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ごちそう様で、また明日  作者: みお(miobott)
二人のエッグノッグ
26/45

 薄い珈琲を淹れる。

 深夜の町を眺めながらペンを掴む。

 紙に最初の一文字を刻む。

 ただそれだけで、自室と世界が一本道でつながったように思えるのだ。



 アパートの一室で、瑠璃は固く目を閉じ息を吸い込む。 

(……よし、書くぞ)

 そして震える指を押さえ、息を吐いた。

 指は震えながら次の文字を刻む、文字は繋がり言葉となっていく。

(文字が、重なる)

 一文字、一行。文字を刻むごとに心臓が激しく揺れて、胸の奥がきゅうっと縮こまるようだ。 

 瑠璃の目の前、薄暗い手元には真っ白いノート。そこに刻まれている文字は、いつも仕事で書くような「記事」ではない。

 目の前にあるのは、風景だ。セリフだ。一文字で物語が動き出す。

 紙は一ミリも動いてないというのに、文字が刻まれるごとに紙の中で人が恋をして別れて悲しみ……そして幸せになる。

(ああ、私、今)

 そこには、小説が刻まれている。



 ……朝市のこと。

 花子が瑠璃を引っ張り込んだのは、市の一番端っこにある小さなテントの中。

 そこには年配の女性と男性が座っていた。入り口には「地域活性課」の文字がある。

 彼女は地域振興の仕事をしていると瑠璃に挨拶をし、そして一枚のチラシを差し出した。

 荒くて手触りの悪いその紙には、「キンコツ地域活性、作品募集」と刻まれていた。

 受け取った瑠璃は、要項の箇所で視線を止める。

 そこには、「小説募集」の文字があった。

 それを見た瞬間、その墨の色が黄金色に輝いたように見えたことを覚えている。

 跳ね返る心音と、乱れる息が苦しかったことも覚えている。


「記者さんなら小説も書けるんやないかと思ってねえ。文章書ける人なんて、だあれもいないもんやから、どうしようか困ってて」


 花子は無邪気な声で笑っていた。

 それを聞いた振興課の女性も目を丸くする。

「記者さん? それはすごいですね。実はこれ第一回目なんです」

 彼女が語ったのは、賞の成り立ち、応募要項。

 キンコツの地域促進のために、短編小説を募集しているのだ……それにぜひ参加してほしい。そんな話。

 できません。と、瑠璃が断ったのは3回。ぜひにと押された4回。しぶしぶ受けて、自宅に帰った途端に瑠璃は泣きそうになった。

 ノートを開き、最初の一行を刻むのにかかった時間は4時間だ。

 物語なんて二度と作れない。そう思い込んでいたのに、一度浮かんだ風景は頭の中で一気に動き出す。

 映画のように動く物語に瑠璃自身が圧倒される。早く書いてと、登場人物が囁いた。その声を聞いた気がする。

 早く、私はここにいる。

 そんな声を、数年ぶりに聞いた。

 確かに、聞いた。

 だから瑠璃はまず、呼吸を整える必要があった。

 意味も無く台所で湯を沸かし、猫を撫で、ぼんやりと毛並みを見つめた。

 明け方の光がするりと窓を染め上げるころ、瑠璃ははじめてその一行を刻む。

 あとはもう、まるで溺れるように文字に沈んだ。

 頭に浮かんだ情景が、声が、目の前のノートに刻まれていくのは奇跡のようだった。

 それはキンコツの町を巡る一つの物語。崩れる町と、新しい出会いと小さな恋と、小さな不思議。

 文字を刻むたび、母のぬくもりが隣にあるようだった。そうだ。昔小説を書いたころ、いつも母の足先や背中がそこにあった。

 瑠璃の小説は、常に母へささやきかけるための物語だ。

 「了」の文字を刻んだとき、すっかり陽はあがっていた。



 昼過ぎ、清書した小説を恐る恐る持ち込んだのは、駅前にある古くさいビルの片隅だ。

 地域推進課とプレートのかかった薄い扉を開くと、中には件の女性がいる。雑多な室内は、キンコツ新聞を思わせた。

 瑠璃の顔を見て、彼女はぱっと笑顔を浮かべる。

「あのう」

「いらっしゃい」

 微笑む彼女の胸元には、佐伯と書かれた名札がある。

 彼女はそれを瑠璃に見せながらまた微笑んだ。

「前回名乗り忘れましたね。私は佐伯。あなたは深山さんね……もしかして、もう持ってきてくれたんですか?」

 瑠璃の鞄の奥には、真っ黒な文字の羅列がある。

 それを覗き込み、瑠璃は初めて震えた。

(……浮かれて、こんなところまで来ちゃった)

 小説を書ける嬉しさ、興奮。そんなものが瑠璃をここまで運んだ。

 今となれば、書いていたときの興奮はすでに薄れている。紙の束を取り出す手が冷たく痛んだ。心臓が音をたて、背に汗が流れる。

 ……シアンは二度と小説を書くべきでは無い。

 罵られたその言葉が瑠璃の中によみがえった。


 子供の文章だ。

 たいした小説ではない。

 面白くもない。

 どうせ親の七光り。

 期待したが、がっかりだ……。


 そんな言葉が、文字が、忘れていたはずの声が、瑠璃の中に再びよみがえった。

 同時に腹の底が冷たく凍るような、あの感覚も思い出す。

「あ、だめだめ。引っ込めないで」

 思わず紙を引きかけた瑠璃だが、その直前に佐伯の手が紙の束を掴んでいた。

「心して読ませていただきます」

 白髪混じりの彼女は有無も言わさない勢いで瑠璃に微笑んだ。

 

 

 時間にして20分程度。しかし瑠璃からすれば1時間も2時間も経ったように感じられる。

「……すごい」 

 緩い太陽の光にただ照らされ立ち尽くしていた瑠璃は、女性の声を聞いてはっと顔を上げた。

 彼女は美味しいものを食べたあとのように、長い長い息を吐く。それは柔らかく優しい空気だ。

 そしてじっと紙の束を見つめたあと、彼女はゆっくりと微笑んだ。

「……この町の情景もよく分かるし……なんだろう、頭の中に映像が浮かぶみたいです」

「や、そんな、そこまで……褒めて……もらうほどの……」

 瑠璃の声はどんどんと小さくなる。うつむき、震える指を見つめる。寒いほどの気温なのに、汗がだくだくと流れているのがわかった。

「ちが……あの、ただ、なんとなく、思いついただけで、その」

「読んでる間、ずっと、引き込まれたんです。目を離して、ああ小説を読んでいたんだって気づいたくらい」

 佐伯は瑠璃を見つめた。その顔に悪意は無い。嫌みも、負の感情も。

 ただ素直に面白いと、彼女はそう漏らす。

 その顔を見て、瑠璃の心音がどんどんと静かなものになっていく。

 ……いつぶりだろう。

 こんなにも素直な感想を耳にするのは。

「これ、うちだけじゃなく、全国区の文学賞にも出しちゃっていいですか?」

「賞!?」

「最初はキンコツだけでやろうって話だったんですが、全国規模でもやろうってことになって……各地方から小説を集めて、文学賞を」

 彼女は瑠璃の小説を丁寧にファイルに収め、ぽん、とたたく。

「映像は道具が必要だけど、小説は、日本全国どこにいても読める……で、賞にすることで、色んな地域の小説を集めるんです。お願いするだけじゃなかなか集められないし……」

「あ……の」

「賞にして色んな人が地域小説に興味を持ってくれたら、あちこちから色んな風景が集まる。そして小説を読んだ人が、ああこんな場所にこんなところがあるんだなって、そう気がつく……ね、素敵なことでしょう?」

 佐伯はまるで宝物を見つめるように、原稿の入ったファイルを眺める。

「そして、その中でも賞を取った小説は、朗読を予定していてるんです」

「ろう……どくですか?」

「そう。プロの人がいるんです。その方に頼んで、授賞式を皮切りに全国を巡って、朗読を広げる……」

 さりげなく放たれたその言葉に、瑠璃は動きを止めた。

 朗読、という響きが瑠璃の記憶の奥底を揺さぶったのだ。

 母の病が深くなり、目も開けていられなくなった時、瑠璃は声に出して自分の小説を読んだのである。

 恥じらいがあったのは最初の数回だけで、すぐに慣れた。声に出して紡げば、母が嬉しそうに微笑むのが分かったからだ。

「目が見えなくても前が向けなくても声なら届けられる」

 佐伯は顎に手を置いて、窓から空を見た。そこから聞こえてくるのは奇跡の歌だ。

 この曲はまるで声が伝播するように、日本に、世界に広がった。

「この曲みたいに。声があれば世界中に届くんじゃないか……そう思うんです」

「……は、い」

 だから瑠璃は、呻くようにただ静かに頭を下げた。

「よろしく、お願いします」

 眩しい日差しだけが、瑠璃の足元を光らせていた。

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