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ごちそう様で、また明日  作者: みお(miobott)
遅い夜明け、焼き立てまるパン
30/45

「おはよう」



 柔らかな声が耳をかすめ、蒼ははっと目を開ける。

「る……瑠璃さん」

 気がつけば蒼はカウンターに顔を突っ伏して眠っていたらしい。

 慌てて起き上がると、机においてあった空のボウルが床に落ちて派手な音をたてる。

「あぶな!」

 瑠璃が驚くような声をあげて、机の上のカップを掴んだ。

「蒼くん、珈琲こぼすところだったぞ」

「あ、今何時、で」

「7時」

「よかったあ。料理中だったんです。起こしてくれて助かりました。珈琲も、ありがとうございます」

 目の前には、マフラーとコートで完全防寒を決めた瑠璃がいる。彼女は相変わらず眉間にしわを寄せて蒼を見つめて、鼻を動かした。

 何か美味しいものでもあるのかと、期待する子猫のような顔である。

 その顔を見て、蒼は思わずほころんでしまう。

「残念。料理はまだ完成前ですよ」

「……扉、開けっぱなしだった。不用心だな」

 蒼の言葉に照れるように、瑠璃がぷいっと顔を背ける。

 その横顔を見て、蒼の頭が完全に覚醒した。たった一時間の仮眠で何か夢を見たような気がする。

 苦しくて悲しい過去を煮こごりにしたような夢である。

 しかしそんな重苦しさも、瑠璃の顔を見て一瞬で消え去ってしまう。

(……パンも無事だ)

 蒼は発酵中のパン生地を見つめ、ほっと息を吐いた。

 生地は風船のようにふんわりと、柔らかく膨らんでいるのだ。それを押さえてガスを抜くと、まるで生きているように、ふつふつぷちぷち音をたてる。

 柔らかく、暖かく、まるで命のようなパン生地を、蒼はゆっくり丁寧に丸め直した。

「……って、あれ?……扉壊れてる?」

 瑠璃が木の扉をがちゃがちゃと揺らしている。

「壊れてる、蒼くん」

 銀色のちょうつがいが浮き上がり、扉は斜めに傾いているのだ。

「そうなんです。実はこの間、買い出しに出て戻ったら壊れてたんです。それで締められなくって……ほら、何かぶつかった跡があるでしょ」

 扉には、黒くかすったような跡がくっきりと残っていた。

 台車か車がかすった、そんな跡だ。

「この道、目の前が緩いカーブだから、よく車が曲がり損ねてぶつかってきたり、台車が滑って落ちてきたりするんです」

「不用心すぎ」

「まあ盗られるものもないですけど。次の休みに直そうと思ってます……それよりパンを食べていきませんか?」

 トレイに丸めたパンを並べて、蒼はそれを恭しく掲げてみせる。

 可愛らしくも丸まったパン生地の上には、溶いた卵を塗りつけた。その上にごまをはらりと落とし、それを瑠璃に見せつける。

「焼きたてに、バターをたっぷり塗って食べられますよ」

 ようやく顔を出した朝日が、壊れた扉から滑り込み、パン生地を神々しく照らしだす。

 それを見て、瑠璃の喉がゴクリと鳴った。



「うう」

「気に入りませんか?」

 二人の前には焼きたての茶色の丸パンが湯気を上げている。

 ふかふかのパンは、焼くとさらに柔らかく膨らんだ。

 熱いうちに指で割ると、柔らかい繊維のような生地がサクリと広がる。湯気のあがるそこに冷たいバターをしっかり塗り込むと、一瞬で吸い込まれた。

 黄金色でべたべたになったそのパンを囓った瑠璃は、一言唸って目を閉じ、そして二口、三口。まるで吸い込むように、一つ目のパンを食べ終わる。

 彼女は眼鏡を外して机に置くと、眉間を指先でぎゅっと押さえた。

「……美味しいから困ってる」

「こんなのも、あります」

 二つ目のパンに手を伸ばした瑠璃に、蒼は真っ赤なジャムの瓶を差し出した。

 それを見て瑠璃の目が丸く見開かれる。

「……悪魔」

「合うと思いますけど」

「合うから困るんだ」

「じゃあ問題ありませんね」

 困るといいながら、瑠璃はジャムの瓶をねじりあけた。

 それは先日の朝市で手に入れた、貴重なジャムである。

 砂糖もフルーツも少なくなったこの時代、ジャムは贅沢で貴重な一品だ。しかし人間はどこまでも食に対して貪欲であるらしい。

 こんな時代でも、美味しいものを生み出そうとしてしまうのだから。

 瑠璃が瓶の中を覗いて、唇をきつく結ぶ。目が、とろりと幸せそうに揺れて、彼女は慌てて首をふる。

「ジャム、美味しそうだな……もう何年もたべてない」

「南の離島で採れる島イチゴを取り寄せて作ったらしいです。不思議ですよね。イチゴなんてそのまま食べた方が美味しいし、砂糖だってめったに手に入らないのに。この二つがそろったらジャムを作ってしまう人がいるんです」

「罪作りだ」

 眉間のしわをますます深くして、苦しむように瑠璃がジャムを一さじすくう。

 まだ湯気をあげているパンにジャムとバターを挟みこむと、ぎゅうっと閉じて彼女は祈るように目を閉じた。

 噛みしめて、彼女はまた怪獣のように呻く。

「冷たいと熱い、で完璧だ。美味しいパンを知ってしまうと、配給パンに戻れない」

「いいじゃないですか。また焼きますよ。今年のジャムはその一瓶きりですが、また来年も朝市でジャムを売るって、お店の人が言ってたので、来年には同じ物を食べられます」

「そうだな」

 蒼の何気なく言った一言に、瑠璃がふと目を細めた。

「これが最後じゃないんだもんな」

 瑠璃の言葉が、蒼の心を暖かく染めた。

 数日前まではこの町を出て行く算段ばかりしていた瑠璃である。

 何があったのか蒼には分からない。

 ただ突然、彼女はこの町を出ようとした。だから蒼は瑠璃に子猫を押しつけ、逃がさないように画策した。

 そんな瑠璃が今、未来の話をしている。

「瑠璃さん」

 蒼は思わず、椅子から立ち上がった。目の奥がじんと熱くなり、蒼の唇が震える。それを見て、瑠璃は不思議そうに首をかしげていた。

 眼鏡を外しているため、瑠璃の目がはっきりと見える。

 かすかに青みがかったアーモンド型の瞳は、何年も前に見たシアンの写真、そのままだ。

 髪の色を変え、恰好を変えたところで目を変えることはできない。

 そして特徴的な右手内側、3つのホクロ。

 ……シアンは、瑠璃だ。それを何度も確認しては、蒼は幸せな心地に浸ってしまう。

「ねえ瑠璃さん。そんなことより小説、見せてくださいよ。今日、そのつもりで来たんでしょ。前、僕がお願いしたから」

 蒼は瑠璃から目をそらし、皿を片付けた。熱い珈琲を淹れ、たっぷりのミルクと、蜂蜜も。

 蒼が小説、というと瑠璃の目が揺れた。困ったような、迷うような目だ。

 だから蒼は瑠璃のカップにほんの少しだけブランデーをくわえてやる。

「瑠璃さんの覚悟が決まるように、気付けにブランデーをいれておきましょう」

「そんな、人を大酒飲みたいに……そんなの、無くても……約束は守る」

 瑠璃が震える手で一冊のノートを取り出した。

 が、蒼が手を伸ばすと瑠璃は、ノートをギュッと抱きしめ体をそらす。

「その前に、休憩だ」

 彼女はまだ熱い珈琲にミルクとはちみつを呆れるほどくわえ、一気に飲む。熱そうに眉が寄る。それでも彼女はまるで気付けをするように、一気に飲み干した。

 ブランデーの量が多すぎたのか、彼女は軽くむせる。

「大丈夫ですか?」

「……べつに」

 渡す覚悟はあるが、まだ勇気がでない。そんな顔だ。彼女はまだ葛藤している。

 眉を上げ、下げ、濡れた口元を手で覆い、目を閉じる。百面相を繰り広げたあと、彼女はようやくノートをそっと机の上に置く。

「よ……読んでも良いけど感想をいうな」

「その中に、小説が?」

 それはボロボロのノートだ。ピンク色の表紙には何も書かれていない。ただ折り跡がたくさん見える。一瞬だけ彼女は中を開いて見せる。

「写しだけど」

 中には、くっきりとした文字が刻まれていた。

 もっとよく見ようと近づけば、彼女は音を立ててノートを閉じる。

「一言も、何もいうな。感想はいらない。面白いも面白くないも……口だけじゃなくって、顔にも出すな。あ、まって。やっぱり無理」

「駄目です。約束」

 蒼がノートを掴むと、瑠璃の指に力が入る。泣きそうな顔の瑠璃を見て、蒼の心臓がドクドクと跳ねた。

「感想、絶対に言いません。顔にも出しません。だから読みたい。読ませて」

「渡したら一週間会わないからな、絶対。その間にとっとと読んで、読んだことを忘れろ。あと、ノートを開けるのは私が帰ってから。約束を守れないならもう返してもらう」


「すみません、荷物です」


 冷たい風に顔を撫でられ、蒼と瑠璃は同時にはっと顔を上げる。

 気がつけば、壊れた扉の向こう、配達人が立っていた。

 カウンター越しにノートを引っ張り合う二人を見て、その男はあきれ顔で扉をたたく。

 大きな荷物には小麦粉、と書かれている。ちょうど取り寄せた荷物である。

「次が詰まってるんで、早くしてくれませんか」

「蒼くんの地域は配達人が違うんだな」

 荷物を受け取りサインをすれば、忙しそうなその男はスクーターにまたがり朝の町へと消えていく。

 その背を眺めて瑠璃が呟いた。

「うちは眼鏡の……もうちょっと中年だ。こんなに近いのに、結構配達人って多いんだな」

「家、近いんですか?」

「と、遠い! すごく!」

 ほろりと零した瑠璃の言葉を拾ってやれば、彼女は顔を真っ赤にしてかぶりをふる。

(……すぐ近くですよね)

 蒼はにやけ顔を押さえ、瑠璃を見つめた。

(知ってますよ)

 彼女の家は店を出て、斜めの道を横断したその先。ボロボロの白いアパートだ。

 しかしそれを口にすればすべてが終わる。だから蒼はきゅっと口を閉じた。

「も、帰る」

 瑠璃は飛ぶように椅子から飛び降りると、扉へと駆ける。

「それより、小説、絶対に感想は言うな」

 彼女はイチゴみたいに顔を真っ赤にして、店を飛び出していった。

 机の上には忘れていった大きな黒縁眼鏡、そして、彼女の小説が書かれた一冊のノート。

 少し残ったコーヒーからは、ブランデーの香りをまとった湯気が出る。

 朝日に照らされたカウンターテーブルを見つめて、

「……早起きは三文の得、ほんとだ」

 と、一人静かにほくそ笑んだ。 


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