3
「蒼、くん」
こん、と扉が揺れたのは夜もすっかり更けた頃。
カウンターに一人座っていた蒼は、飛び上がるように扉に向かう。
まだ強く吹き付ける雪の向こうに立つ瑠璃を見て、蒼の顔に満面の笑みが浮かんだ。
しかしすぐさま顔を引き締めて、蒼は泣き真似をする。
「瑠璃さん。もう、こないかと思って、僕泣いてました」
「嘘を言うな」
外に長くいたのだろう。彼女のメガネに雪がつもり、鼻先も赤い。瑠璃を温かい店内に招き入れ、蒼は扉に鍵をかけた。
万が一にも、奇妙な連中が入り込んでこないように。
そんな蒼の思惑にも気づかず、瑠璃は寒そうに手をこすり合わせてる。
唇からゆるゆると、白い息が舞い上がる。外は相当寒いのだ。
「猫、貰ってくれる所探したけど、見つからなくって……」
コミュニケーションが苦手な瑠璃だが、彼女なりに頑張ったのだろう。
指先のあかさがそれを物語っている。蒼の心がちくりと音をたてたが気にせず、瑠璃を励ます。
「そのうち、見つかりますよ。順番に頑張りましょ。僕も手伝いますから。それより」
蒼はキッチンに駆け込み、鍋を覗き込む。長時間煮込み続けた鍋の中は、とろとろでいい香りをまとった湯気が上がる。
「瑠璃さん、食べていくでしょ?」
「いや、来いって言われたから来ただけで」
「角煮だよ? とろとろでさ、あーもう、やぁらかくて」
「もう帰る……つもりで……」
「本当に? これを見ても?」
蒼は歌うように言って、大きな鍋を瑠璃に見せつけた。
肉は貴重だ。しかし養豚や養鶏所を未だに続けている奇特な人間がこの地区には多い。
料理と引き換えに、肉はいくつか蒼の元に届く。
きっと瑠璃は煮込み料理が好きだ。そんな予感はあった。
鍋の中では、脂身が美しく輝く豚がこってりと煮込まれていた。箸で持ち上げると崩れてしまうので大きなスプーンでゆっくり取り上げ、盛り上げる。
大きな角煮の隣には、半分に切ったゆで卵。
黄身まで味の染み込んだそれをごろりと乗せる。
「たまごもつけちゃう」
「蒼くん、私は、帰るって……」
よだれでも垂らしそうな顔で、瑠璃が皿を覗き込んだ。
彼女の冷え切った鼻を、温かい湯気がゆるゆる撫でる。
きっと甘い香りも届いたはずだ。
「熱々の角煮には、ビールですよね。手に入れたんで、冷やしておきました。今日は潰しトマトでレッドアイに」
潰してこした自家製トマトジュースをグラスにたっぷり。氷と、そしてビールだ。
赤い泡がもくもくと湧き上がる。丁寧に混ぜて、蒼はグラスと角煮を瑠璃の前に置く。
「そうだ。白いご飯もあるなあ」
瑠璃は唇をかみしめて、うう、うう。と低く呻く。
「さ、どうします?」
「……そういうのは狡いっていうんだ」
そして、瑠璃は簡単に陥落した。
とろとろ脂身を噛み締めて、瑠璃はたまらない。といった顔をする。
鉄面皮でいようとするその顔が、食事を前にして崩れるのが好きだった。
角煮は柔らかく、温かいはずだ。色は濃いが濃すぎない。もちろん、豚の臭みもしっかり抜いた。
こんなに気温の変化が激しい今、この暖かさは嬉しいはずだ。
それに合わせるレッドアイは、トマトがとろりと甘い。
白いご飯の上に、蕩けそうな角煮を載せて、大きな口で一口。じんわりと汁の染み込んだ米は背徳の味だろう。
幸せそうに噛み締めて、飲み込んで、瑠璃の顔がとろんと崩れる。
蒼はそれを見つめ、微笑んだ。
「瑠璃さん。デートしませんか」
「は?」
……しかし一歩近づけば瑠璃はすぐ逃げる。瑠璃は先程までの顔を忘れ、きつい顔で蒼を睨む。
「何って?」
「言い方、きっついなあ。いま、傷つきましたよ」
「ご……ごめん」
「すぐ信用するんですね。瑠璃さん」
「蒼くん!」
コロコロと表情をかえる瑠璃を楽しみながら、蒼は冷蔵庫に張ってあるチラシを彼女に見せた。
「冗談ですよ。実は明日の昼、この町の月市がたつんですよ。山の方なのでちょっと離れてますけど……そこで色々買い出しができるんです。そこで猫の貰い手探せるかなって。人が多いから貰い手が見つかりそうでしょ」
蒼の言葉を聞いて瑠璃が困惑するように目を白黒させる。
角煮の最後のひとくちを飲み込んで、彼女は聞こえるか聞こえないか程度の声で呟く。
「……そりゃ、探してる……けど」
「じゃ、朝に来てください。朝一番ですよ」
一緒にいきます。と蒼は微笑んで見せる。
毒のない、ただの青年の顔で。
瑠璃に対しては、ただただ無毒な青年でいたかった。
(もし、シアンだと知っているなんて気づかれたら)
間違いなく、瑠璃は逃げる。蒼はそう確信している。
瑠璃は過去を未だに引きずっている。びくびくと怯え、生きている。
だから蒼はそしらぬふりをすることに決めたのだ。
今のところ、瑠璃に対して何かを働きかけるつもりなど、毛頭ない。
「買い出しついでに話しかけましょう。町の人に、猫をもらってくれないかどうか」
ご馳走様。と瑠璃が手を合わせ、蒼に向かってぎこちなく頷いた。
ご飯の茶碗も角煮の皿も、グラスも綺麗に空っぽになっている。それを見て蒼は笑みが零れそうになった。
「……分かった。でも雪だったらやめるからな」
瑠璃はすっかり蒼に馴染んだ。そんな気がする。
蒼はそれだけで飛び上がりそうに嬉しくなる。
(ただ、近くにいるだけで、よかったのに)
ゴミ捨て場の中で読んだ『青の世界』の文面を蒼は思い出した。次第に背中がまっすぐになっていく感覚や、深い水底から引き上げられるあの感覚も。
この7年は、ただがむしゃらにシアンを探すだけの日々だった。
瑠璃がシアンだと確信したのは、瑠璃の右手の内側に小さなほくろを見つけたからだ。
特徴的な3つのほくろは、デビュー時に映された彼女の写真にも写り込んでいる。
最初はどう近づけばいいかわからず、ただ近くで解体業を始めた。
しかし解体業者では瑠璃に近づけない。
瑠璃のアパート近くにある空き店舗。そこでの店経営の話を聞いた時、これこそ渡りに船だと、見たこともない神に感謝したほどである。
(ちょっと、最初は強引だったな……もう少しうまく、やれたら良かったけど)
蒼は過去を思い出し、少し反省する。多少、強引だったかもしれない。それでも近づくことには成功した。
初めて目の前で彼女を見たのは、あの雨の日。傘を差し出した彼女は、想像より小さく怯えてみえた。
この店で、瑠璃という名前を聞いた時、なんと美しい名前だろうと、そう思った。
初めて瑠璃が目の前に座ってくれた時、蒼は感動したのだ。彼女の右手を見た時、泣きそうになった。
あの地獄から救い出してくれた手が、ここにある。
ただ近くで見守っていたい。から、彼女と話したい、彼女のことをもっと知りたい……どんどん貪欲になる自分の気持ちに蒼は戸惑う。
「どうした、蒼くん」
扉を開けながら瑠璃が振り返った。
何一つ疑いのないその瞳を見て、蒼は柔らかい笑みを浮かべて見せる。
感情を隠すのは昔から得意だ。
「いいえ……瑠璃さん。また、明日」
今はただ近くにいる。
……それだけでいい。と、蒼は自分の気持を飲み込んだ。




