表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ごちそう様で、また明日  作者: みお(miobott)
フライパンホットサンド&ドライフルーツサングリア
18/45

2

「深山ちゃん、どうかした?」

「……いえ、別に」

 瑠璃はこわばった恰好のまま、机をじっと見つめる。

 いつもは落ち着くカウンター席だというのに、菊川が隣りにいるだけで緊張がほぐれない。

「勤務時間外なんだから、ゆっくりしてよ。今は仕事のことを言うつもりはないし。というか、仲良くなるために今日はついてきたの。こんな時代、袖振り合うも……でしょ? 仲良くしたいじゃない」

(仲良くなんて、できないだろ。そんなつもりで、働いたわけじゃない)

 瑠璃は思わず口から漏れそうになる言葉をぐっと飲み込み。曖昧な笑顔でごまかした。

「すみません、菊川さん。ちょっと、その、疲れてて……」

「こっちもすみません。僕の前で、そこまで赤裸々に言わせちゃってごめんなさい」

 蒼といえば、困った子犬みたいな顔で菊川を見つめている。

「もしご家族が待ってるなら、お酒とか、がっつり重い食事を出すのは良くないかなってそう思って……」

 そんな切り返しも瑠璃には絶対に無理なことだ。さすがだな。と言いかけた言葉を瑠璃は飲み込む。

「ただの独身キャリアウーマンだから、がっつり酒も食事もいただくわよ。むしろ家に帰ってもレトルトか缶詰だし、美味しいもの食べられるなら大歓迎」

「じゃあ、料理ができるまで、まずこれを飲んでてください」

 蒼はにまりと笑い、大きなグラスに赤ワインをたっぷりと注いだ。それを見て、菊川が大きな歓声を上げる。

「なになに。ワインなんて久しぶり。まだあるのね」

 瑠璃の前にも同じものが置かれた。青い光を受けると、琥珀みたいな色で輝く赤ワイン。そっと鼻を近づけると、温い春のような香りがする。

「結構このあたりは作ってる人、多いですよ。ぶどう作りに苦労するみたいですけど……菊川さんみたいに仕事好きの人が多いんです、このあたり」

 菊川は興味深そうに蒼の言葉を聞くと、ワインを光にかざす。

「私はそんな高尚な働き方、してないわよ。高いところが嫌いだから宇宙にもいけないし、配給チケットで最低限の生活はできるけど、暇なのも嫌いだから、仕事してるだけ」

 菊川は一口飲んで、ほうっと微笑む。瑠璃も恐る恐る口をつけると、口の中いっぱいに渋みが広がった。その味に、瑠璃はきゅっと唇を結ぶ。

「深山ちゃんはワイン苦手?」

「飲み慣れなくって……」

 ワインを口にすると、喉の奥がきゅっと熱くなった。はじめてワインを飲んだのは、河川敷の送別会だ。

 あの時のワインはもっと安っぽく、酸っぱくて甘かった。

 今のワインは濃厚で、喉の奥がひりりと焼ける。

「ごくごく飲むのじゃないの。ゆっくり口の中で香りを広げるの。口に入れて、飲み込む前に息を吸う。そしたら……ほら鼻の奥からワインの匂いがするでしょ?」

 菊川がワイングラスを青い光に晒しながら、目を細めた。

「土の匂いとか、ぶどうの皮の匂い。作った人の見た光景」 

 言われた通り、瑠璃はワインを口に含み、ゆっくりと息を吸う。と、顔の周りにふと、香りが広がった気がした。

 それは土と水の香りだ。

 ……いつか母と出かけた高台の葡萄農園。あの場所と、同じ香りがする。

 赤いワインが体の中を通り抜けると、同時に緊張が柔らかくとろけた。そうなると先程まで聞こえなかった音が、香りが一気に瑠璃を包む。

「あら。少年、ちゃらそうにみえて、手際がいいじゃない」

 菊川がワイングラスを持ったまま、カウンターを覗き込んだ。 

 気がつけば、とん、とん、とん。とカウンターの内側から心地いい音が響いている。

 紙袋の乾いた音、トースターを開ける音。目を閉じて耳を澄ませると、青くてきれいなものにくるまれる気分になる。 

 まるでここは、あたたかい海の底だ。 

「少年って年齢でもないですよ。一応これでも20代です」

「一応ってことは、20歳ギリギリってところね。深山ちゃんと同じ年か、一個年下ね。若いのに立派じゃない」

「もう成人してますよ」

「私からしたら若い子はみんな小さい子に見えるのよ」

 菊川の言葉に蒼は苦笑で返す。二人の姿を見て、瑠璃は少しだけ心が騒いだ。

「……菊川さん、若い子からかうのやめた方がいいですよ」

 理由も分からず呟いたその言葉は菊川の明るい声に防がれる。

「あら。小説」

 机に肘をついたまま、菊川は視線をレジ横に送る。そこにはシアンと書かれた本が、いつものように置かれていた。

 シアン。瑠璃はその文字を見て、そっと顔をそらした。

 この町を出ていかなくてはいけない。そんな薄暗い気持ちがまた瑠璃の中に湧き上がる。

 家を出ようと決めて以来、部屋の片付けはほとんど終えた。

 いつも「誰かに見つかる」直前に、まるで狙ったように瑠璃の支援者が手を差し伸べてくれる。瑠璃のために、新しい居住地を用意してくれる。

 それはきっと、瑠璃の母……宇宙学者として世界に貢献した……彼女絡みの組織だろう。

 瑠璃はただ、彼らの言うがままの場所に向かうだけだ。

 それがもう7年も続いている。最初は困惑だけだったが、複数回続くとすっかり慣れた。

 瑠璃はあやつり人形のように、ただ彼らの言うことを聞いていればいい……それだけで、無事に過ごせる。

(でも、今回はまだ連絡がない)  

 瑠璃はさり気なく、親指を拳の中に握り込んだ。

 ……もう何年も逃亡生活を続けていると、次の「引っ越し」のタイミングが読めるようになる。だからそのタイミングを読んで片付けを済ませておく、そんな習性が身についていた。

 今回も、まもなく「タイミング」だと思っていたのに、不思議とその知らせは届かない。

 その代わりに、瑠璃をここに縛り付ける子猫がやってきた。

 袖口についた猫の毛を見て、瑠璃は思わず口元を緩める。

(……まだ、ここにいてもいいのかな)

「菊川さん、小説気になりますか?」

 気がつけば、蒼が本を手に取り、カウンターに置く。

 久しぶりに見た自分の本は、思った以上に分厚く、そしてよそよそしい顔でそこにいる。

 菊川は本を手に取り、ぺらりとめくる。その音が響くたび、瑠璃の心音が激しく揺れた。

「キッチンリーディングね」

「なんですかそれ」

「キッチンドリンカーみたいな感じで今作った言葉。どう?」

 菊川は酒が回っているのか、とろりとした顔で蒼を見る。そして内ポケットから煙草の箱を出し、蒼と瑠璃を見る。

 蒼が差し出した灰皿を受け取ると、菊川は慣れた様子で一本に火をつけた。ふうっと吐き出された白い煙は、店の天井に緩やかに消えていく。

 煙草の匂いを嗅いで瑠璃は目を細めた。

 大昔、まだ母が生きていた時代。母も彼女の同僚たちも見事な愛煙家ばかりだった。

 白煙の煙草をあちこちでふかすものだから、母がどこにいるのかすぐに分かるほどだった。

 煙はいつも瑠璃を過去へと誘い、苦しくさせる。

「私も小説は好きなのよ。紙の本って強いでしょ。娯楽としてはこの時代に最高よね。電気も使わないし。まあ夜には光がないと読めないのは難点だけど。ねえ、小説の感想を教えて」

 菊川がふっと煙を吐き出すが、蒼は淡々と首を振る。

「残念ですが、僕は読まないんですよ。これは前の店主の置き土産。店をそのままの状態で使ってほしいってお願いされてて……それで、そのままに」

 蒼はそう言って笑い、本をまたレジスターの隣に置きなおした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ