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「雨の中でビールなんて、美味しくないでしょ」
青い風に包まれた……と、瑠璃が勘違いしたのも仕方がない。
一瞬で手も足も青い光に包まれたのだから。
ぽかんと顔を上げ、瑠璃は納得した。
気がつくと自分の真上に、真っ青な傘が差し出されている。
「な……」
瑠璃の背後には、いつの間にそこにいたのか、青い傘を手にした見知らぬ男。
「何……なに……え……?」
気がつけば知らない男に、傘を差し向けられている。
瑠璃は立ち上がり、腰を下ろし、また立ち上がる。驚いたせいで膝が震え、後ろ向きに転びそうになる。
「ね。お姉さん」
青年はまるで子犬のような顔で、瑠璃の顔を覗き込んだ。
怯える瑠璃に何一つ、気づいてない顔をして。
傘の上を雨粒が跳ねるたびに青い色が揺れ、彼の顔に波のような影が広がる。きっと瑠璃の顔も青く染まっているのだろう。
空よりも華やかで、緑がかった青。
肌に刺さる雨粒が消え、代わりにぬるい湿度が瑠璃の背を暖めた。
彼は青い光に包まれたまま、瑠璃に向かって微笑んでいるのだ。
「ここでビールなんて飲むくらいなら、屋根のあるところで、あったかい食事でもしませんか」
大きな目。
丸い眉。
若々しい頬。
……そして何よりも目立つのは、鮮やかに青に染まった髪。
さらさらとした、まるで作り物みたいにキレイな髪。
「た……食べない」
瑠璃は思わず飛び上がり、数歩下がる。
目の前の青年はひょろひょろと細く、少年と言ってもいい風貌だ。
20代前半か、もしかすると10代かもしれない。
こんな可愛い顔をしていても、奇妙なことを考えている人間だって多いのだ。
お化けや怪物なんかより、この世で一番人間が恐ろしい。
瑠璃はそのことを、誰よりも知っている。
「お腹空いてません?」
「もう、帰るし、お……おなかすいてないし」
「じゃあ送っていきます」
駆け出そうとした瑠璃の前に、男が滑り込んだ。
「お姉さん、危ない」
彼は転びかけた瑠璃の腕を掴み、引っ張る。見た目に反して大きな手のひらに、瑠璃は悲鳴をかみ殺した。
「何!?」
「このあたり、最近変な事件とか多いし、危ない人がいたら大変だから」
「家! ち……近いから大丈夫」
その危険人物がお前だ……その言葉を瑠璃は飲みこんだ。
同時に、居住地情報をこの変な人物に与えてしまったことに気づき、慌てて首を振る。
「いや、ちがう。全然違う。近くじゃない。遠く……そう、わ、わたし、すっごく遠いとこから来てるから」
「あ。待って、もしかして僕、怪しまれてる? ねえ、ごめんなさい。不審者じゃないです。全然違うんです」
青年は顔を赤くして首を振った。その目があまりに真剣だったので、瑠璃は思わず力を緩める。彼は瑠璃を逃すまいとするように、瑠璃の腕をぎゅっと握りしめた。
瑠璃を掴んだ彼の手のひらは、驚くほどに熱い。
(……あつい)
瑠璃は左手首を掴む男の手を見つめた。まるで女の子のように細くて白い。そのくせ、大きくて熱い。
人の体温は本当に熱いのだ……それは脳の勘違いでもなんでもなく。
(人の体温なんて……何年ぶり)
……一瞬だけ、心地いいと思ってしまった。
その自分の気持ちに気づき、瑠璃は慌てて唇を噛みしめる。
(何ほだされてるんだ、しっかりしろ)
瑠璃は熱い指を振りほどき、目を吊り上げる。
「……悲鳴をあげるぞ、こんな町にだって、ま……まだ、住人だって……」
自分では声を張り上げたつもりなのに、まるで蚊が鳴くような小さな声だ。
もっとも、最近の異常成長した蚊は蝉みたいに鳴くやつもいるようだが。
「まだ住人だって、いるんだし……声を出せば……」
瑠璃は男と距離をとり、そっと周囲を見渡した。
壊れたアスファルト、雑草が生えて荒涼とした道、割れたトタン屋根。そしてそんな興廃した風景の中で、降りしきる雨。
人の気配が一つもない道の真ん中で、瑠璃は拳を握りしめる。震える膝を立て直し、大地を踏みしめた。
「大きな……こ……声をあげれば、誰か……たぶん……来てくれるんだからな!」
「ああ、ビールこぼれてる。貴重品なのに」
地面にこぼれたビールを見つめ、彼は心底残念そうに呟く。
「……本当、怪しいものじゃないんです。って、怪しい奴こそ、そう言いますよね。いきなり声かけて、驚かせてごめんなさい」
彼は胸に手を当て、深呼吸を一回。
数歩下がって、神妙に肩を落とす。最初の勢いはどこへやら、しゅんと落ち込んだ顔で彼は瑠璃に頭を下げた。
眩しいほどの青い髪が、さらさらと揺れ地面に青い影を落とすのが、こんな時だというのに不思議と美しかった。
「実はお店の勧誘なんですよ。お姉さん。ご飯、食べていきませんか?」
「……は?」
「こっち、来てください」
彼はまるで踊るように傘を瑠璃に差し出して、自分は雨の中へ。
そして数歩、進む。角を曲がったあと、ひょこんと顔だけ出した彼は、子犬のような顔で瑠璃を手招いた。
渋々彼の後をついて角からそっと顔を出してみると、青年は道の真ん中で両手を上げて微笑んでいた。
「俺の店」
彼の指す方向には、青い色の看板が見える。刻まれた言葉はバー・群青。
偶然に雲が割れ、青い空が屋根の辺りにぱっくりと広がった。
空の青に群青の看板、そして真っ青な髪の青い男。
青の大洪水に、瑠璃は思わずめまいを覚える。
「……店……?」
ずれたメガネに気づきもせずに、瑠璃は呆然と青年を見上げた。
「これが?」
瑠璃が指さすのは、店の扉……と思われる場所。
扉には蔦がくるくると絡まり、地面にはみっちりと雑草が生え揃っている。煉瓦壁にも、隙間なく蔦と、あとキノコも少々。
「……店?」
どう生えればそうなるのか、建物の隣の木は斜め45度に曲がって伸びて、屋根にどっかり腰を据えていた。
それは見事なまでの楓の巨木だ。真っ赤な炎をまき散らすように、屋根の上で紅葉している。
「まあちょっと……開店準備に手一杯で外の整備まで間に合わなくて……あ、でも中はきれいですよ」
男は顔を赤くしたまま、蔦を手で払う。
地面に落ちた紅葉を足で蹴散らし、困ったように眉を寄せた。
「おっかしいなあ。昨日、蔦を取ったはずなんだけど……異常成長する植物が多発って、最近ニュースになってたからそれかも」
呑気に笑う顔に悪意は無いが、瑠璃は身を固くする。
「わ……私がそんな怪しい店に入るわけないだろ、中に入ったら閉じ込めて、それで、それで……」
「まあ、そうおっしゃらず。すぐ蔦とっちゃいますね」
彼は見た目よりしっかりした手で蔦をむしり取った。緑色の水滴が、指の間から溢れて彼の白い腕に伝わって落ちる。
それに思わず見惚れていると、やがて彼の手はドアのノブにたどり着く。
「バー・群青。何を隠そう、今日がオープンなんです」
きい。と、扉のきしむ高い音とともに、乾いた空気が瑠璃の顔をなでる。
「で、お姉さんが、お客様第一号」
そして彼は、太陽よりもまぶしい笑顔で瑠璃にそうほほえむのだ。