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その後、瑠璃がどのようにパーティを終わらせたのか、ほとんど記憶にない。
味のしないピザを噛みしめ飲み込み、酒を口にしても一向に酔いは回らなかった。
何を話し何を聞いたのかも覚えていない。
ただ、ふらふらとする体は、酔ったと言い訳するのにちょうどいい。
送ると言ってくれる人々を振り切り外に出ると、まだ明るい。
通りすがる見知らぬ若者を見て、瑠璃は慌てて顔をそらした。フードを深くかぶり、亀のように首を小さくすぼめる。
(見られたらまずいから……日が暮れてから出歩けって言われてたのに)
ど、ど、ど。と、心音が瑠璃の中に響き渡る。それは警報音だ。
確か、引っ越してすぐは、息を詰めて生きていた。
遠くに行くのは日が暮れてから。日暮れまでは、極力近所の誰もいないところで過ごす……それが支援者との約束である。
前の住居の時も、その前の住居の時もそれを遵守し続けてきたはずだ。
だというのにキンコツに来てからの瑠璃はまるで浮かれっぱなしだ。
蒼の店に出歩き、あげく市場などにも顔を出した。
(……あの人たちの言うことも聞かずに)
送られてくる配給チケットや食料には「大人しく過ごすように」という無言の圧があった。だというのに、ここ数ヶ月の瑠璃は、そんな些細な約束さえ守れていない。
フードを目深にかぶったまま、瑠璃は逃げるようにアパートに飛び込む。
震える指で鍵をかけ、チェーンを閉める。近づいてくる子猫たちを抱きしめて窓の施錠を全て確認し、ようやくほっと息を吐いた。
(大丈夫、まだシアンだと、誰も知らない……まだ、大丈夫)
動揺して冷えた手に瑠璃は息を吹きかける。
瑠璃がここに住むのには条件があった。
シアンとバレないこと。見つからないこと。
誰かに見つかれば、瑠璃はすぐに「支援者」へ連絡をする義務がある。
大体は瑠璃が連絡をする前に、支援者が先に動く。
誰かに見つかれば、その翌日には新しい住所と、アパートの鍵。迎えの車がやってくるのだ。
そして瑠璃は問答無用で連れさらわれる。
誰かに瑠璃=シアンとバレたら、もう猶予はない。
(でも)
瑠璃は震える手を握りしめる。冷や汗が額から溢れて、落ちる。そのくせ体は冷たい。心臓が冷たい手で鷲掴みされているようだ。
(大丈夫……まだ見つかってない。誰にもシアンだって、バレてない。これからちゃんと、あの人たちの言うこと聞いて、外をむやみに出歩かなければ……もう少し、ここにいられる)
瑠璃は唇を噛みしめ、天井をにらむ。
(蒼くんの店にも、週に一回……2周間に一回、そう。それくらいにして。花子さんたちにも、できるだけ会わないようにして、少しだけ、そう、落ち着くまで)
幸いまだ、誰にも見つかってはいないのだ。全ては杞憂だ。
瑠璃は言い聞かせ、何度も深呼吸をした。
(封筒……?)
動揺を押し隠すように玄関先のビール缶の段ボールに腰を下ろし……瑠璃は初めて、床に落ちていた青い封筒を見つけた。
朝、郵便配達員が渡してきた封筒の、もう片方だ。受賞に気を取られ、すっかりこちらを忘れていた。
踏みしめられ靴の跡がついたそれを瑠璃は手にし……そして震えた。
「シアン……様」
送り主の名前はない。ただ表にはここの住所と、シアンの名前が刻まれている。
封筒に穴が開くほど、強い筆力で。
中は空だ。まるで住所を確認するためだけに送ってきた、そんな気配がある。
(いつまでも……追ってくる)
封筒を握りつぶしたが、心臓は早鐘を打つように鳴り響く。
子猫の頭に額を押しつけ、獣くさい香りを吸い込むと震えが少し収まった。
(あれから、もう7年経つのに)
違う……「まだ」7年だ。と瑠璃は思い直す。
花子の頭についた傷は、事故の大きさを物語っていた。
……シアンがいなければ、存在しなければ、あの事故は起きなかったかもしれない。
(私が逃げたこと、花子さんは、なんて、思って……)
あなたは子供だから。
まだ子供だから。
だから逃げなさい。
7年前のあの朝。誰かが瑠璃にそう言った。情けないことに、その言葉に押されて、瑠璃は逃げたのである。
シアンというもう一人の自分から。
しかし、同時に瑠璃は被害者からも逃げたのである。説明一つせず逃げたのだ。
せめてもの罪滅ぼしにと、瑠璃は小説を捨てた。
もう二度と書かないと決めた。しかしその約束を破って小説を書いてしまった。その途端に、シアンの影が追いかけてくる。
「違う、この小説はシアンじゃない。私の、私の小説で、私の……深山瑠璃の」
荷物の中には、大切に折りたたんだ受賞のお知らせの手紙がある。
深山瑠璃様と書かれたその文字を見て、初めて瑠璃はシアンから逃げられたと、そう思ったのだ。
『瑠璃というのはね、古い言葉で青の意味よ』
はるか昔、母の膝の上で聞いた声を瑠璃は不意に思い出した。
母がは瑠璃の髪を優しくなでながら、そんなことを言ったのだ。
『だから私たちは、あなたにその名前をつけたの。私達の人生を美しく彩る青の名前を』
地球の色。深みのある青の色。宇宙を目指す夫婦の間に生まれた娘に、科学者夫婦は瑠璃と名付けた。
科学者は小説家よりもロマンチストだ。瑠璃はそう思う。
そして科学なんてちんぷんかんぷんな瑠璃も、そのロマンチストの成分を少しだけ受け継いだのだろう。
ペンネームをつけることになった時、浮かんだのは青の言葉だ。青に係わる言葉を100も書き出して、母が指さしたのはシアンの一文字。
こちらは緑がかった暗い青。瑠璃が夜明けの色なら、シアンは日暮れの色。
『これも、青色の意味。瑠璃と同じ意味の名前』
母は、確かにそう言っていた。
「……無理だ」
瑠璃はいつの間にか溢れ出した涙を手で押さえ、つぶやく。
「だって、どっちも、私だ」
瑠璃もシアンも同じ青を指す。
シアンを捨てることなどできない。
シアンはずっと瑠璃のそばにいる。
「小説を書くことだけは、捨てられなかった……だって、私はシアンだ」
母を思って書いた小説も、息を詰めて物語を描いた時も、瑠璃は全て覚えている。
あの思い出も、あの一瞬も、シアンであった一分に一秒まですべて大切な記憶だ。
シアンも瑠璃も捨てられない。あげく小説さえ捨てられない……ならば、瑠璃のとる選択は一つだけだ。
「うん……」
子猫が瑠璃を心配するように、鳴く。小さな頭が瑠璃の膝に押し付けられ、小さな舌が瑠璃の指先を舐める。
ころりと転がる子猫の柔らかい毛をなでて、瑠璃は微笑んだ。
「今日は、日暮れが……遅いね」
今日はいつまでも日が暮れない。いつまでも世界が赤い。
「ごめんね、誰かに預けることができなくて」
夕日が窓から差し込むのを眺めて、瑠璃は子猫を抱きしめ寝転がる。
最小限の荷物でここに逃げ込んで来たはずだった。しかし今は、床の上に酒瓶に皿にカップがいくつか。そして可愛い子猫達。
気がつけば、キンコツに生活の基盤ができつつある。
しかし瑠璃は、この土地を捨てるのだ。温かな人間関係も、蒼への思いも全て。
「……私と一緒に行こうか。少し長い旅になるかもしれないけど」
コロコロと喉を鳴らす子猫の顎をそっと撫で、瑠璃はそう呟いた。




