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「深山さん、手紙と荷物です」
……と、アパートの玄関が叩かれたのは早朝のこと。
無視を決め込もうと縮こまった瑠璃だったが、音に気づいた子猫たちがにゃあと鳴き玄関に爪を立てる。
その音でノック音がまた大きく響いた。
「深山さん、荷物です」
機械音のように淡々繰り返す声を聞いて、瑠璃は仕方なく立ち上がる。
「ここにサインを」
扉を開けると雨の香りがむっと部屋に滑り込む。
渋々顔をあげると、そこに一人の男が立っていた。
瑠璃は目をこすり、細める……いつもの中年の配達員だ。
先日、蒼の店で見た男とは異なる。
「なにか?」
「いや、この近所で別の配達の人を見たので……」
「さあ。配達人は何人もいますので」
瑠璃のぶしつけな目線を嫌がるように、彼は重い荷物を床に置く。そして瑠璃に一枚の紙を差し出した。
「……あの、サインを」
「すみません、眼鏡がなくて、あんまり見えなくって」
眼鏡は先日、蒼の店のカウンターキッチンに置き忘れてきた。風呂に入るときにも外さない眼鏡を、うっかり外してしまったのは失態だ。
小説を蒼に渡した。
その動揺のせいで、瑠璃は眼鏡を忘れて店を飛び出してしまったのである。
蒼に対して、一週間は逢わない。と瑠璃は宣言した。その言葉が自分を縛る縄となる。
取りに行くこともできないまま今日でようやく7日目。目を細めるのもすっかりくせになっている。
「はい、サイン……と」
ぎゅっと目を細めてサインを済ませ、瑠璃は大きな箱を足で部屋へ押し込んだ。
送り主の名前はどこにでもありそうな、平々凡々なフルネーム。荷物の内容はビール缶となっていた。
瑠璃はこの送り主の本当の名前を知らない。
知るはずもない。
この部屋を案内してくれた、母や父の協力者……おそらく宇宙開発の、誰か。
彼らは配給チケットや居住地の世話だけでなく、食料まで届けてくれるのだ。様々な偽名で。
それでも、ここ最近はビールなど届きもしなかった。
(蒼くんの店に行かなくなったから……かな。どこかで見られてる?)
瑠璃はビールの詰まったダンボールを見つめ、目を細める。
蒼の店から足が遠のいたタイミングで届くビールが不気味だ。
彼らは何も知らない顔をして瑠璃をどこかで見張っているのではないか、そんな気がする。
「……ん?」
ふと視線を感じ、瑠璃は顔を上げた。
気がつけば配達員がまだ、そこにいた。男は瑠璃の腕を見つめている。
昨日清書をしたせいで、まくり上げた腕にくっきりとインクの跡が残っていた。
右腕の内側には3つのホクロがあるが、その隣にインクがついている。そのせいで5つのホクロに増殖したように見えた。
瑠璃は恥じ入るように、慌ててシャツを下ろす。
「なにか?」
そう尋ねれば、彼はゆっくりと鞄から2つの封筒を取り出した。
「あと手紙も届いてます」
差し出されたのは白と青色の封筒、2通。
彼はそれだけ押しつけると、振り返りもせず去っていく。疲れたような青いクマが印象的な男である。
「愛想のない配達人だな……まあ人のこと、いえないけど」
玄関を施錠し、瑠璃はビール缶の詰まった箱に腰を下ろした。
そして渋々封筒をひっくり返す。この手の無機質な封筒は、いつもの「偽名」集団から送られてくる配給チケットに違いないのだ。
「チケット、まだあるんだけどな……まあ、そんなことをいうのも贅沢か。こんな時代に」
配給チケットやビール缶が嫌なわけではない。しかし、それを見るたびに瑠璃は実感してしまう……いつまでも逃げ隠れし続けて、偽名の彼らの助けなしでは生きていけない自分の身分を。
「地域、推進課……」
が、送り主を見た途端。瑠璃の目が丸く見開かれた。
指が震え、瑠璃の手からもう一通の青い封筒がはらりと落ちた。
それにも気づかず、瑠璃は慌てて白い封筒の上をちぎり取る。
封筒の中から出てきたのは簡素な一枚の紙だ。インクののりが悪い紙の上に、シンプルな短文が刻まれている。
一度読み、目を閉じ、恐る恐るもう一度読む。
「……え? 何? 深山……瑠璃様の」
息を吸い込み、瑠璃は手紙をぐっと顔に近づけた。
「……小説が……受賞……?」
まるで心配するように子猫が瑠璃の足下でにゃあと鳴く。
外は冬の冷たい風が吹いている。
しかし瑠璃の体温は、まるで燃えさかるように一気に上がった。
「……今日までの原稿、とりあえずこれで終わりです」
夕刻。
瑠璃は電車で数駅向こうの、キンコツ新聞のオフィスにいた。
家でまとめておいた何本かの記事を菊川に渡し、彼女が目を通すのをぼんやりと見つめる。
西日のきついこのオフィスは、冬でも温度が上がるのが特徴だ。
じんわりと汗の浮かんだ首を、瑠璃はそっと拭った。
周囲にあるのは、古いコピー機といくつかのデスク。机の上に乱雑に載せられた原稿用紙やペンにものさし。
ボスである菊川はほぼ毎日出社しているが、社員はほとんど在宅か営業に飛び回っているせいで、オフィスはいつ来てもがらんどうだった。
河川敷の送別会以来、瑠璃は先輩の顔を一度も見ていない。菊川情報によると、あの時いた人たちも、もう何名か辞めたらしい。
それでも仕事が回るのだから、菊川はうまくやっている……そう思う。
彼女といえばカチカチとペン先を出しては、しまう。それが癖なのか、モールス信号のような音を立てながら、菊川が瑠璃の文章を読んでいる。
(仕事の文章なら、目の前で読まれても平気なのに)
と、瑠璃はぼんやりと思う。
蒼にノートを渡す時のあの鼓動の速さだとか、指の震えを思い出すと恥ずかしくなってしまうのだ。
「今回も完璧ね」
「ありがとうございます」
素早く原稿を封筒に収める菊川をぼんやり眺めながら瑠璃は指先を握りしめた。
「深山ちゃん。次に渡せる仕事は来週になるけど……」
菊川はしっかりとアイラインの引かれた瞳で瑠璃を見つめる。
原稿を出したあと、瑠璃はいつも少しだけ残って仕事をする。それはなんとなく瑠璃が決めたルールだった。
暮れていく日の中、静かなオフィスで紙を整理する時間は嫌いではない。
しかし、今日の瑠璃はするりと椅子から立ち上がる。
「菊川さん、今日はもう帰っていいですか?」
「ん。いいけど……珍しいわね、日が暮れるまで帰るなんて」
ペンをカチカチ鳴らしながら、菊川が不思議そうな顔で瑠璃を見あげた。
「あ、わかった。あの青い子とデートだ」
面白がるような顔の菊川を見て、瑠璃は慌てて首を振る。
「ちが……あの……えっと……賞取ったって」
「……賞って?」
「実は……ちょっとした、あの、文章みたいな」
「文章みたいな?」
小説。という一言を、なぜか口に出すことができなかった。蒼に向かっては、はっきりということができたのに……何故か、菊川の前では口に出せない。
小説という言葉は口に張り付いて、喉の奥に沈んでしまう。
「紹介記事みたいな……のを書いたんですけど」
「ああ……前に、言ってた?」
「そうです。それが、あの、賞みたいなのを、とったって」
打ち上げられた魚のようにぱくぱく口を動かす瑠璃を、菊川が静かに見つめている。
「……で、お祝いの打ち上げがあるって、夕方から」
「深山ちゃん、それって……大丈夫?」
菊川の不安の原因がわからず、首をかしげれば彼女は慌てて言葉を足した。
「ほら、深山ちゃん、人見知りだから」
「地元の人たちばかりなので大丈夫です」
菊川に気づかれないように、瑠璃はほっと息を吐く。
……賞を取った。その情報を最初に伝えたのは、花子だ。
紹介してくれた人にまず伝えるのが礼儀だろうと、そう思ったせいである。
すると彼女はまるで自分のことのように喜び、気がつけばその噂はあっという間に町中に広がっていた。
町中といっても、10名にも満たないが。
みんなでお祝いをしましょう。と花子は当然のように言って、瑠璃は真っ青になる。
人に祝われるなど、瑠璃は慣れていない。人に見られるだけで、全身が震えてしまうほどだというのに。
仕事を理由に断ったが、花子は瑠璃の逃亡を許さない。まるで機密情報を聞き取るスパイのように、彼女は瑠璃の空いてる時間を探り出した。
昼が駄目なら夕方。明日が駄目なら今日。
今日の夕方以降開いているのなら、早速今夜、バー群青で打ち上げをしよう。なんでもこういうのは、早め早めが良いんだから。
瑠璃の知らない間にそんな話になったのである。
「それより深山ちゃん、眼鏡どうしたの」
「ああ、これ」
菊川はこれ以上、興味がないのかすんなりと話題を変えた。ホッとした瑠璃は、いつもの癖で目元に指を持っていく……そして、ああ。と頷いた。
いつもは触れる、金属の硬さが今はない。
「ちょっと、置き忘れてきちゃって」
裸眼で歩く道は、意外なほどに危なかった。道はあちこち陥没しているし、駅の中でも木の根っこが張り出している。
それを乗り越えて歩くのはなかなかに面倒で、瑠璃は久々に眼鏡の大事さを痛感した。
……思えば眼鏡も、件の偽名の彼らから与えられたのだ。こればかりは感謝だ、と瑠璃は思う。眼鏡を作るのも、今の時代ではなかなか困難である。
「忘れた場所は分かってるので今日取りに行きます」
「待って。転んだら危ないから、これ」
菊川が机から出したのは、銀のメガネケースだった。長い指先が弾くようにそれを開けると、中には銀縁の眼鏡が一つ。
差し出され、瑠璃は恐る恐るそれを受け取る。少し重いが、植物の蔓を模したテンプルのあたりが洒落ている。
「昔、ここにいた人が残していったものだけど、度数どう?」
促されるままかけてみると、赤い夕日が目に突き刺さる。
「……ちょうどいいです」
「良かった。あげるわ。目が悪いんだからスペアくらい持っておきなさい」
かけた瞬間、世界の解像度が一気に上がった。暮れかけた日差しを背に座る菊川、ホコリの積もった先輩のデスク、曇ったガラス窓に、カタカタ揺れるコピー機。
「それと打ち上げの話、また聞かせてね」
山のようなオフィス用品に囲まれて、菊川がにこりと微笑んだ。




