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「深山ちゃん、どうかした?」
「……いえ、別に」
瑠璃はこわばった恰好のまま、机をじっと見つめる。
いつもは落ち着くカウンター席だというのに、菊川が隣りにいるだけで緊張がほぐれない。
「勤務時間外なんだから、ゆっくりしてよ。今は仕事のことを言うつもりはないし。というか、仲良くなるために今日はついてきたの。こんな時代、袖振り合うも……でしょ? 仲良くしたいじゃない」
(仲良くなんて、できないだろ。そんなつもりで、働いたわけじゃない)
瑠璃は思わず口から漏れそうになる言葉をぐっと飲み込み。曖昧な笑顔でごまかした。
「すみません、菊川さん。ちょっと、その、疲れてて……」
「こっちもすみません。僕の前で、そこまで赤裸々に言わせちゃってごめんなさい」
蒼といえば、困った子犬みたいな顔で菊川を見つめている。
「もしご家族が待ってるなら、お酒とか、がっつり重い食事を出すのは良くないかなってそう思って……」
そんな切り返しも瑠璃には絶対に無理なことだ。さすがだな。と言いかけた言葉を瑠璃は飲み込む。
「ただの独身キャリアウーマンだから、がっつり酒も食事もいただくわよ。むしろ家に帰ってもレトルトか缶詰だし、美味しいもの食べられるなら大歓迎」
「じゃあ、料理ができるまで、まずこれを飲んでてください」
蒼はにまりと笑い、大きなグラスに赤ワインをたっぷりと注いだ。それを見て、菊川が大きな歓声を上げる。
「なになに。ワインなんて久しぶり。まだあるのね」
瑠璃の前にも同じものが置かれた。青い光を受けると、琥珀みたいな色で輝く赤ワイン。そっと鼻を近づけると、温い春のような香りがする。
「結構このあたりは作ってる人、多いですよ。ぶどう作りに苦労するみたいですけど……菊川さんみたいに仕事好きの人が多いんです、このあたり」
菊川は興味深そうに蒼の言葉を聞くと、ワインを光にかざす。
「私はそんな高尚な働き方、してないわよ。高いところが嫌いだから宇宙にもいけないし、配給チケットで最低限の生活はできるけど、暇なのも嫌いだから、仕事してるだけ」
菊川は一口飲んで、ほうっと微笑む。瑠璃も恐る恐る口をつけると、口の中いっぱいに渋みが広がった。その味に、瑠璃はきゅっと唇を結ぶ。
「深山ちゃんはワイン苦手?」
「飲み慣れなくって……」
ワインを口にすると、喉の奥がきゅっと熱くなった。はじめてワインを飲んだのは、河川敷の送別会だ。
あの時のワインはもっと安っぽく、酸っぱくて甘かった。
今のワインは濃厚で、喉の奥がひりりと焼ける。
「ごくごく飲むのじゃないの。ゆっくり口の中で香りを広げるの。口に入れて、飲み込む前に息を吸う。そしたら……ほら鼻の奥からワインの匂いがするでしょ?」
菊川がワイングラスを青い光に晒しながら、目を細めた。
「土の匂いとか、ぶどうの皮の匂い。作った人の見た光景」
言われた通り、瑠璃はワインを口に含み、ゆっくりと息を吸う。と、顔の周りにふと、香りが広がった気がした。
それは土と水の香りだ。
……いつか母と出かけた高台の葡萄農園。あの場所と、同じ香りがする。
赤いワインが体の中を通り抜けると、同時に緊張が柔らかくとろけた。そうなると先程まで聞こえなかった音が、香りが一気に瑠璃を包む。
「あら。少年、ちゃらそうにみえて、手際がいいじゃない」
菊川がワイングラスを持ったまま、カウンターを覗き込んだ。
気がつけば、とん、とん、とん。とカウンターの内側から心地いい音が響いている。
紙袋の乾いた音、トースターを開ける音。目を閉じて耳を澄ませると、青くてきれいなものにくるまれる気分になる。
まるでここは、あたたかい海の底だ。
「少年って年齢でもないですよ。一応これでも20代です」
「一応ってことは、20歳ギリギリってところね。深山ちゃんと同じ年か、一個年下ね。若いのに立派じゃない」
「もう成人してますよ」
「私からしたら若い子はみんな小さい子に見えるのよ」
菊川の言葉に蒼は苦笑で返す。二人の姿を見て、瑠璃は少しだけ心が騒いだ。
「……菊川さん、若い子からかうのやめた方がいいですよ」
理由も分からず呟いたその言葉は菊川の明るい声に防がれる。
「あら。小説」
机に肘をついたまま、菊川は視線をレジ横に送る。そこにはシアンと書かれた本が、いつものように置かれていた。
シアン。瑠璃はその文字を見て、そっと顔をそらした。
この町を出ていかなくてはいけない。そんな薄暗い気持ちがまた瑠璃の中に湧き上がる。
家を出ようと決めて以来、部屋の片付けはほとんど終えた。
いつも「誰かに見つかる」直前に、まるで狙ったように瑠璃の支援者が手を差し伸べてくれる。瑠璃のために、新しい居住地を用意してくれる。
それはきっと、瑠璃の母……宇宙学者として世界に貢献した……彼女絡みの組織だろう。
瑠璃はただ、彼らの言うがままの場所に向かうだけだ。
それがもう7年も続いている。最初は困惑だけだったが、複数回続くとすっかり慣れた。
瑠璃はあやつり人形のように、ただ彼らの言うことを聞いていればいい……それだけで、無事に過ごせる。
(でも、今回はまだ連絡がない)
瑠璃はさり気なく、親指を拳の中に握り込んだ。
……もう何年も逃亡生活を続けていると、次の「引っ越し」のタイミングが読めるようになる。だからそのタイミングを読んで片付けを済ませておく、そんな習性が身についていた。
今回も、まもなく「タイミング」だと思っていたのに、不思議とその知らせは届かない。
その代わりに、瑠璃をここに縛り付ける子猫がやってきた。
袖口についた猫の毛を見て、瑠璃は思わず口元を緩める。
(……まだ、ここにいてもいいのかな)
「菊川さん、小説気になりますか?」
気がつけば、蒼が本を手に取り、カウンターに置く。
久しぶりに見た自分の本は、思った以上に分厚く、そしてよそよそしい顔でそこにいる。
菊川は本を手に取り、ぺらりとめくる。その音が響くたび、瑠璃の心音が激しく揺れた。
「キッチンリーディングね」
「なんですかそれ」
「キッチンドリンカーみたいな感じで今作った言葉。どう?」
菊川は酒が回っているのか、とろりとした顔で蒼を見る。そして内ポケットから煙草の箱を出し、蒼と瑠璃を見る。
蒼が差し出した灰皿を受け取ると、菊川は慣れた様子で一本に火をつけた。ふうっと吐き出された白い煙は、店の天井に緩やかに消えていく。
煙草の匂いを嗅いで瑠璃は目を細めた。
大昔、まだ母が生きていた時代。母も彼女の同僚たちも見事な愛煙家ばかりだった。
白煙の煙草をあちこちでふかすものだから、母がどこにいるのかすぐに分かるほどだった。
煙はいつも瑠璃を過去へと誘い、苦しくさせる。
「私も小説は好きなのよ。紙の本って強いでしょ。娯楽としてはこの時代に最高よね。電気も使わないし。まあ夜には光がないと読めないのは難点だけど。ねえ、小説の感想を教えて」
菊川がふっと煙を吐き出すが、蒼は淡々と首を振る。
「残念ですが、僕は読まないんですよ。これは前の店主の置き土産。店をそのままの状態で使ってほしいってお願いされてて……それで、そのままに」
蒼はそう言って笑い、本をまたレジスターの隣に置きなおした。




