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「お? 瑠璃ちゃん、今日は蒼の店、空いてないんか?」
蒼の店を出て一歩。気がつけば目の前に一人の男の影がある。
その姿を見て瑠璃は思わず足を止めた。
「……蒼くん、風邪みたいで」
「やっぱりな。働き過ぎなんだよ、あいつはさ」
それは津島の息子だ。確か小左衛門という渋い名前だったように思う。
朝市で彼ら母子と親しくなったせいだろう。彼はこれまでにない優しい声で、明るく声をかけてくれる。
瑠璃も未だに少しだけ緊張するものの、以前よりも自然な会話ができるようになっている。
「じゃあ店はしばらく休みやな」
彼はいかつい眉を寄せ、蒼の店を睨む。そして瑠璃の手に新聞紙にくるまれた塊を押し付けた。
「じゃあ、瑠璃ちゃんにやる」
冷たいそれは、ずしりと重い。
「代わりにこれ、食ってくれ。魚や。鱗も内臓も取ってさ、茹でて乾かした。保存もきくし、ほぐして味つけなきゃさ、猫も食えるしな」
「あ……りがとうござ……」
「同じ町のよしみやないか」
小左衛門は手を振り上げ、早々に瑠璃に背を向けた。
道を通りすがる人々は、瑠璃を見て会釈する。先日、朝市で出会った人たちだ。
誰も奇異の眼差しで瑠璃を見ることはない。追われることも、怒鳴られることも。
……ようやく安住の場所を見つけた。瑠璃は思わず呟く。
骨のように入り組んだキンコツの町。蒼の店と、優しい人々。そこで少しだけ小説を書く日々。それは瑠璃がもう何年も求め続けた、優しい世界だ。
ようやくその世界が自分の手に転がり込んできた……その高揚感のまま、瑠璃は電車に飛び乗り、数駅。
古びたターミナル駅を飛び降りて、駅からすぐそばの雑居ビル。幸せな心地のまま瑠璃は階段を二段飛びで上がる。
3階、西向きの「キンコツ新聞」の看板の向こう。
「菊川さん」
部屋に飛び込むと、西日に染まった室内に黒い影が一つ。その影がゆるりと瑠璃の足元に伸びる。
「菊川……さん?」
黒い影は菊川の席に座っている。夕日を背にしているので顔はわからない。
ただ、静かに座っている。
目をこすり、瑠璃はその影を見つめた。
間違いなく、菊川だ……いつもと少しばかり、雰囲気が異なるが。
彼女は何か、真剣な顔で雑誌らしきものを読んでいる。それが何なのかは見えない。すべてが薄暗いオレンジに染まっているせいだ。
かつて、人はこの時を「彼誰時」と呼んだ。まさに彼は誰、だ。
「あの。深山、です……昨日は心配をかけて、しまって」
先程までのあたたかい気持ちが一気に静かに冷めていく。
「すみません、お邪魔、でしたか……」
瑠璃は息を整え、一歩、下がる。が、及び腰になった瑠璃の体を止めたのは、明るい声だった。
「ああ……深山ちゃん?」
影から放たれたのは菊川の声で、瑠璃はほっと息を吐く。
「すみません、仕事中に」
「ごめんごめん、仕事の資料に集中してたの。んもう。心配したんだから。今日だって全然連絡つかないし。まあお休みだったのにノンアポで連絡しようとした私が駄目なんだけど」
彼女はカーテンを勢いよく締め、電気を灯す。
とはいえ電力の共有が弱いので、つけてもオレンジの柔らかい光だけである。それでも菊川の顔がはっきりと見えて、瑠璃はほっとした。
一瞬だけ、菊川が全く別の人間に見えたのだ。
「今日……も、来たんですか?」
「そ。昼かな。たまたま近くに行ったからノックしたのよ。家にいた?」
……昼。瑠璃は頭の中で思い返す。
ちょうど一眠りしたあと、佐伯のオフィスに行っていた頃だ。
「寝てました」
瑠璃は小左衛門から貰った魚の塊をぎゅっと握りしめる。
「て……徹夜、してて」
「徹夜? 駄目よ。女の子なんだから、ちゃんと寝なきゃ。眠れなかったの?」
「実は、商店街の人に頼まれて……文章を……その、徹夜で」
「記事?」
菊川の切れ長の目が、瑠璃を見る。その目はまっすぐに射抜くようだ。
だから思わず、瑠璃は嘘を重ねる。
「……みたいな、ものです。私が記者って言ったら、書いてほしいって……あ、えっと。そうそう。今日は昨日の用事のことを聞きに来たんです。何か急用かなって」
答えた瑠璃の声に、菊川は肩をすくめてみせた。
そしてまるで興味を失ったように、
「忘れちゃった」
とだけ、つぶやいた。
本数の少ない電車を待って家に戻る頃には、夜はすっかり更けていた。
アパートの扉を開けると、腹をすかせた子猫たちが激しい抗議の声を上げる。
もうミルクは卒業で、この猫たちは固形物を口にする。
日に日に瑠璃に慣れてきて、家中を駆け回るほどに元気だ。
「はいはい、ちょっとまって」
彼らにほぐした魚を分け与え、瑠璃も食事を終える頃、夜は本格的に空を覆い尽くしていた。
(なんで……賞のこと、菊川さんにいえなかったんだろ)
電気を消したまま、瑠璃は窓を開ける。ちょうど空には美しい満月があり、電灯を灯さなくても部屋がうっすらと明るく輝いて見えた。
眠ってしまった子猫たちを起こさないように、瑠璃は窓辺にノートを引き寄せた。
みっしりと書かれた黒い文字は小説の写しだ。
興奮するように文字が揺れている。これを書いたことを、菊川には伝えるべきだったのでは。と、瑠璃は今更そんなことを思う。
記事を書く仕事をしている瑠璃が小説を書く。というのはさほど不自然ではないはずだ。
しかし、なぜか不思議と口にすることができなかった。
(まあ、賞を取ったわけじゃないし)
瑠璃は並ぶ文字を愛しむように、そっと撫でる。
足を抱えて座ったまま、瑠璃は自分の小説の文字を指でなぞった。
文字から息遣いが聞こえるようだ。
書いている時の心音、呼吸音、全部ここに閉じ込められているようだ。
(……書けてすごく嬉しかったこととか、泣きそうになったこととか、多分、菊川さんには伝わらない……伝えちゃいけない)
黄金色の光に照らされた墨色の文字は、光の加減か美しい青色のように見える。
一時期は見るのも嫌だった青の色が最近は愛おしい。
(シアンが、帰ってきた)
世界で一番大嫌いだったその名前が、今更愛おしくなっている。
(……おかえり)
瑠璃は、ノートを抱きしめ、静かに目を閉じた。




