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ごちそう様で、また明日  作者: みお(miobott)
遅い日暮れ、お祝いピザ
32/45

2

「なんだ。眼鏡のスペアあったんですね。だから取りに来なかったんだ」

 茜色に染まるバー群青の扉を開けると、蒼が開口一番そう言った。 

「絶対次の日に来るって思ったのに。心配したんですよ、裸眼でコケたら危ないな、とか」

 蒼は子供のように唇を尖らせている。その手の中にピンク色のノートが握られているのを見て瑠璃の顔が熱くなる。

 カウンター席には津島親子、花子の友達3人連れに、その隣には朝市で仲良くなった夫婦が一組、くわえて杜氏をしているという男性が一人。

 瑠璃が賞をとったときいて、これだけの人が集まってくれたのだ。蒼は忙しそうにキッチンを走り回っていた。

 そんな蒼の袖を掴み、瑠璃は小声で囁く。

「……いいから、早くノート返せ」

「もうちょっと持ってていいですか? まず料理作らせてくださいよ」

「そう言って返さないつもりだろう」

「もうちょっと手元においておきたいんです……ほら、それより、みなさん!」

 蒼が大声を上げると、店内の全員がこちらを見る。瑠璃の顔がカッと熱くなる。

 今日は日暮れが遅く、いつまでも夕暮れのように世界が赤くそまっているのだ。

 その熱が瑠璃の顔にまで伸びてきたようだった。

「主役の登場ですよ、先に乾杯しちゃいましょう」

 瑠璃の前には、最近では珍しいシャンパンが白い泡をあげている。

 どこかから、花子が手に入れてきた貴重なひと瓶である。祝い事にはシャンパンでしょう。その言葉が、じんわりと暖かかった。

 瑠璃は恐る恐る手に取り、顔の前に掲げる。と、皆が立ち上がり、瑠璃のグラスに自分のグラスをぶつけた。

「おめでとうございます、瑠璃さん」

 瑠璃の目の前で細いグラスが交わされる。グラスの向こうに見える青い色が美しい。シャンパンの泡に青色が透けて、まるで海の底のようだ。

 グラス越しに、蒼の笑顔が見える。

「本当に、おめでとうございます」

 蒼の優しい声に、瑠璃はぐっと息を飲み込んだ。

 ……普段は茶化すくせに、こんな時は真剣な顔をする。

 狡い男だ。と、瑠璃は思う。

(……大切な人がいるといったくせに)

 瑠璃はくだらない嫉妬心を飲み込む。

 蒼の大切な人が誰なのか、瑠璃は知らない。

 もしかすると、蒼とその人の気持ちは通じ合っているのかもしれない。

 しかし彼の私生活に踏み入る権利は瑠璃にはない。

 私生活を瑠璃に答える義務も、蒼にはないのだ。

 大切な人がいるくせに、関係のない瑠璃に優しい顔を見せるのがなんとも狡い。と、瑠璃は静かにシャンパンを飲み干した。

 そんな瑠璃を見つめて、蒼がふわりと微笑む。目があって、瑠璃は慌てて顔をそむけた。

「こらこら、若者。いちゃつくな」

 揶揄するような小左衛門の声に、瑠璃の顔が熱くなる。

 耳に心地いいしゃべり声も、カップの擦れ合う音も久しぶりのことだ。あの宇宙船の事故が起きるまで、瑠璃はこのような喧噪の中にいたのである。

 8年以上前の記憶は美しいセピア色に染まって、いつまでも瑠璃の心の中に沈んでいる。

(お母さん、宇宙機構の人……)

 ぼんやりと、瑠璃は雑音の心地よさに耳をすませる。

 タバコと酒の香りの中で、母やその仲間たちが楽しげに笑っていた声の中、眠るのがいつも心地よかった……。

 

「はい。ピザの上がりです」


 小左衛門の笑い声を遮るように、蒼が大きな皿をカウンターに置く。

 覗き込むと腹の鳴る匂いが顔を撫でた。

「……すごい、手作りだ」

「そうです。チーズとエビ。最近、外に窯焼きのオーブンを作ってみたんです。直火でいけるやつ」

 蒼は自慢げに胸を張って、目線を外に送る。

 最近、店の裏の空きスペースにピザやパンを焼ける窯を作ったのだという。

「レンガ組むのはみんなに手伝ってもらいましたけど。なかなかすごいんです。火力もあるし。あれなら大きなパンも焼けます。あとで瑠璃さんも見てくださいね」

「原始的なのがうまいんやな」

 小左衛門がシャンパンを飲み干し、ニヤリと笑う。

「やっぱりなんでも直火で焼かにゃあ」

 皿で湯気を上げるピザは、生地から蒼のお手製だという。

 上にはたっぷりのチーズと、小左衛門が港で手に入れてきたという大きなエビが山盛り載る。

 味付けは塩と青のり。直火のせいだろうか。外側がかりりと焼けて黒く焦げているところが食欲をそそり、瑠璃はごくりと喉を鳴らした。

「お祝いっていったらピザでしょ」

「それ、どこの情報なん?」

「なんかいいじゃないですか。大きくて、取り分けて食べられるし。今回は日本酒もあるから、和風にしてみました」

 和やかな笑い声が湧き上がり、杜氏が大きな日本酒の瓶の蓋を開ける。

 まだ発酵が浅いようで、ぽんと空気の抜ける軽い音と甘い香りが青い店内にゆっくりと広がった。



 できたてのピザのしょっぱさを噛みしめ、酒を口にすれば場はますます緩やかなものになる。

 今日は日暮れが遅いらい。

 外はいつまでも茜色のままで明るい。赤い光が店内に差し込むと、手元もピザもすべて暖かな橙色に染まり上がる。

「で、瑠璃ちゃん。その小説ってのはいつ見せてくれるん?」

 ふと、花子が瑠璃の隣に滑り込み、顔をのぞき込んだ。その温度と湿度に、瑠璃は少し震える。

 何年も人を避けて生活をしてきたせいで、人の温度に過剰な反応が出るのが寂しかった。

「えっと実は、あ……の」

 届いた手紙が百回は読んだ。そこには、授賞式という文字が輝いていた。

「……じゅ、しょうしきが」

 瑠璃は心音に引っ張られないように気をつけつつ、言葉を紡ぐ。

「授賞式があって、そこで……多分、印刷もあるけど、それだけじゃなくって」

 蒼も津島親子もじっと瑠璃を見つめている。その視線がくすぐったく、瑠璃は小さく縮こまる。

「朗読もあるって……来週、水曜……」

 その言葉に周囲がわっと湧いた。

 小左衛門は指を一つ一つ折りながら、大仰な声を上げた。

「今日が土曜……来週言うても、もうあと数日やないか」

「瑠璃さん、その日、僕仕事休みます。付いてきます」

 蒼が目を輝かせてカウンターから体を伸ばす。その言葉に小左衛門と花子が朗らかに笑う。

「蒼くん、必死やねえ」

「必死にもなりますよ。だって瑠璃さんって恥ずかしがり屋で約束しないとすぐ逃げちゃうんだから」

「へ、変なこというな!」

「ほんとに? 約束できます?」

 蒼の手がカウンター越しに伸ばされる。彼は小指を立ててにこりと笑う。

「瑠璃さん、指切り」

 花子に背中を押され、小左衛門に見守られ、瑠璃は唇を噛み締めたままこわばった手をのばす。

 ……絡んだ小指はまるで炎でもまとっているように熱い。

 蒼は指を絡めたまま、優しく上下に揺らす。

「指切りげんまん、ですね」

「別にそこまでしなくても、約束は守るし、別に大した距離じゃない。高山の駅の近くに、会館があるみたいで……そこで。あ、いや、でもそんな大きい規模じゃないって。賞状? みたいなのをくれるっていうので、い、行ってみよう……かなって」

 大急ぎで蒼から手を離し、瑠璃は冷たい日本酒で喉を潤す。

 言葉もまだ、うまくは紡げない。緊張に喉が張り付き、全身がこわばってしまう。しかし、確実に。少しずつ慣れてきている……そんな気がする。

 怖いながらも、隣に座る人の温度が心地いい。そんな感覚を、取り戻しつつある。

 何年も前に諦めたいろいろなことが、瑠璃の中に転がってくる。

 まるで、奇跡だ。

 真っ赤になる瑠璃を見て、小左衛門が微笑む。

「高山はちょっと遠いやろう。じゃあよ、その日はみいんな俺が車で運んだる。それでもう一回、みんなで打ち上げをしよう」

「あらあ、残念。その日はちょっと難しいんよねえ」

 蒼と小左衛門が明るく手を振り上げると、花子がふと、手を止めた。ピザオイルが指を伝って腕にまで垂れそうだ。瑠璃は慌てて布巾を手に取る。

「何よ母ちゃん。別にその日に用事や入れんでも」

「来週水曜言うたら、ほれ、日食があるみたいで」

「日食?」

「ほら……日食だったでしょう、あの事件のとき……だから宇宙事故の会合がね」

 花子に布巾をさしだしかけた瑠璃の手が、ふと止まった。

 背の低い花子の頭はちょうど瑠璃の目線の下にある。いつもは被っている花柄の大きなニット帽。今日、彼女はそれを被っていない。

 おかげで、頭の上についた大きな傷が見えた。

 ケロイドのように、頭の表面を削った、傷が。首に向かってまっすぐ降りる、傷が。

 瑠璃はその傷の付き方を知っている。

「ああ……瑠璃ちゃんは知らんかったかね。心配せんでええよ。もうね、痛くないんよ」

 固まった瑠璃を見て、花子がにこりと微笑む。

 たいしたことなどないのだという顔で。

 蒼がカウンターの端っこで、明るい笑い声を上げる……杜氏が冗談でも言ったのだろう。はじけるような笑い声だ。

 その声に重なるように、花子の言葉が静かに瑠璃の耳に忍び込む。

「……7年前のシアン号にね、乗ってたんよ、私」

 瑠璃の手から、渡しそこねた布巾だけが、ゆっくりと落ちていく。それがまるでスローモーションのように瑠璃の目に写った。

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