顔をあげようとした。

「おいおい、すぐ起き上がるなよ。息を吐いて……そう、ゆっくり」

「なに……が」

「いいからこっち見るな。変な音が聞こえたから覗いたら、妙な男が、店を漁ってて……こら、すぐ頭を動かすなって」

 支えられながらゆっくりと起き上がり、カウンターに背を預ける。体を起こすとぽたぽたと青い染剤が垂れて床に広がっていくのがみえた。

「どんな……男ですか。誰が」

「わからん。中年のやつだ。見たこともない……すぐに逃げられたが、見つけてやるから無茶するな、ほら、ゆっくり」

 顔をあげると、たしかにそこに白川がいる。その顔を見て、蒼はほっと息を吐いた。

 白川は蒼の額にそっと指を置きゆっくり微笑む。

「うん。血の割りに傷は大したことねえな。あとで病院にいけよ。頭の傷は後でひどくなる。それに染剤が傷についてるのも気になる」

 現場で働いていたときと同じ口調で、白川が言った。

 その声を聞いて、蒼は苦笑する。

「ありがとうございます。前、現場で怪我をしたときから2度目ですね」

「……お、笑ったな、蒼」

「解体業してるとき、俺が足挫いた時、あのときも”足の傷はあとでひどくなる”って言ってましたよね」

「怪我はだいたい後でなんでも悪くなるんだ。まあ、笑えるなら問題ねえか」

 白川は立ち上がり、うわあと声を上げる。

「酒の入ったグラスがぶっ倒れてる。もったいねえ」

「瓶は無事ですか? 青と緑の」

「ああ、それは平気だ……しかし逃げ足の早いやつだ」

「中年って言ってましたよね。どこを漁ってましたか?」

「俺が見たときはレジ周りだ。あれは強盗か? このあたりは安泰だと思ったんだがな」

 白川がぶつぶつと、つぶやいた。彼も動揺しているのだろう。触れる体温が恐ろしく熱い。

「おい、今日は俺の宿に来い。またあいつ、来るかもしれない」

「俺は大丈夫です。それにここ、盗られるものなんてな……い……」

 動悸が収まると、世界がクリアに見える。そして蒼は目を見開いた。

「……!」

「おい、急に立ち上がるな」

 蒼は白川が止めるのも聞かず、椅子を支えに立ち上がる。

 カウンターにあるのは青と緑のジン。

 飲みかけていたジンフィズのグラスは、白川の言う通り転がって、氷と液体を撒き散らしている。

 ただ、それだけだ。それだけしかない。

 ……置いてあったピンクのノートが消えている。

「あの……ノート……ノートは」

「ノート……? ああ。床に落ちてる、これか?」

 震えた蒼だが、床に落ちているノートを見てホッと息を吐いた。

「他になくなってそうなものはないか?」

「ありがとう……ございます。多分……」

「俺が来たから諦めて逃げたのか、まあ食料狙いか、電話機も貴重みたいだからそれ狙いかもしれねえな。レジスターも骨董品だ。あれも無事みたいで良かった。盗ろうとして重くて諦めたか……」

 白川の言葉につられ、カウンター越しに見れば、レジスターの周りが荒らされている。

 が、すでに『青の世界』は隠してあるので心配はない。

 ただ気になるのは、レジスターの周りにあるパンフレット類や配給チケットが床に散らばっていることである。

 本を隠しておいてよかった。と安堵した蒼だが、次の瞬間には背を震わせる。

(配給チケットも、レジスターも、電話も、全部無事だ。冷蔵庫も開けた形跡もない……じゃあ、何が目的……で)

 やがて蒼は一つの結論にたどり着いた。

(もしかして……)

 拾い上げたノートには、黒い指の跡がある。蒼のものではない、大きな指の跡。

 誰かががむしゃらに掴み、奪っていこうとして……落とした。そんな跡。


「瑠璃、さん、だ」


 青の世界を置いてあったレジスター周りを荒らされた。

 ノートを奪われかけた。

 それは、瑠璃に、シアンにかかわるものばかり。

「瑠璃さん!」

 ふらつく頭を押さえて立ち上がったその瞬間。

「蒼、くん……?」

 奇跡のように入り口の瑠璃の姿が見えた。

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