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大雪は、翌日にはすっかり上がってしまった。
雪が止むと、一瞬で春のような陽気になる。春特有の、むっと湿った香りと白い靄が一面を覆うのだ。
ぬかるんだ道を見て「散歩でもしようかな」と、瑠璃の上司の菊川が言い出したのは夕暮れ近くのことである。
「ねえ、ほんとにこんなとこにお店があるの?」
夕日の眩しさに目を細めながら菊川が瑠璃を見つめる。どうにも疑い深い視線に、瑠璃は眉間を押さえる。
そうでもしないと、眉間に深いシワが刻まれてしまう。
「あるんですよ……」
「ここって、もう地区のハズレよ? この先にお店ってあるの?」
菊川が首を傾げるのも納得だ。
眼の前は廃墟、崩れた道、壊れた電灯。
この先にはなにもないように見える……が、実はこの先の道を曲がると、その店はあるのだ。
蔦にまみれた、バー群青の扉が。
「お店はありますけど、でも、ここじゃなくって、別の場所でも」
「深山ちゃんの行きつけなんでしょ? 私はそこにいきたいな~」
「行きつけじゃないです。たまたま家の近所なので、よくいくだけで」
「そういうのを行きつけっていうの……さ、早く早く」
菊川が急かすので、瑠璃は仕方なく息を吐く。
道を曲がり、バー群青の小さな看板を見つけた菊川がきゃあ、と嬉しそうな悲鳴をあげた。
明るく強く、自信に満ち溢れた菊川は、瑠璃とは真逆の生き物だ。
そんな彼女に背中を押されて瑠璃はため息を飲み込む。
(なんで、こんなことに)
濡れた蔦を手で払い、瑠璃はバー群青の扉を掴んだ。
(面倒なことになったな)
扉は、瑠璃の重い気持ちに反して案外すんなりと開いた。
「瑠璃さん!」
扉を開けるなり、蒼の明るい声が聞こえた。カウンターの内側。ぱあっと輝く顔を見て、起き上がりこぼしみたいだな。と、瑠璃は思う。本物を見たことはいけれど。
「もぉ、深山ちゃん。入って入って。雨降りそうなんだから」
入り口で足を止める瑠璃を急かすように、菊川が後ろから扉をぐっと押す。
その勢いで瑠璃はたたらを踏むように店の中に滑り込んだ。
「なあに。いい店じゃない」
菊川は瑠璃より背が高い。そんなすらりとした長身に似合う、
きれいなパンツスーツはいつもどおり完璧で、背中はけして丸めない。
菊川は瑠璃と年齢は一回り以上違うはずだが、髪もメイクも完璧で実年齢よりずっと若く見えた。
「ほら、深山ちゃんも早く」
彼女の足にはぴんと尖った、ハイヒール。
それを高らかに鳴らして彼女は瑠璃を押しのけるように店に入る。
彼女はカウンターの内側に立つ蒼をじっと見つめ、物怖じしない顔で微笑んだ。
「はじめまして。菊川です」
「え。もしかして、瑠璃さんが、言ってた上司……の方……ですか?」
菊川を見て蒼が驚くように目を丸めた。そして少し安堵するように頬を緩めるのだ。
「いらっしゃいませ。いつも瑠璃さんにお世話になってます」
蒼の声を聴いて、菊川はにやりと笑った。
「なぁに? 女で安心した?」
菊川は明るく笑うとカウンター席の真ん中の椅子に腰を落とす。
そして青色に染まった店内を見渡した。瑠璃が止める暇もない。
ちょうど最後の客がはけたところだったのだろう。カウンター席には氷の残るグラスが2つ、ソース跡が残る皿が一枚残っていた。
「隅に置けないわね。深山ちゃん。こんな可愛い子、隠してたの?」
「やめてください」
テーブルを片付ける蒼を見ながら、菊川はにやにやと笑う。
「昨日、深山ちゃんが朝帰りしたから、上司としてチェックしにきたのよ。うちの可愛い社員に悪い虫でもついたら大変だし」
「朝帰りって、菊川さん……」
「だって。用事があって家までいったら、留守なんだもん。どこいってたってきいたら、言葉に濁すでしょ」
「や、だから。そういうのじゃなくって……ってさっき説明しましたよね」
「聴いたわよ? 雪降ってたから男の家に泊まったって」
ぐ、と瑠璃は言葉に詰まる。
「ご……誤解を招くような言い方をやめてください」
菊川は机に肘をついて、瑠璃を見る。蒼を見て、そして笑う。
「どんな言い方したって、その通りじゃない、ね~え?」
昨夜は色々参ってしまって、つい蒼の店で一晩を過ごしてしまった。もちろん、変な意味ではなく健全な意味で。
そんな日に限って、菊川が瑠璃の家を訪れていたらしい。朝、会社に行った途端に詰め寄られて、結局、バー群青のことを話す羽目になったのだ。
「で、説明を求めたらこの店にいたって言うじゃない。散歩ついでに近くを通ったから入ってみた、ってわけ」
「散歩って……わざわざ電車乗って……こんな所まで来るのは散歩じゃありません、菊川さん」
退勤後。散策だと言いながら会社の外に出た菊川は、数歩進んだあと「店に行ってみたい」などと言い出したのだ。
冗談だろうと思っていたのに、彼女は瑠璃を急かして駅に向かい、挙げ句電車に乗り込みバー群青へ向かわせた。
「ただの散歩だって、言ったのに」
恨みがましく睨む瑠璃に構わず、菊川は爽やかに笑う。
「あら。散歩よ。駅からここまで歩いたじゃない」
「理由はどうでも、お店に人が来てくれるのは嬉しいです。はじめまして、菊川さん」
蒼が満面の笑顔を浮かべ、頭を下げる。さらさらとした青い髪が、まるで絹糸みたいに綺麗に揺れた。
「で、菊川さんはご家族は?」
二人の前に水の入ったカップを置いて、唐突に蒼が尋ねる。その言葉に、菊川の目が細くなった。
「今の時代にそれをはっきり聞くの、若いって証拠だね」
「失礼でした? お綺麗な方なのに指輪がないなって」
「ほ、ほんとうに失礼だぞ、蒼くん」
焦る瑠璃を見て、菊川が吹き出す。
そして蒼の肩を気軽にぽん、と叩いた。
「別に隠すようなことじゃないわ。恋愛して結婚したこともある。でもその男は、私を置いて宇宙にいくような薄情者。それで結局、私は一人で生きるために広報の仕事をしてる。高所恐怖症のひとり暮らし、44歳。これでいい?」
つらつらと流れてきた菊川の個人情報に、瑠璃は目を丸くする。
同時に、こんなにもあっさりと情報を聞き出せる蒼の神経の太さに驚いた。
「そ……そうだったんですか?」
「だって深山ちゃん、何も聞いてくれないんだもん。聞いたら教えるのに」
菊川は足を完璧な形で組んだまま、にこりと笑う。
仕事中の菊川は無口で、どちらかといえば厳しい顔立ちだ。こんなに喋る人だったのか、と瑠璃は冷や汗をさり気なく拭う。
「もう半年以上一緒に働いてるのに、深山ちゃんったらいつまでも他人行儀なんだもの」
瑠璃がこの会社……キンコツ新聞社に働き始めたのは8ヶ月前のことだ。
菊川は報道部デスク、という肩書である。
しかし駅前の事務所は報道部しかないので、実質彼女が事務所長だ。
彼女とは仕事での関わりは多いが、仕事以外では接点もない。こんなに肩を寄せ合い話をするのは、河川敷の歓送迎会、それ以来だった。
彼女の過去や年齢を聞くのもはじめてのこと。
「深山ちゃんは秘密主義だから、これまでのことも全然教えてくれないしね。まあ若い子ってなんでも秘密主義だから、仕方ないけど」
「隠して……ないですよ。面接の時伝えましたよね。両親が亡くなって、その、ずっと無職だったけど、ちょっと働かないと……って」
菊川の言葉に瑠璃は8ヶ月前の面接をふと、思い出した。
夕日差し込むオフィスで、彼女は瑠璃の過去を尋ねてきた。仕事の面接としては当たり前のことだ。
「社会復帰のための、お仕事、でしょ?」
菊川の言葉に瑠璃は慎重にうなずく。
「そうです」
瑠璃はすなわち小説家のシアンであり、7年逃げ回っていること。
その間は職にもつかず、支援者の助けに甘えて全国各地点々としていたこと。
1年前にキンコツに越してきて、ここでなら働けるとと思ったこと。
だからどうぞここで働かせてください。
……など口が裂けても言えるはずもない。
だから瑠璃はキンコツ新聞で働くにあたって、面接で当たり障りのない人生を詐称したのだ。
「ここがお母さんの故郷、だったけ?」
菊川の言葉に瑠璃はもう一度うなずく。
面接で語ったこと、全てが嘘。というわけではない。
両親が死んでいること、ずっと無職だったこと。ここが母の故郷だったこと。
これは本当のことだ。
しかし、今では瑠璃を知る人間はほとんど消えているが。
(……土地勘があって、知り合いはいない。そんな最高の環境なら働けると思った……なんて言えるわけないけど)
瑠璃はテーブルの下できゅっと拳を作る。
人に顔を見られず、外に出ず、淡々とこなす仕事ならできるかもしれない。そう思い、瑠璃はキンコツ新聞社の求人広告に応募したのだ。
社会復帰のため……これも嘘ではなく、瑠璃の本心である。
もしかするとこの土地で、腰を据えられるかもしれない。そんな願いを持ってしまったのだ。
その時に抱いた希望を思い返すと、瑠璃の中に甘酸っぱい味が広がった。




