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地域振興の看板がかかるビルを出て、瑠璃はうん。と伸びをする。
そのあと、蒼の店に足が向いたのはなんとなくだ。
入り口には珍しくクローズの看板が出ている。いつもの瑠璃なら引き返しただろう。
しかし瑠璃は先ほどまでの興奮に押されるようにその扉にそっと手をかけた。
……と、カウンターの内側で、真っ赤な顔の蒼が驚くように顔を上げる。
「蒼くん?」
「瑠璃さん!?」
蒼は驚くように声をあげ、同時に激しく咳き込む。その顔には大きなマスクが一枚。目が潤み、青い髪の下で揺れている。
鬼の霍乱だ。と瑠璃は目を丸めた。
「もしかして、風邪?」
「情けないんですけど、そうみたいで……あ、近づかないでください。移すと悪いんで」
いつもはひょうひょうとした蒼が珍しくも弱々しい。
平然とした顔で山を登っていく様子を思い出し、瑠璃は思わず笑ってしまう。
こんな風に弱っていると、やっぱり彼はまだ幼い少年に見えた。
「蒼くん、寝てなきゃ駄目じゃないか」
「寝てたんですけど、ちょっと小腹がすいて……丁度いま、降りてきた所なんです」
湿った声で咳き込み、彼は潤んだ目を押さえる。
「鍵も締め忘れたなあ、なんて思って。やっと降りてきた所に瑠璃さんが」
「何か作ろうか」
「瑠璃さんが?」
「私だってひとり暮らしが長いんだ。馬鹿にするな」
瑠璃は腕をまくり、キッチンに立つ。
蒼の性格なのか、キッチンはきれいに整えられていた。洗い場には水滴一つなく、皿やグラスはきれいに並ぶ。冷蔵庫にはたっぷりの食材、仕込み料理の数々。
それを前に、瑠璃は眉を寄せた。
作ると宣言したものの、瑠璃の料理レベルは最低ラインだ。
切って煮るか、配給品の蓋を開けるだけである。
見覚えのない食材。きれいなキッチン道具。そんなものが瑠璃を圧倒する。
「……何か、ご飯で、お粥、とか……」
「僕、エッグノッグが飲みたいです。ブランデーたっぷりの」
まるで瑠璃の思考を読んだように蒼の手が瑠璃の背後から伸びた。
案外大きなその手が、ブランデーの瓶を掴む。
冷蔵庫が開き、ひやりとした空気が瑠璃の顔を撫でる。蒼の長い指が卵を二つ、それと逆の手で牛乳の瓶をつかんだ。
「エッグ……?」
「言ってみればミルクセーキのあったかい版です」
「私が」
「作るので、一緒に、どうです」
「あ、えっと、その、蒼くん、風邪なのに、その」
蒼の顔が瑠璃の背後、肩あたりにあった。
髪が揺れ、青色の光に包まれる。熱っぽい蒼の息が瑠璃の耳を撫でる。
そういえば、これほど彼に近づいたのは初めてのことである。
「……もらおう、かな」
まるで抱きしめられるような形となり、瑠璃はうわずった声をあげた。
蒼は卵は割って、たっぷりの砂糖と一緒にしっかりと泡立てる。瑠璃はぼんやりと、器用に動く彼の指を見つめていた。
熱が出ていても蒼の行動は俊敏で、静かだ。
「瑠璃さん、どうしました?」
「ああ……いや、あの、手際がいいな、って」
「しっかり泡立てて……ふわふわの泡になるのがうまいんです」
蒼は少し照れるように眉を下げる。そんな顔をすると子犬のようだ。
「……ほら」
蒼の手の中で細かい泡がふんわりと湧き上がった。彼の目の前の鍋では牛乳が静かに温められている。
「牛乳があつすぎると卵がカチカチに固まっちゃうので、温度が難しいんですけど……」
蒼はカップに泡立てた卵液を流し込み、その上から程よく温まった牛乳をゆっくりと注いだ。
「すごい」
卵の黄金色の泡がふわふわと牛乳に押されて盛り上がった。それを見て、瑠璃からため息のような声が漏れる。
「上手だな」
「子供の時……お世話になった、先生に教えてもらったんです。もちろんお酒は入ってなかったけど」
コップから溢れる直前に蒼は手を止め、ゆっくり混ぜる。
「大人になったから、ブランデーもいれましょう。これ、移住が決まった人がくれたんです。そっちは瓶の硬度の基準、だったかな。そういうのが違うから、地球の瓶製品持っていくと割れちゃうんですって」
そして彼は、甘い香りのブランデーを惜しみなく注ぎ込んだ。
「もったいないですよね。いろんな物捨てることになるの」
暖かいエッグノッグが二つ、二人の前に湯気を上げている。
蒼は一つのカップを瑠璃に渡す。そしてもう一つを、持ち上げた。
「近づくと瑠璃さん照れるから」
「……っ」
蒼は冗談めかしてそういうと、瑠璃の背に自分の背を押し当てた。
まるで背中合わせのような形となったまま、瑠璃は暖かなカップを手で包み込む。
高い蒼の髪が、瑠璃の頭上で揺れていた。その光がエッグノッグの表面を青く染めている。
こうして並ぶと、蒼は背が高い。背中も広い。
言動からは想像もできないほど、きちんと男性なのだ。それに気づき、瑠璃の鼓動が早くなる。
「て……照れてない!」
「背中同士なら恥ずかしくないでしょ」
「別に恥ずかしくないって!」
「冗談ですよ」
蒼が楽しそうに笑うと、背中に触れた暖かさが増すようだった。
(気を抜くと、寝てしまいそうだ)
と、瑠璃は腹の底に力をこめる。
もう何年もずっと怯え、逃げるだけの日々だったというのに。瑠璃は久しぶりに、懐かしい感覚を味わっている。
それは安堵、という感覚だ。
「……い、いただきます」
そっとエッグノッグに口をつけると、甘い香りとブランデーの香りが鼻先にむっと広がる。
人生ではじめてブランデーを飲んだとき、なんとむせかえる香りなのだ……と瑠璃は眉を寄せたものだ。
しかしこの飲み物は恐ろしくまろやかだ。卵のせいだろうか。口当たりも、まるで煖炉の火のように柔らかい物になる。
知らないうちに冷え切っていた胃の辺りがふわりと、温まる。温い湯船に浸かっているように。
「今日は瑠璃さん、ご機嫌ですね」
蒼が瑠璃の吐息を聞きつけたように言う。少し体が楽になったのか、声の調子はいつもに戻りつつあった。
良かった、と素直に思えてしまう自分に、瑠璃自身が驚いた。
「そ……そんな顔に出てるか?」
「ええ。仕事でいいことが?」
「仕事じゃなく……なんていうんだろう。ずっと食べたくて我慢してたものを食べた。みたいな感じ……満腹の時でも、食べたいものがあると、無性に食べたくってたまらないものだろう?」
聞こえるのは、窓をたたく風の音。水の落ちる音に、冷蔵庫のたてる静かなモーター音。
蒼は外の荒れた気候など気づかない顔で、静かに瑠璃の言葉に耳を傾けている。
「……わかりにくいかな。えっと、我慢してたことを解禁したっていうか……」
体はエッグノッグで温かく、顔はほてり、指先まで熱がともる。
「えっと、あの……私、昨日津島さんに、あのお母さんのほう、だけど……頼まれてさ、文章を書いたんだ」
「新聞の記事みたいな?」
青色に染まるバー群青は、まるで海の底のように心地が良い。
瑠璃が書いた小説『青の世界』も、海の底に旅に出るシーンがある。
青色は、瑠璃と母を落ち着かせる色だ。
温かいエッグノッグと柔らかい青の色に、瑠璃の心はすっかりとろける。
「じゃなくて……えっと。しょ……」
「しょ?」
「……小説」
だから瑠璃は、思わず呟いていた。
普段なら、絶対に口にはしなかったその言葉を。
「……小説……を、書いた」
瑠璃の言葉を聞いた途端、蒼の体が大きく揺れる。その衝撃に瑠璃はきゅっと眉を寄せた。
蒼が大笑いをした……そんな気がしたのだ。
「わ……笑うな。私だって、小説みたいな……っぽいものを、書けないこともなくて。いや、書けないんだけど、素人なんだけど……っ」
「読みたい」
……が、蒼の反応は瑠璃の予想外のものだった。
気がつけば蒼が瑠璃に向き合っている。顔を赤くして、彼の目が大きく開かれる。
彼は大きな音を立ててマグカップをカウンターに置いた。
恐ろしいほど真剣な顔で、彼は熱い手で瑠璃の手のひらを掴む。
「読みたいです。読ませて、瑠璃さん」
「もう出しちゃって……手元には」
その勢いに驚き、瑠璃は一歩引く。しかし蒼はそれを許さないように、強く手を握りしめた。
「写しは?」
「……家に。でも結構そこから書き直したし、完璧にそのままじゃない、けど」
「良いです。持ってきてください」
「だって君、小説なんて読まないって言ったじゃないか」
「……けど。俺……僕は」
瑠璃の手を掴む、蒼の指が震えた。気がつけば彼の息が上がり、目がもうろうとしている。
「蒼くん!」
「……読ませて」
彼の額に手を押し当てれば、ひどく熱い。
「今は無理だ。熱がすごい」
「だって……読みたい」
「黙れ。大人しく寝てろ。寝ないと読まさない」
「寝たら……熱、下がったら、読ませてくれますか?」
「分かった、分かったから」
赤ん坊のようにだだをこねる蒼の肩を支え、瑠璃は彼を引きずるように2階へ向かった。
細くて軽く見えるくせに、実際は筋肉質だ。
腕も太く、足も大きい。腰もがっしりとしている。自分とは全く異なるその体に、瑠璃は戸惑った。
「重い! 自分で歩け!」
動揺を怒鳴り声で誤魔化して、瑠璃は震える足で扉を蹴りあける。そして熱のこもった布団に蒼を放り投げると、彼はまた瑠璃の手を掴んだ。
「ね、瑠璃さん。駄目、いかないで」
「いや、今日は会社行かなきゃいけないし、熱が下がったら必ず見せるから」
「絶対……約束ですよ」
約束を。と、蒼は何度か呟き、やがてその目が静かに閉じられる。
熱のせいで浮かんだ涙が、瞳からあふれて青い髪に吸い込まれるのが恐ろしく美しかった。
生きているのだろうか。息をしているのだろうか。不安になり、瑠璃は彼の唇に指を置く。熱い吐息が指に触れ、瑠璃はほっと息を吐く。
同時に、彼の唇に触れてしまったことに動揺し、尻餅をついてしまう。
「あ……蒼くん、寝た?」
すっかり眠ってしまった蒼を、瑠璃は遠巻きに見つめた。薄暗く熱っぽい部屋の中で、彼の肩だけがゆっくり上下している。
子どものような穏やかな寝顔だ。
彼はこの子どものような顔で、瑠璃にすがってきたのだ。
その時の熱っぽさや、湿度のある皮膚の温度を今更思い出し瑠璃は照れる。
「ああ、私は……」
彼に触れた指を握りしめ、瑠璃は目を固く閉じた。
読みたいと、そう叫んだ蒼の声がいつまでも瑠璃の中に響き渡っているようだ。
その声が、言葉が瑠璃の心の奥を暖かくする。
……読みたいと、そう望まれたのはどれくらいぶりだろうか。
そして、そのことを言ってくれたのが蒼でよかった。瑠璃はふと、そんなことを思う。
「私は……」
(この子が、好きだ)
それは、口に出してはいけない想いだった。




