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「それより、食事はそろそろいかがですか?」
「ん? 確かにさっきからいい匂い。青い少年くん。ここはすべておまかせなの?」
「お姉さん、いい線いってます。俺の名前は蒼です。蒼って呼んでください。で、料理のことも大正解。俺が良いもの用意するから、少し待っててくださいね」
店内にふわりと香ばしい香りが漂い始めたのは、そのしばらくあとのことだ。
バー群青は、いつも客にメニューを尋ねない。蒼がその時のフィーリングで料理と酒を出す。しかしそれで文句が出ないのがすごいことだ。と瑠璃は思う。
蒼は胡散臭いが、料理については信用できる。だから瑠璃は、この店から離れられない。
「そういえば深山ちゃんにお願いがあるの」
店内に漂うのはチーズの香りだ。醤油の香りもあるかもしれない。くんくんと鼻を動かす瑠璃の顔を、菊川が覗き込んだ。
「もうちょっと仕事の分量増やしても良い? 人がもう何人も辞めちゃって」
長い爪で机をつついて、菊川が言う。ひょうひょうと見えて、意外と上司が苦労していることはなんとなく感じ取っていた。
今の仕事は、政府から降りてくる官報をわかりやすくリライトする仕事である。
案外その数は多く、手間も多い。
彼女の苦労もわかるが、瑠璃にも事情はある。
……もしかすると近々、新聞社を辞めるかもしれない。と、菊川に相談したのは三日前のこと。その時は何も言わなかった菊川が、まるで先制するように瑠璃の目を見つめる。
「今みたいに家に持ち帰ってもいいからさ……って、仕事の話しないって言っておいて、しちゃったわね」
菊川は明るく笑い、手をたたく。仕事の話はここでおしまい。と彼女は明るく言った。
「いや、私は、だって、三日前……」
「また辞めるなんていったら、その丸いほっぺたつねるわよ」
「え? まだ瑠璃さん、引っ越すとか言ってるんですか」
蒼の声と菊川の声。それと同時に温かい湯気が降ってきた。
香ばしい香りに、瑠璃と菊川、両方の言葉が止まる。
机の上に置かれたものは、ほかほかと湯気をあげるサンドイッチなのだ。
食パンは2枚。上下とも表面はバターでカリカリに黄金色に焼かれている。
間に挟まっているのは黄金色のチーズ。惜しみなくたっぷり挟まれて、パンの間からとろりととろけて皿にまで溢れている。
「チーズ、ハムのホットサンドです」
「わ。トマトまで入ってる!」
トーストをめくって、菊川が嬉しそうに声を上げた。熱の入ったトマトの薄切り、ハム、そしてチーズだ。
「ハムは配給品ですけどね。トマトは裏の山裾で育て始めた人がいるんです。冬に育つのかと思ったけど、ハウスにして、色々工夫したら小さいのが実ったって。あとは食パンをフライパンでぎゅうって押さえて、お手製のホットサンドにしてみました。それに合わせるのは」
カウンターの内側で、カラカラと氷が触れ合う音がする。大きなグラスに、蒼が何か赤いものを注ぎ入れる。
まるで夕日を一身に集めたような、美しい茜色の液体が二人の前に置かれた。
「サングリア、です。瑠璃さん、ワインそのものは苦手かなと思って」
「サングリアも、めっちゃくちゃ久しぶり! フルーツなんて、ほとんど流通してないでしょう?」
「そこは、じゃ~ん。これです。ドライフルーツ!」
蒼が嬉しそうに掲げたのは。ビニール袋いっぱいに詰まった小さな実である。
それは、つやつやと輝き青い光を反射していた。
「そう。離島とかだとフルーツ農家さんが元気にやってるんです。もちろん生のは傷んじゃいますけど、ドライフルーツにしてるんですね。最近、遠くの離島から物々交換に人が来るので、余ったお酒とドライフルーツを交換して、それをワインに漬け込んだんです。一度ドライフルーツを冷凍して漬け込むと、味が出やすいみたいで。ようやく成功した一杯です」
グラスの底には、ベリー系のフルーツがごろごろ転がっていた。
元々は乾かしていたというそのフルーツは、ワインに沈めることでかつての自分を取り戻したようにふくふく大きく膨らんでいる。
「なるほど。甘みも出るし、いい考えね」
早速食べ始めた菊川に負けじと、瑠璃も熱いうちにトーストを一口。その熱を冷ますように、冷たいサングリアを一口。
口の中が、美味しい幸福でいっぱいになる。
「……美味しい」
「でしょ?」
思わず漏れた瑠璃の言葉に、蒼がにやりと笑う。同時に菊川も幸せそうに微笑んだ。
「……引っ越しなんてだめですよ。せっかくの常連さんになってくれたところなのに」
「そうよ。深山ちゃんが仕事辞めちゃったら私の仕事が増えるじゃない」
前と左、同時に責められて瑠璃は甘いサングリアを飲む。
それだけでドロドロとした気持ちが喉の奥に吸い込まれていくようだ。
(ふたりとも、知らないから……)
パンはあつあつ。チーズのとろけ具合もちょうどいい。
サングリアの甘さも、時々口に転がり込んでくる甘酸っぱいフルーツも最高だ。
瑠璃だって離れたくはないのだ。美味しい店、理解のある上司、文章を書ける仕事。
(私のこと、知らないから)
しかし、もし瑠璃の正体がシアンであると二人が知ったら、ふたりともきっと嫌悪感を向けるに違いない。
かつて多くの人がシアンに向けた侮蔑の視線を、シアンに向かって叫んだ「人殺し」の言葉を、二人も瑠璃に向けるに違いない。
……だから瑠璃は、逃げなければいけないのだ。せめて幸せな記憶のまま、別れられるように。
「それに瑠璃さん、猫だっているんだし」
「猫!」
蒼の言葉に、瑠璃はぱっと顔を上げる。
まるでその声に反応するように、カウンターの内側から小さな鳴き声が響いた。
「今日は預かりましたし、出社する時はそりゃ預かりますけど。でもずっとは無理ですよ。瑠璃さんがちゃんと面倒みなきゃ」
蒼がカウンターから取り出した箱には三匹の子猫がうねうね動いている。瑠璃が手を差し出すと、まるで安心するように絡みつき、小さな口で瑠璃の指を吸う。
慌てて猫用のミルク缶を開け、小さな容器に入れると彼らは待ちかねたように飛びついた。
「……そうだ。菊川さん。猫をもらってくれませんか、一匹でいいから」
「無理。可愛いとおもうけど。私のオフィス机、知ってるでしょ深山ちゃん。家もあのまんまよ」
猫の入ったダンボールを見つめて、菊川は目を細める。彼女の言葉に、瑠璃はああ。と低く唸った。
彼女の机は社内でも目立つ汚さだ。不衛生なのではない。ものが積み上がりすぎて、机がすでに要塞化しているのだ。紙の束、貰い物の空き缶、そんなものが絶妙のバランスで積み上がっている。
家があのままだとすれば、まさに足の踏み場もない状態だろう。
「ゴミ屋敷で猫、かえるとおもう?」
「それに、猫がいなくなったらこっそり引っ越しちゃうつもりでしょ」
菊川と蒼の言葉に瑠璃は言葉を飲み込み、小さく息を吐く。
……これまで、正体が見破られそうになるたび、瑠璃は気軽に引っ越しを繰り返してきた。
瑠璃を助けてくれる人がいること。荷物が少ないこと。それが瑠璃の身軽さの理由だ。
そして何より、親密な人間関係を築いてこなかったことが良かった。後腐れもなく逃げられた……これまでは。
(うっかり……してた)
美味しいサンドイッチにサングリア。美味しいものに引っ張られて、瑠璃はここに縛り付けられている。
「残念でした、瑠璃さん」
「原稿途中になってるのも多いでしょ。だめよ、書き上げるまでは」
何も知らない二人に肩を叩かれて、瑠璃は青い顔でうなだれる。
「増えた仕事もよろしくね」
そんな瑠璃に、菊川の呑気な言葉が追い打ちのように降り注いだ。




