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「おはよう」
柔らかな声が耳をかすめ、蒼ははっと目を開ける。
「る……瑠璃さん」
気がつけば蒼はカウンターに顔を突っ伏して眠っていたらしい。
慌てて起き上がると、机においてあった空のボウルが床に落ちて派手な音をたてる。
「あぶな!」
瑠璃が驚くような声をあげて、机の上のカップを掴んだ。
「蒼くん、珈琲こぼすところだったぞ」
「あ、今何時、で」
「7時」
「よかったあ。料理中だったんです。起こしてくれて助かりました。珈琲も、ありがとうございます」
目の前には、マフラーとコートで完全防寒を決めた瑠璃がいる。彼女は相変わらず眉間にしわを寄せて蒼を見つめて、鼻を動かした。
何か美味しいものでもあるのかと、期待する子猫のような顔である。
その顔を見て、蒼は思わずほころんでしまう。
「残念。料理はまだ完成前ですよ」
「……扉、開けっぱなしだった。不用心だな」
蒼の言葉に照れるように、瑠璃がぷいっと顔を背ける。
その横顔を見て、蒼の頭が完全に覚醒した。たった一時間の仮眠で何か夢を見たような気がする。
苦しくて悲しい過去を煮こごりにしたような夢である。
しかしそんな重苦しさも、瑠璃の顔を見て一瞬で消え去ってしまう。
(……パンも無事だ)
蒼は発酵中のパン生地を見つめ、ほっと息を吐いた。
生地は風船のようにふんわりと、柔らかく膨らんでいるのだ。それを押さえてガスを抜くと、まるで生きているように、ふつふつぷちぷち音をたてる。
柔らかく、暖かく、まるで命のようなパン生地を、蒼はゆっくり丁寧に丸め直した。
「……って、あれ?……扉壊れてる?」
瑠璃が木の扉をがちゃがちゃと揺らしている。
「壊れてる、蒼くん」
銀色のちょうつがいが浮き上がり、扉は斜めに傾いているのだ。
「そうなんです。実はこの間、買い出しに出て戻ったら壊れてたんです。それで締められなくって……ほら、何かぶつかった跡があるでしょ」
扉には、黒くかすったような跡がくっきりと残っていた。
台車か車がかすった、そんな跡だ。
「この道、目の前が緩いカーブだから、よく車が曲がり損ねてぶつかってきたり、台車が滑って落ちてきたりするんです」
「不用心すぎ」
「まあ盗られるものもないですけど。次の休みに直そうと思ってます……それよりパンを食べていきませんか?」
トレイに丸めたパンを並べて、蒼はそれを恭しく掲げてみせる。
可愛らしくも丸まったパン生地の上には、溶いた卵を塗りつけた。その上にごまをはらりと落とし、それを瑠璃に見せつける。
「焼きたてに、バターをたっぷり塗って食べられますよ」
ようやく顔を出した朝日が、壊れた扉から滑り込み、パン生地を神々しく照らしだす。
それを見て、瑠璃の喉がゴクリと鳴った。
「うう」
「気に入りませんか?」
二人の前には焼きたての茶色の丸パンが湯気を上げている。
ふかふかのパンは、焼くとさらに柔らかく膨らんだ。
熱いうちに指で割ると、柔らかい繊維のような生地がサクリと広がる。湯気のあがるそこに冷たいバターをしっかり塗り込むと、一瞬で吸い込まれた。
黄金色でべたべたになったそのパンを囓った瑠璃は、一言唸って目を閉じ、そして二口、三口。まるで吸い込むように、一つ目のパンを食べ終わる。
彼女は眼鏡を外して机に置くと、眉間を指先でぎゅっと押さえた。
「……美味しいから困ってる」
「こんなのも、あります」
二つ目のパンに手を伸ばした瑠璃に、蒼は真っ赤なジャムの瓶を差し出した。
それを見て瑠璃の目が丸く見開かれる。
「……悪魔」
「合うと思いますけど」
「合うから困るんだ」
「じゃあ問題ありませんね」
困るといいながら、瑠璃はジャムの瓶をねじりあけた。
それは先日の朝市で手に入れた、貴重なジャムである。
砂糖もフルーツも少なくなったこの時代、ジャムは贅沢で貴重な一品だ。しかし人間はどこまでも食に対して貪欲であるらしい。
こんな時代でも、美味しいものを生み出そうとしてしまうのだから。
瑠璃が瓶の中を覗いて、唇をきつく結ぶ。目が、とろりと幸せそうに揺れて、彼女は慌てて首をふる。
「ジャム、美味しそうだな……もう何年もたべてない」
「南の離島で採れる島イチゴを取り寄せて作ったらしいです。不思議ですよね。イチゴなんてそのまま食べた方が美味しいし、砂糖だってめったに手に入らないのに。この二つがそろったらジャムを作ってしまう人がいるんです」
「罪作りだ」
眉間のしわをますます深くして、苦しむように瑠璃がジャムを一さじすくう。
まだ湯気をあげているパンにジャムとバターを挟みこむと、ぎゅうっと閉じて彼女は祈るように目を閉じた。
噛みしめて、彼女はまた怪獣のように呻く。
「冷たいと熱い、で完璧だ。美味しいパンを知ってしまうと、配給パンに戻れない」
「いいじゃないですか。また焼きますよ。今年のジャムはその一瓶きりですが、また来年も朝市でジャムを売るって、お店の人が言ってたので、来年には同じ物を食べられます」
「そうだな」
蒼の何気なく言った一言に、瑠璃がふと目を細めた。
「これが最後じゃないんだもんな」
瑠璃の言葉が、蒼の心を暖かく染めた。
数日前まではこの町を出て行く算段ばかりしていた瑠璃である。
何があったのか蒼には分からない。
ただ突然、彼女はこの町を出ようとした。だから蒼は瑠璃に子猫を押しつけ、逃がさないように画策した。
そんな瑠璃が今、未来の話をしている。
「瑠璃さん」
蒼は思わず、椅子から立ち上がった。目の奥がじんと熱くなり、蒼の唇が震える。それを見て、瑠璃は不思議そうに首をかしげていた。
眼鏡を外しているため、瑠璃の目がはっきりと見える。
かすかに青みがかったアーモンド型の瞳は、何年も前に見たシアンの写真、そのままだ。
髪の色を変え、恰好を変えたところで目を変えることはできない。
そして特徴的な右手内側、3つのホクロ。
……シアンは、瑠璃だ。それを何度も確認しては、蒼は幸せな心地に浸ってしまう。
「ねえ瑠璃さん。そんなことより小説、見せてくださいよ。今日、そのつもりで来たんでしょ。前、僕がお願いしたから」
蒼は瑠璃から目をそらし、皿を片付けた。熱い珈琲を淹れ、たっぷりのミルクと、蜂蜜も。
蒼が小説、というと瑠璃の目が揺れた。困ったような、迷うような目だ。
だから蒼は瑠璃のカップにほんの少しだけブランデーをくわえてやる。
「瑠璃さんの覚悟が決まるように、気付けにブランデーをいれておきましょう」
「そんな、人を大酒飲みたいに……そんなの、無くても……約束は守る」
瑠璃が震える手で一冊のノートを取り出した。
が、蒼が手を伸ばすと瑠璃は、ノートをギュッと抱きしめ体をそらす。
「その前に、休憩だ」
彼女はまだ熱い珈琲にミルクとはちみつを呆れるほどくわえ、一気に飲む。熱そうに眉が寄る。それでも彼女はまるで気付けをするように、一気に飲み干した。
ブランデーの量が多すぎたのか、彼女は軽くむせる。
「大丈夫ですか?」
「……べつに」
渡す覚悟はあるが、まだ勇気がでない。そんな顔だ。彼女はまだ葛藤している。
眉を上げ、下げ、濡れた口元を手で覆い、目を閉じる。百面相を繰り広げたあと、彼女はようやくノートをそっと机の上に置く。
「よ……読んでも良いけど感想をいうな」
「その中に、小説が?」
それはボロボロのノートだ。ピンク色の表紙には何も書かれていない。ただ折り跡がたくさん見える。一瞬だけ彼女は中を開いて見せる。
「写しだけど」
中には、くっきりとした文字が刻まれていた。
もっとよく見ようと近づけば、彼女は音を立ててノートを閉じる。
「一言も、何もいうな。感想はいらない。面白いも面白くないも……口だけじゃなくって、顔にも出すな。あ、まって。やっぱり無理」
「駄目です。約束」
蒼がノートを掴むと、瑠璃の指に力が入る。泣きそうな顔の瑠璃を見て、蒼の心臓がドクドクと跳ねた。
「感想、絶対に言いません。顔にも出しません。だから読みたい。読ませて」
「渡したら一週間会わないからな、絶対。その間にとっとと読んで、読んだことを忘れろ。あと、ノートを開けるのは私が帰ってから。約束を守れないならもう返してもらう」
「すみません、荷物です」
冷たい風に顔を撫でられ、蒼と瑠璃は同時にはっと顔を上げる。
気がつけば、壊れた扉の向こう、配達人が立っていた。
カウンター越しにノートを引っ張り合う二人を見て、その男はあきれ顔で扉をたたく。
大きな荷物には小麦粉、と書かれている。ちょうど取り寄せた荷物である。
「次が詰まってるんで、早くしてくれませんか」
「蒼くんの地域は配達人が違うんだな」
荷物を受け取りサインをすれば、忙しそうなその男はスクーターにまたがり朝の町へと消えていく。
その背を眺めて瑠璃が呟いた。
「うちは眼鏡の……もうちょっと中年だ。こんなに近いのに、結構配達人って多いんだな」
「家、近いんですか?」
「と、遠い! すごく!」
ほろりと零した瑠璃の言葉を拾ってやれば、彼女は顔を真っ赤にしてかぶりをふる。
(……すぐ近くですよね)
蒼はにやけ顔を押さえ、瑠璃を見つめた。
(知ってますよ)
彼女の家は店を出て、斜めの道を横断したその先。ボロボロの白いアパートだ。
しかしそれを口にすればすべてが終わる。だから蒼はきゅっと口を閉じた。
「も、帰る」
瑠璃は飛ぶように椅子から飛び降りると、扉へと駆ける。
「それより、小説、絶対に感想は言うな」
彼女はイチゴみたいに顔を真っ赤にして、店を飛び出していった。
机の上には忘れていった大きな黒縁眼鏡、そして、彼女の小説が書かれた一冊のノート。
少し残ったコーヒーからは、ブランデーの香りをまとった湯気が出る。
朝日に照らされたカウンターテーブルを見つめて、
「……早起きは三文の得、ほんとだ」
と、一人静かにほくそ笑んだ。




