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ごちそう様で、また明日  作者: みお(miobott)
角煮おにぎり&濁りワイン
24/45

1

 翌朝、瑠璃が目覚めたのはいつもどおりの8時前。

 雪か雨が降っていてくれたら。と、祈って開けた窓の向こうはこれ以上ないほどの晴天だ。

 心地よい春めいた風が吹く、まさにお出かけ日和の朝である。



 猫にミルクを与えれば、彼らはあっという間に眠ってしまった。

 すやすや眠る子猫をしばらく見つめた後、瑠璃は「よし」と覚悟を決める。

 店の方角に向かえば、すでにそこには用意万端な蒼の姿があった。

 背中には大きなリュック、それに手にはしっかりとした鞄も持っている。

 おずおずと歩く瑠璃を見つけると、蒼は日差しより眩しい笑顔で腕を振った。


「瑠璃さん、おはようございます。いい天気で良かったですね」


 山の中腹に、月市が立つ。というのは蒼の情報だ。

 もし数ヶ月前の瑠璃なら、蒼の誘いをすぐさま断っていただろう。

 人が集まるような場所に自ら顔を晒しに行くなど、自殺行為である。

 逃げ回る生活が身に染み付いてしまったせいか、瑠璃は人の多い場所が苦手だ。

(……なんで断らなかったんだ) 

 今更、瑠璃の中に後悔がじわじわと染み出していく。

 足取りが重く、額に変な汗が浮かぶ。地面を見つめ、ゆっくり一歩、また一歩。

 いい天気のはずなのに、瑠璃の眼の前はただただグレーに染まってみえた。

(猫のことだって蒼くんにお願いすればよかったんだ。なのに、なんで断れなかったんだろう)

 最近、キンコツには変な人間が多い。妙に居場所を探ってくる人間が多い。

 もし、瑠璃の素顔を知る人間がいたら?

(……もし……月市で誰かにシアンだと、騒がれたら?)

 瑠璃はきつくきつく拳を握りしめる。蒼に自分の正体がバレるのは嫌だ。と、腹の底が震える。

 きっと、正体がバレれば蒼は瑠璃を軽蔑するだろう。それを想像するだけで恐ろしい。

(なんで、あの時……行きたい、なんて) 

 何も知らない顔で眩しい笑みを浮かべる蒼を見て、瑠璃は呆然と考える。

(行きたいなんて、思っちゃったんだろう)

 一番の問題は、瑠璃が蒼ととも出かけたい。そう思ってしまったことである。

「あ、の。蒼くん」

「はあい」

「先に釘を差しておくけど、楽しみにしてるとか、そう言うんじゃないからな。猫のこともあるし、里親探しに行くだけで……」

「良いですよ。そういう感じでいきましょう」

 進もうとする蒼をみて、瑠璃の足が震えた。

「そういう感じ、とかじゃなく……て」

 蒼は相変わらずの笑顔で瑠璃を見る。

 彼なら市場に入っても、難なく馴染むことができるはずだ。

 しかし、瑠璃にはそんな些細なことも難しい。

「いきましょうか、瑠璃さん」

「……いきなり人が多い所は……無理かもしれない」

 瑠璃は足を止めて呟く。

 相変わらずバー群青の近くには人が少ない。当然だ。ここは中心地から外れている。こんなところで店をするなど、酔狂にもほどがある。

 そのせいで、瑠璃の震える声が必要以上に響いてしまう。

「私は、その……人と会話するの、苦手だから」

「じゃあまずは慣らしで、山を散策でもしませんか」

 覚悟を決めた瑠璃の言葉に、蒼は笑顔を崩さずそう答えた。

 

 

「瑠璃さん運動不足ですね。だめですよ、たまには運動しなきゃ」

 整備されていない砂の山道を一歩踏みしめるたび、瑠璃の息が荒れる。

 何度も咳き込み、瑠璃は足を止める。しかし一度歩みを止めると、次に歩き始める時にもっと辛い。だから体に鞭をうち、瑠璃は必死に先導する蒼の背中を追った。

「さん……散策って、散歩って……言った、くせに」

「散歩です。僕にとっては」

 蒼のいう「散策」はそんなに気軽なものではなかった。

 彼は月市の行われる山に繋がる、登山道へと瑠璃を誘ったのだ。

「月市が行われる中腹まではドライブウエイが繋がってますけど、そっちは人も車も多いんです。でもこの登山ルートは古い道で、わざわざこっちから回り込む人はいません。前に養鶏場まで瑠璃さんに連れて行ってもらって、僕も反省したんですよ。もっとこの町の地図覚えなきゃって」

 蒼は息も乱さず、瑠璃の数歩先を軽快に進む。

「で、この間下見に来たんです。一緒に月市行く時、使えないかなって……ね、人、全然いないから、ちょうどいいでしょ?」

「確かに……人はいない、けど。ここ、歩いちゃいけない、場所、なんじゃ」

 山は陸地以上に野放図だ。地面はガタガタのくせに木々が横向きに生えていて、崩れた木や枝も転がる始末。

「整備されてない、から……」

 瑠璃は長い長い息を吐いて、肩で息を整える。

 枝に頭をぶつけないように気をつけていれば、足元をとらわれる。下ばかりを見ていると、木に激突する。

 久々に動いた瑠璃の体の奥からギシギシ嫌な音がした。

(子供の頃だって……こんな山、登ったことない)

 息の乱れを咳払いで誤魔化して、瑠璃は呻く。

 幼い頃、この山を見たことはある。何かお堂のような物があるのだと、母が語っていた気もする。

 しかし運動を蛇蝎のごとく嫌っていた母は、山に足を伸ばすことはなかった。

 だから瑠璃にとって、山は見るものであり登るものではないのだ。

「わ……私は君みたいに一日中立って仕事のできるような化け物じゃないんだ」

 汗一つ流さず先を歩く蒼が、ふと足を止める。

「ひどいなあ……ああ、怪物といえば本物の怪物がそこに祀られてますよ」

 彼が指したのは小さな看板。崩れているせいで、文字は見えない。

 その看板の後ろはただ鬱蒼とした茂みである。

 蒼は何事もないように、その茂みに足を踏み入れた。

「ちょ、待って。まさか蒼くん、こんな茂みの中」

 蒼は瑠璃が止める声も聞かず、茂みの隙間に潜り込んでいく。

「大丈夫、ここ道です。先週来た時は茂みが薄かったんですけど、雨で育っちゃったのかなあ……瑠璃さん、頭だけぶつけないように気をつけて」

 体を覆い隠すような茂みの向こうから、蒼の声が聞こえる。

「蒼くん。こんなとこ」

 瑠璃は戸惑うように、茂みの前で足を止めた。

 が、蒼が中に潜ってしまうと、瑠璃は一人だ。周囲を飛ぶ鳥の声や風の音が恐ろしく、慌てて茂みに足を踏み入れた。

「わ……嘘、つくな。道、じゃない! 多分!」

「足元よく見て瑠璃さん。整地されてるところ、踏んで歩いてみてください」

 確かにそこは道だ……かつては。

 異常増殖した草が左右から手を伸ばし、すっかり覆われてしまっている。が、蒼の言う通り、足元で地面を探れば、道らしきものがある。

 蒼は草をカバンで器用になぎ倒し、進む。やがて数メートルで唐突に、開けた場所に出た。

「わ……あ」

 瑠璃は思わず声を漏らす。

 抜けた先、そこに青空があった。

 眼下には、キンコツの小さな家が、建物が、まるで玩具のように並んでいる。

 ちょうど道がここで崩落したのだろう。5メートルほど向こうは、崩れ落ちて何もない。5メートル四方の断崖に、瑠璃たちは立っている。

 ……いや、二人だけではない。小さなお堂が眼下を見下ろすような場所に残されていた。

 恐る恐る近づいて、朽ちたお堂を覗き込む。そこには、不思議な像が一つ。

(これがお母さんの言ってた、お堂)

 古く見えて、綺麗だ。風が汚れをはらったのか、誰かが掃除をしたのかは分からないが。

 もう掠れかけた文字を瑠璃は目を細めて読む。

「りょうめん……なんて読むんだ、これ」

「すくな……両面宿儺」

 蒼が瑠璃の背後に立ち、助け舟を出した。

 中にあるのは、四角いような丸いような、不思議な石の立像だ。

 風や雨にやられて体は半分も崩れている。

 それでも、その目はしっかりと眼下に広がる町を見つめていた。

「はるか昔の怪物ですよ」

 お堂の上に書かれた文字は消えそうだが、蒼はもう何度もここに来たことがあるのだろう。慣れた様子で腰を落とし、手を合わせる。

 瑠璃も慌ててそれに倣った。

「ちょっと像も崩れてわかりにくいですけど、一つの体に顔が2つ。手足がそれぞれ4本あります。もうずっと昔、勇者に討伐されちゃった怪物です」

「なんで、そんなのがここで」

「祀られているか、ですよね。それが、この地方では武勇に優れた勇者だったようなんです。この地が攻められそうになったのを防いだ町の英雄。まあ実際はこっちが正しいんだと思いますよ。地元の英雄だからこそ、国の偉い人の邪魔になった。疎まれて、殺されて、それで化け物になった」

 だから、この地域では両面宿儺を祀るのだ。と蒼はいう。

「……誰かの英雄も他の人間から見れば化け物になる、か」

 蒼がふと、真剣な声で呟く。その声があまりに真に迫りすぎて、瑠璃の背が震える。

 思えば、瑠璃は彼のことを何も知らない。

「蒼くん……」

 しかし蒼は表情をころりと変えて、ふざけるように笑う。

「この地域以外では、両面宿儺を見ると不幸になるとか呪われるとか」

「私なんかはそういう厄災に巻き込まれるタイプだ」

「どこに居ても必ず助けに行きますよ……あ、ここで少し休憩していきませんか。朝市までまだ少し時間があるし」

 蒼は慣れたように地面に大きな布を広げた。それをぼんやり見つめながら、瑠璃の心のどこかがチクリと痛んだ。

 蒼が瑠璃に優しくすればするほど、瑠璃はついそれに甘えそうになる。同時に、一歩引いてしまう。

 それは、蒼が津島に語った言葉を未だに引きずっているからだ。

(大事な人、がいるくせに)

 瑠璃は蒼に気づかれないように、唇を噛みしめる。

 彼はかつて、津島に「大事な人が近くにいる」と語っていたのだ。

 瑠璃はキッチンの隅っこに身を隠し、その言葉を聞いていた。

「……そういう優しくするのとか、大事な人というのにとっておけ」

 瑠璃は思わず、つぶやいていた。

「大事な人?」

「前、言ってた……ような」

 きょとんとする蒼が憎たらしく、瑠璃は腕を組んで顔を背ける。

 別に蒼の人生に興味があるわけではない。ただ、人に勘違いされるのが嫌なのだ。

 目立つのも、今は困る。

 それだけだ。それだけの理由だ。と瑠璃はお腹に力を込める。

「わ……私と蒼くんが並んで歩いているところを、そ……その、蒼くんの大事な人が見たら……困るだろう」

 風が吹いて、蒼の髪がふわりと揺れた。青い絹糸のような髪だが、かすかに根本が黒い。それを見て、ああやはり染めた髪なのだ。と瑠璃は思う。

 そんなことさえ、瑠璃は知らない。

「瑠璃さん、気になりますか?」

「別に」

「知ってますか。瑠璃さん、嘘をつく時に腕を組む癖」

 せせら笑うような声に、瑠璃は急いで腕を解く。と、彼は声を上げて笑った。そしてまるで世間話をするように言葉を続けた。

「……僕、昔に色々あって……死ぬほど追い詰められたことがあったんです。その時、ある人が救ってくれた」

 眼下にはキンコツの町。

 上から見ると、くねくね折り曲がった特殊な地形がよく分かる。

 まるで迷路のような町である。

 そこに、まだ多くの人が残っている。

 すでに地球から、数万数億の人間が宇宙を目指し、消えていった。

 地球を捨てた人間の中で、この町のことを知るのはごく一部だ。こんな小さな町があることも、そこに人が住んでいることも、ほとんどの人が知らない。

 それでもここには人が生きている。蒼も、瑠璃も、蒼の大事な人も。

 蒼は目を細めて、町を見つめている。

「……僕はその人に救われたんです。だから、大事な人」

「その人は……蒼くんの近くにいるのか?」

「……ええ」

 瑠璃が問いかけると、蒼はまぶしそうに目を細める。

 それを見て、瑠璃はほっと息を吐いていた。

 もう瑠璃の「大事な人」は誰もいない。皆、去ってしまった。

 父も母も死んだ。少なからずいた友人も、あっけなく瑠璃から去った。

 今は、母の関係者が瑠璃を守るために動いてくれるだけだ。

 瑠璃にはもう、大事にしてくれる人、大事だと思う人、誰もいない。

 その切なさや苦しさを、蒼は知らないのだ……それを思うと、不思議と安堵した。

「良かった、と思う」

「良かった?」

「……そういう人が……蒼くんの近くにいるのは、良いことだと思う」

「瑠璃さん、僕は」

 蒼が一瞬、顔を歪める。

 それがまるで泣いているように見えて、瑠璃は蒼に手を差し伸べかける。

 ……が、それより早く、風が強く吹いた。砂埃が舞い上がる。視界が一瞬真っ白になり、蒼の顔が消える。蒼の言葉も風の向こうにかき消えた。

 咳き込んだ瑠璃の背を叩いたのは、蒼だ。

「蒼くん?」

「大丈夫ですか? もうちょっと休憩したらもう月市、いきましょう」

 彼はもうすっかりいつも通りの顔つきで、鞄を漁る。

 その前に朝ごはんを。と彼が取り出したのは大きな丸いおにぎりだった。

 丁寧に海苔で巻かれた、こぶし大よりまだ大きなおにぎり。

 勧められ、瑠璃は敷かれた布の上に腰を下ろす。大きく一口かぶりつくと、ふわりと甘い味に驚かされる。

「これ」

「角煮の出汁を少し混ぜて、中には角煮の残り」

 蒼が言う通り、食べ進めるとほろりとした角煮にたどり着く。米に染み込んだ甘い出汁に、瑠璃は思わず目を細める。

「無駄にしないんだな」

「無駄なものなんて、ないんです……あと、これも」

 蒼は悪い顔をしてほほえみ、鞄の底から小さな瓶を取り出す。

 とろりと濁った液体が瓶の底で揺れている。透明ではなく、赤い濁りだ。朝日を受けて地面にワインレッドの影を落ちる。

「濁りのワイン。少しだけ残っていたので、持ってきました」

「こんな朝から」

「どうせ一口ずつですよ。高いところで飲むお酒も美味しいし、それにこれは、気付けです。月市にいく勇気を与えてくれる」

「べ、別に飲まなくなって……」

「僕が飲みたいんですよ」

 小さなカップに注がれたそれは、背徳の赤だ。

 ゆっくり飲みこむと、甘いぶどうの味が口の中いっぱいに広がった。遅れてアルコールの香りが体に溶け込む。

「濾過せずに酵母を残してるんです。だから、普通のワインより苦味がなくって、果実っぽい」

 思わず頬を緩ませた瑠璃に気づいたように、蒼が笑う。

 その笑顔を見ているうちに、瑠璃も思わず微笑んでいた。

(4冊目の、シーン……)

 瑠璃が思い出したのは自分の書いた小説だ。

 青色の星を見つけるために旅を続ける母子が、途中で遭難した小さな星。

 そこで二人は、小さな山に登って青いお茶を飲む……その星の水は、お茶に反応して青い色になるのだ。

 ただ、それだけの、なんでも無いワンシーン。

 そのシーンを書いた時のことを瑠璃は未だに覚えている。

 それは母の危篤の時だった。冷えていく母の手を左手で握りしめ、震える右手でひたすらに書いたのだ。

 瑠璃が小説を書いているときの真剣な顔がすき。母は瑠璃にそう言ってくれた。だから瑠璃は病床で、母のそばでずっと小説を書いていた。

 物語の話をしながら、物語を音読しながら、命の消えていく母を見つめた。物語の中に母の命を取り込むように、瑠璃は書いた。文字が、物語が、母の命を助けてくれることを祈りながら。

 物語の中では穏やかで暖かい、心地のよい風景だ。

 しかし実際は病床の消毒薬の中であのシーンを描いたのである。

「あ……暖かい、風」

 ぬるい風が瑠璃の顔を撫でた。草の香りに土の匂いに、春めいた湿り気のある風。

 それに乗るのは、甘い角煮の香りと、ワインの匂い。

(……やっと、本当の、ピクニックが、できた)

 固くなっていく母の手の感触は忘れない。しかし、今、蒼と過ごしているこの風景が、瑠璃の記憶の中に上書きされていく。

「……ありがとう。蒼くん」

「お礼は、もう少し後で。月市はもっと楽しいですよ」

 思わずつぶやいた瑠璃に、蒼は何も気付いてない顔で微笑んだ。

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