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薄い珈琲を淹れる。
深夜の町を眺めながらペンを掴む。
紙に最初の一文字を刻む。
ただそれだけで、自室と世界が一本道でつながったように思えるのだ。
アパートの一室で、瑠璃は固く目を閉じ息を吸い込む。
(……よし、書くぞ)
そして震える指を押さえ、息を吐いた。
指は震えながら次の文字を刻む、文字は繋がり言葉となっていく。
(文字が、重なる)
一文字、一行。文字を刻むごとに心臓が激しく揺れて、胸の奥がきゅうっと縮こまるようだ。
瑠璃の目の前、薄暗い手元には真っ白いノート。そこに刻まれている文字は、いつも仕事で書くような「記事」ではない。
目の前にあるのは、風景だ。セリフだ。一文字で物語が動き出す。
紙は一ミリも動いてないというのに、文字が刻まれるごとに紙の中で人が恋をして別れて悲しみ……そして幸せになる。
(ああ、私、今)
そこには、小説が刻まれている。
……朝市のこと。
花子が瑠璃を引っ張り込んだのは、市の一番端っこにある小さなテントの中。
そこには年配の女性と男性が座っていた。入り口には「地域活性課」の文字がある。
彼女は地域振興の仕事をしていると瑠璃に挨拶をし、そして一枚のチラシを差し出した。
荒くて手触りの悪いその紙には、「キンコツ地域活性、作品募集」と刻まれていた。
受け取った瑠璃は、要項の箇所で視線を止める。
そこには、「小説募集」の文字があった。
それを見た瞬間、その墨の色が黄金色に輝いたように見えたことを覚えている。
跳ね返る心音と、乱れる息が苦しかったことも覚えている。
「記者さんなら小説も書けるんやないかと思ってねえ。文章書ける人なんて、だあれもいないもんやから、どうしようか困ってて」
花子は無邪気な声で笑っていた。
それを聞いた振興課の女性も目を丸くする。
「記者さん? それはすごいですね。実はこれ第一回目なんです」
彼女が語ったのは、賞の成り立ち、応募要項。
キンコツの地域促進のために、短編小説を募集しているのだ……それにぜひ参加してほしい。そんな話。
できません。と、瑠璃が断ったのは3回。ぜひにと押された4回。しぶしぶ受けて、自宅に帰った途端に瑠璃は泣きそうになった。
ノートを開き、最初の一行を刻むのにかかった時間は4時間だ。
物語なんて二度と作れない。そう思い込んでいたのに、一度浮かんだ風景は頭の中で一気に動き出す。
映画のように動く物語に瑠璃自身が圧倒される。早く書いてと、登場人物が囁いた。その声を聞いた気がする。
早く、私はここにいる。
そんな声を、数年ぶりに聞いた。
確かに、聞いた。
だから瑠璃はまず、呼吸を整える必要があった。
意味も無く台所で湯を沸かし、猫を撫で、ぼんやりと毛並みを見つめた。
明け方の光がするりと窓を染め上げるころ、瑠璃ははじめてその一行を刻む。
あとはもう、まるで溺れるように文字に沈んだ。
頭に浮かんだ情景が、声が、目の前のノートに刻まれていくのは奇跡のようだった。
それはキンコツの町を巡る一つの物語。崩れる町と、新しい出会いと小さな恋と、小さな不思議。
文字を刻むたび、母のぬくもりが隣にあるようだった。そうだ。昔小説を書いたころ、いつも母の足先や背中がそこにあった。
瑠璃の小説は、常に母へささやきかけるための物語だ。
「了」の文字を刻んだとき、すっかり陽はあがっていた。
昼過ぎ、清書した小説を恐る恐る持ち込んだのは、駅前にある古くさいビルの片隅だ。
地域推進課とプレートのかかった薄い扉を開くと、中には件の女性がいる。雑多な室内は、キンコツ新聞を思わせた。
瑠璃の顔を見て、彼女はぱっと笑顔を浮かべる。
「あのう」
「いらっしゃい」
微笑む彼女の胸元には、佐伯と書かれた名札がある。
彼女はそれを瑠璃に見せながらまた微笑んだ。
「前回名乗り忘れましたね。私は佐伯。あなたは深山さんね……もしかして、もう持ってきてくれたんですか?」
瑠璃の鞄の奥には、真っ黒な文字の羅列がある。
それを覗き込み、瑠璃は初めて震えた。
(……浮かれて、こんなところまで来ちゃった)
小説を書ける嬉しさ、興奮。そんなものが瑠璃をここまで運んだ。
今となれば、書いていたときの興奮はすでに薄れている。紙の束を取り出す手が冷たく痛んだ。心臓が音をたて、背に汗が流れる。
……シアンは二度と小説を書くべきでは無い。
罵られたその言葉が瑠璃の中によみがえった。
子供の文章だ。
たいした小説ではない。
面白くもない。
どうせ親の七光り。
期待したが、がっかりだ……。
そんな言葉が、文字が、忘れていたはずの声が、瑠璃の中に再びよみがえった。
同時に腹の底が冷たく凍るような、あの感覚も思い出す。
「あ、だめだめ。引っ込めないで」
思わず紙を引きかけた瑠璃だが、その直前に佐伯の手が紙の束を掴んでいた。
「心して読ませていただきます」
白髪混じりの彼女は有無も言わさない勢いで瑠璃に微笑んだ。
時間にして20分程度。しかし瑠璃からすれば1時間も2時間も経ったように感じられる。
「……すごい」
緩い太陽の光にただ照らされ立ち尽くしていた瑠璃は、女性の声を聞いてはっと顔を上げた。
彼女は美味しいものを食べたあとのように、長い長い息を吐く。それは柔らかく優しい空気だ。
そしてじっと紙の束を見つめたあと、彼女はゆっくりと微笑んだ。
「……この町の情景もよく分かるし……なんだろう、頭の中に映像が浮かぶみたいです」
「や、そんな、そこまで……褒めて……もらうほどの……」
瑠璃の声はどんどんと小さくなる。うつむき、震える指を見つめる。寒いほどの気温なのに、汗がだくだくと流れているのがわかった。
「ちが……あの、ただ、なんとなく、思いついただけで、その」
「読んでる間、ずっと、引き込まれたんです。目を離して、ああ小説を読んでいたんだって気づいたくらい」
佐伯は瑠璃を見つめた。その顔に悪意は無い。嫌みも、負の感情も。
ただ素直に面白いと、彼女はそう漏らす。
その顔を見て、瑠璃の心音がどんどんと静かなものになっていく。
……いつぶりだろう。
こんなにも素直な感想を耳にするのは。
「これ、うちだけじゃなく、全国区の文学賞にも出しちゃっていいですか?」
「賞!?」
「最初はキンコツだけでやろうって話だったんですが、全国規模でもやろうってことになって……各地方から小説を集めて、文学賞を」
彼女は瑠璃の小説を丁寧にファイルに収め、ぽん、とたたく。
「映像は道具が必要だけど、小説は、日本全国どこにいても読める……で、賞にすることで、色んな地域の小説を集めるんです。お願いするだけじゃなかなか集められないし……」
「あ……の」
「賞にして色んな人が地域小説に興味を持ってくれたら、あちこちから色んな風景が集まる。そして小説を読んだ人が、ああこんな場所にこんなところがあるんだなって、そう気がつく……ね、素敵なことでしょう?」
佐伯はまるで宝物を見つめるように、原稿の入ったファイルを眺める。
「そして、その中でも賞を取った小説は、朗読を予定していてるんです」
「ろう……どくですか?」
「そう。プロの人がいるんです。その方に頼んで、授賞式を皮切りに全国を巡って、朗読を広げる……」
さりげなく放たれたその言葉に、瑠璃は動きを止めた。
朗読、という響きが瑠璃の記憶の奥底を揺さぶったのだ。
母の病が深くなり、目も開けていられなくなった時、瑠璃は声に出して自分の小説を読んだのである。
恥じらいがあったのは最初の数回だけで、すぐに慣れた。声に出して紡げば、母が嬉しそうに微笑むのが分かったからだ。
「目が見えなくても前が向けなくても声なら届けられる」
佐伯は顎に手を置いて、窓から空を見た。そこから聞こえてくるのは奇跡の歌だ。
この曲はまるで声が伝播するように、日本に、世界に広がった。
「この曲みたいに。声があれば世界中に届くんじゃないか……そう思うんです」
「……は、い」
だから瑠璃は、呻くようにただ静かに頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
眩しい日差しだけが、瑠璃の足元を光らせていた。




