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山の中腹で開催される定例の月市は、煙るような朝霧の中で始まった。
細い山道の左右には、所狭しと日よけテントが並ぶ。
テントの色も形も様々だ。色々な場所からかき集めてきたせいだろう。
小学校の名前や聞いたことのない町内会の名前が刻まれたものもあった。
中に並ぶ机や椅子もあちこちの持ちよりなので、てんでちぐはぐ。
そしてテントの中に並ぶものも、野菜から肉、加工品に魚まで賑やかだ。
人が減った今の時代。地球に残ると決めた人たちは静かにキンコツを目指す。
そのせいで、キンコツはどことなく、美しいちぐはぐが広がっている。
「……すごいな」
蒼の隣の瑠璃が、ため息をつくように呟いた。
瑠璃が驚くのも無理はない。目の前には、見たこともないほどの人で溢れている。
しかしこれが、キンコツ月市……朝市のいつもの光景だった。
何かが燻される美味しそうな匂い、焼きたてのパンから漏れる湯気。
水を弾くような野菜。それを求めて大勢の人間が行き交っている。
とはいえ、観光客はほとんどおらず、ほぼ全員が顔見知りだ。
(この間来てたスーツと眼鏡は……)
蒼はさりげない顔で、周囲を見渡す。
瑠璃を怯えさせた男たちの顔を、蒼はけして忘れない。
……が、その男たちの顔はない。それを確認し、蒼はほっと息を吐く。
瑠璃といえば蒼の背中に隠れたまま、しかし隠しきれない好奇心で周囲を見渡していた。
「瑠璃さん、平気ですよ。好きな店見て回ってください。物々交換が基本ですけど、配給チケットでも交換できますから」
市は始まったばかりだというのに、もうすでに皆が大きな荷物を抱えていた。行き交う人たちに浮かぶ笑顔は本物だ。
蒼も思わずテントの中に目を送る……いいベーコンがいくつか見えた。
瑠璃を連れてくるのが目的だったはずなのに、食材を見つめているとどんな料理が作れるのか……そんなことを考えてしまう。
(染まったかな、俺も)
と、蒼は自分の髪に触れて思う。
髪も店も名前まで、青色に自分を染め上げたのは、シアンの影響だ。
この明るく社交的な性格だって、作ったものだ。もともとの蒼は、薄暗く厭世的な人間である。
(……今の俺は、全部作りものだ)
目を丸くして周囲を見渡す瑠璃を見つめ、蒼はぼんやりとそう思う。
バー群青だって、シアンを……瑠璃を呼び込むために始めた。
だから別に料理など適当でもよかったのだ。
しかし数ヶ月経った今では、不思議と料理のことを考えている。
自分が少しずつ変わっていくことを、蒼は感じていた。
「瑠璃さん」
変えてくれたのは、瑠璃だ、シアンだ。それを思うと蒼の心の奥が熱くなる。
恩返しなどという大それたことを蒼はできない。しかし少しでも力になれたらと、そう思う。
だから蒼は瑠璃の背を支え、彼女の肩をそっと押した。
「あ、蒼くん、やっぱり、私、人が」
「瑠璃さん、ほら。一歩前に足を出して。それで次はもう片方を前に」
「らっしゃい!」
派手な声が響き渡り、瑠璃の背が震えた。
それを見て、蒼は思わずその背を手を伸ばす……が、その前に甲高い声が蒼を引き留めた。
「蒼くん、来てたんやねえ」
振り返れば津島親子がそこにいる。花子が足を少しばかり引きずりながら、手を振り上げたところである。
彼女は蒼の隣にいる瑠璃を見て、ぱっと顔を輝かせた。
「あら、あなたも来たんやねえ」
蒼が瑠璃の肩をつつくと、彼女は渋々と言った顔で頭を下げる。
「み……深山……瑠璃といいます」
それ以上言葉が続かないのか、うつむいた瑠璃を見て蒼は思わず声を上げていた。
「津島さん聞いてください。瑠璃さんはなんと、新聞の記者さんなんです」
「……ば……!」
瑠璃はキッと顔を上げて蒼をにらむ。馬鹿といいたかったのだろう。そんな反応さえ面白く、蒼は小さく微笑む。
と、彼女は続いて蒼の足先を踏みつけた。しかし素知らぬ顔で、蒼は言葉を続ける。
「今回は皆さんとの交流のためにお連れしました」
花子に向かって無理矢理押し出せば、瑠璃は泣きそうな顔で蒼を見上げた。しかし蒼は心を鬼にして瑠璃を花子に託す。
「おいでおいで。お酒は飲める口?」
「は……い」
「よねえ。蒼くんとこの常連さんやもんねえ」
花子は満面の笑みを浮かべ、自然に瑠璃の腕に自分の腕を絡ませる。このあたりの自然差はさすが年の功だ、と蒼は舌を巻いた。
瑠璃は戸惑っているが、その顔に恐怖はない。だから蒼も安心して彼女に託すことにする。
「このあたりで日本酒を醸造してるんよ、この人」
花子が強引に瑠璃を引っ張っていったのは、小さなテントの前である。そこには大きな樽と小さな瓶がいくつも並び、近づくだけでぷんと日本酒の甘い香りが鼻をつく。
その香りに、瑠璃の瞳から緊張の色が消えた。
テントの前に立っていたのは、白髪の男性だ。
彼のテントには大きな木の樽と瓶が並ぶ。
紺色の法被を纏う男が、蒼をみて小さく頭を下げた。
「蒼くん。この間はどうも」
「先日はありがとうございます……瑠璃さん、この人ですよ。この間の、山廃の。ほら、あの時の」
先日、蒼は瑠璃に山廃の日本酒を振る舞った。
あの重くて甘い味を思い出したのか、瑠璃の目が少し丸くなる。
美味しかった。と、たどたどしく言う瑠璃に、男は目を細くして微笑んだ。
「足りないものも多いから手探りだし、手作業だから大量には作れないけどね」
彼はそう言いながら、一つの樽を開けた。と、周囲にぷんと甘い香りが広がる。道を行く人もふと足を止めた。
樽の中には、美しく澄み切った酒がたっぷりと揺れていた。
「ちゃんと精米してねえ、火入れまでしとんよ、この酒」
「ちゃんとというか、まあ昔ながらの無骨な日本酒の造り方だよ。ちっちゃい蔵で弟子と二人だけだから、たいそうなことはできないよ。麹をつけた米から酒母を作って、発酵させてもろみを絞って火入れしてって。愚直だけどね」
「まあ昔ながらの製法が一番うまいんやけどね」
樽を覗き込んだ小左衛門が太い眉を上げ、花子に向かって胸を張ってみせる。
「な、母ちゃん。漁だってそうや。昔ながらの網猟のほうが、荒い漁場でもよく捕れたりするからな」
その言葉に、男が微笑む。
白い陶器のグラスに酒が注がれた。ちゃぽんと揺れる音さえ美味しそうに聞こえる酒である。
「実はね、うちの実家は東の方で酒造りをしてたんだ。うちの親の代で廃業したけどね。でも名前だけは知られてたもんだから、偽物のうちの酒が出回って……アルコールを寄せ集めた混ぜもんの酒をうちの酒だと出されてね」
男は淡々と、平然とした顔で言う。が、実際はそれほど簡単な話ではないはずだ。その顔の下にかすかな悔しさが浮かぶのを蒼は見逃さない。
「親は遠い星の向こうで何も知らず死んでしまったが、疑いを晴らすのは生きている人間の義務だとそう思って、それで細々やらせてもらってます」
男は微笑んで、器を瑠璃に渡す。彼女は一瞬躊躇したが、その甘い香りに負けたように手に取る。
そしてそっと唇を器に寄せた。
「あ……美味しい……」
ほっと、漏れたその言葉に男の顔も緩む。
横で息を詰めて聞いていた小左衛門の顔もほころぶ。
男は安心したように蒼や花子、小左衛門、さらには通りすがりの客に酒を振る舞った。
「日本酒造りに一番大事なのは季節なんだけどね、この時代じゃ季節もバラバラで春になったり夏になったり忙しい。でもこのキンコツの周りだけは不思議と少しだけ四季が残っててね。それが酒造りに向いてる。この酒はひやおろし」
美しく透き通ったそれは、水に見えて水ではない。
米のうまみがぎゅっと詰まったそれを口に含むと、とろりと甘い刺激が口の中に広がった。
「春のころに火入れをして、桶に直して夏を越す。本当ならまた冷えたころにもう一度火を入れるんだが、それをせずに下ろした酒だ。味が少しだけまろやかだろう」
美味しいと誰かが言って、誰かがうなずく。わっと集まった人々は配給チケットやパンや肉を差し出して緑色の酒瓶と交換していく。
瑠璃と蒼も気がつけば一本ずつかかえていた。
「蒼くん!」
一歩進めばまた別のテントから声がかかる。若い人間が珍しいのか、蒼と瑠璃が歩くだけで注目の的だ。
「揚げたて天ぷらもあるよ」
差し出されたのは串に刺さってからりと揚がった黄金色の天ぷらだ。エビに白身魚、ししとうに、カボチャ。
ふんわりさくりと揚げられtいて、寒い空気に晒すと湯気があふれる。油ぎった塩味が寒い空気によく似合う。
ふかふかのカボチャを噛み締めた瑠璃は目を丸くした。
「お……美味しい」
「天ぷらいいですね。こんなふうに串に刺したら、片手でも食べられるし。うちでも出そうかな」
「ん……いいな、天ぷら」
呟けば、瑠璃が珍しくも満面の笑みで蒼を見上げる。少し酔ったのか、顔はすっかりリラックスしていた。
周囲は多くの人が行き交って、白い息をあげている。土と野菜の香りに朝日が差し込み、周囲は柔らかな色に染まる。
幸せな風景に、蒼の胸が締め付けられた。
「新しい人が増えると嬉しいわ。特にこんな若い子がねえ」
花子は一口飲んだだけでもう酒が回ったようで、頬が赤い。
その顔を見て、瑠璃が唇をかみしめている……勇気を振り絞るように、彼女は花子の前に立つ。
「あ……の、猫を、もらって貰えませんか」
「猫?」
瑠璃は唐突にそう言った。
いつ言おうか、ずっと迷っていたのだろう。迷いすぎたせいで、唐突な一言になったに違いない。
蒼はハラハラと、瑠璃の背を軽くつついた。
「瑠璃さん、その前に、説明しないと」
瑠璃はそれに気づき、また顔を赤くする。
「あの、えっと……子猫が……子猫を貰ってしまって、今、家に、いて」
「それで、誰か飼ってくれる人を探してるんです。ね、瑠璃さん」
慌てて助け舟を出すと、瑠璃がほっと息を吐く。
「……そう、なんです」
「ごめんねえ、私はアレルギーでねえ……でも他の人にも聞いてみよっか」
花子の軽い言葉に、瑠璃の目に安堵の色が広がる。同時に、蒼の心に黒い影が差した。
……猫が彼女のもとにいる限り、彼女がキンコツから離れることはない。そう思っていたのに。
しかし、それは蒼の勝手な願いである。
猫の存在を言い訳にして、このまま彼女がキンコツに住み続けてくれないか。そんなことを密かに願っていた。
「その代わりといっちゃなんやけど……」
蒼の気持ちにも気づかず、花子は瑠璃にそっと耳打ちする。何を語ったのか、瑠璃は目を丸くした。
そして花子は瑠璃の手をつかむなり、
「じゃあ皆に紹介しようねえ」
……と、瑠璃をさらっていこうとする。
「あ、津島さん、僕も」
「男子は禁制」
思わず手を伸ばした蒼だが、その手は無惨にも打ち払われた。
いたずらっぽく微笑んだ花子が、瑠璃の手を掴んで人混みに消えていく。嫌だ。と思わず漏れかけた本音を蒼はぐっと飲み込む。
「おいおい、怖い顔すんなや」
蒼の背を叩いたのは小左衛門だ。
「母ちゃん、いっつもあれや。まあ蒼、男二人で市場でも見て回ろうや」
楽しそうに人混みに消えていく二人の背中を見つめ、小左衛門が苦々しそうに呟く。
人混みの合間に見え隠れする瑠璃の横顔は、戸惑いながらもかすかに笑顔だ。
その顔を見て、嬉しさ半分、複雑な苦しさが半分。蒼の心を支配する。
この苦しさを、この感情の名前を蒼は知らない。
親に捨てられた時も、施設で苦しんだときも、こんな感情など抱いたこともない。
瑠璃は命を救ってくれた、この世界に引き戻してくれた唯一の人。
彼女が幸せになるのなら……人と触れ合い、苦しい状況から逃げ出させるなら、蒼は喜ぶべきだ。
瑠璃に対して感謝の念こそあれど、こんな複雑な感情を抱くことはなかった。
「蒼」
小左衛門が苦笑して蒼をつつく。
「見すぎや。ちょっとは隠せえ。嫉妬深い男はもてんぞ」
「……はい」
小左衛門に急かされ、蒼はようやく歩き始める。
一歩進むごとに鼓動が脈打ち、冷たい空気を吸い込むごとに心臓が痛くなる。
……それは嫉妬心だ。瑠璃の隣に立つ花子を見て、蒼は嫉妬したのだ。
初めて認識した自身の感情に蒼は戸惑う。
(あり得ない。駄目だ、こんな想い)
振り払おうとしても振り払えない想いに、蒼は胸を押さえた。
嫌でも自覚してしまう。
……蒼は瑠璃に対してファン以上の気持ちを抱いている。
蒼はいつからか、瑠璃に恋をしていた。
瑠璃が花子から開放されたのは、夕刻のことである。
朝市と名前をつけながら、実際には夜遅くまで開催される。
しびれを切らした蒼が瑠璃を探しにいけば、彼女はすっかり出来上がっていた。
花子に連れられて、あちこち飲み歩かされた瑠璃は、真っ赤な顔で蒼を迎えたのだ。
少しばかり陽気になった彼女の顔からはすっかり緊張が溶けてしまって、まるで小さな子どものような笑顔を浮かべていた。
水を飲ませて落ち着くまで待ってさらに2時間。二人が下山し、バー群青にたどり着いた時にはもうすっかり夜は更けていた。
「深山ちゃん!」
暗がりから声があがり、蒼はとっさに瑠璃をかばう。が、闇から姿を見せたのが瑠璃の上司の菊川だったので、蒼はほっと息を吐いた。
「菊川さん?」
「どこいってたの」
酔いを覚ました瑠璃は、驚くように目を丸くする。
菊川は蒼が見えてもいないように、瑠璃の前に駆けつけて、長い長い溜息をつく。
「え、今日って……仕事でしたっけ」
「……休みだけど。ちょっと用事があって、アパートに行ったらいないし店も閉まってるし」
「えっと」
菊川といえば、いつもの細身のスーツという軽装だ。
しかし手先と足の甲が赤い。いつからそこにいたのか、髪も少し冷えて固まっている。
菊川の勢いに驚くように、瑠璃は目を白黒させる。手に入れた日本酒や食べ物を背中に隠し、蒼をちらりと見上げた。
困ったような顔をすると、まるで捨てられた子犬のようだな、と蒼は思う。
「すみません。瑠璃さんを引っ張り回して……天気が良かったので、山に散策に行ったんです」
「……そう。蒼くんと、ちょっと、山登りに」
とっさについた嘘に、瑠璃は安堵するように息を吐く。不自然な言い訳だったが、菊川は気づかなかったのだろう。彼女は瑠璃の肩に手をおいてようやく微笑む。
「心配……したあ」
「え、そんなに?」
「その子が一緒なら、そんなに心配もないかとは思うけど、最近は変な人も多いじゃない」
菊川の顔は少しやつれて見える。たった半日、姿が見えないだけで異様な心配の仕方だ。蒼の視線に気づいたように彼女は肩をすくめてみせた。
「うちの会社では唯一の若い女の子でしょ。心配なのよ。お願いだから遠出する時は一言いってちょうだいね」
蒼くんが一緒なら安心だけど。と、強調するように彼女は二回言い、そして背を向けた。
すっかり闇の落ちたその中に、彼女のほそい背だけが揺れている。
「あの、菊川さん、用事って」
瑠璃が戸惑うように彼女を追いかける。しかし菊川は、瑠璃をちらりと見ただけで首をふる。
「……明日でいいわ。もう疲れちゃった」
その声だけが、誰もいない路地に静かに響いて消えた。




