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ごちそう様で、また明日  作者: みお(miobott)
おでんうどん&山廃仕込み
16/45

3

 蒼が瑠璃の前に熱い鍋を置いたのは、養鶏所から戻って30分後のことである。

 外にはずっと準備中の看板が出たままなので、他の客が来る心配はない。

 準備中になっていることを知らない瑠璃だけが、入り口を気にするようにそわそわしている。

「ゆっくりしてくれていいですよ。今日はどうせもうお客さんも来ないでしょうし……さあ、どうぞ召し上がれ」

 鍋から立ち上がる湯気を見つめて、蒼は微笑む。

 柔らかく、甘い香りが店いっぱいに広がっている。

 瑠璃は椅子に浅く腰掛けたまま、慎重に鍋を覗き込んだ。

「……うどん? 黒い……」

「おでんの出汁を使った特製の鍋焼きうどんです」

 鍋に広がる薄黒い汁は、大根や、練り物などをじっくり何日も煮込んだおでん汁である。

 具はほとんど売り切れてしまったが、少し残っていた大根だけ上に載せた。もうグズグズで、黒く照りのある大根だ。

 麺は自家製麺。太めで、柔らかい。それをことことと煮込んで、上からもらったばかりの卵を滑らせる。白身がふわりと白く固まったら、それで完成。

 甘い出汁の香りがうどんにとろりと絡んで、こんな冷え込む雪の日には最高のご馳走だった。

 先程聞いた天領の寂しいセリフも、この温かい湯気できっと紛れる……きっと。

 寂しさを振り払うように、蒼は冷蔵庫からずっしりと重い瓶を取り出す。

「これに合わせるのは山廃です」

「山廃?」

「日本酒ですよ。嫌いですか?」

「……飲んだことない」

「じゃあ、ぜひ」

 蒼の持つ瓶は、深い紺色。透明のグラスに傾ける。すると、と、と、と……と心地いい音が振動になって伝わってきた。

「日本酒ってお米と麹と水で作られるんですって。蒸した米に麹菌っていうのをつけて、これを水の中で発酵させたら日本酒になる……僕も受け売りで、よくわかってないんですけど」

 瓶に詰まっているのは少し黄色みを帯びた、とろりと濃厚な日本酒。

 小さなカップを出し、蒼は自分用にも少しだけ注ぎ入れる。

 米から酒が生まれるのは、不思議だ。と、蒼は未だにそう思う。

「酵母菌を増やすためには、米とか米麹をひと晩かけて揉み続けるらしいんですね。その作業が山卸」

 山卸は寒さを堪えながら何日も続く、過酷な作業である……と、酒蔵の看板を守る男が蒼に教えてくれた。

 彼はこの地域で唯一残った、酒蔵の主である。

「……で。その工程をやめて、麹の力だけで発酵をすすめたのがこの山廃です。山卸を廃した、だから山廃」

 グラスに注いだ日本酒を瑠璃の前に差し出すと、彼女は目を丸くする。

「自然の力に、任せたってこと?」

「どれだけ置くかとか、そういうのは職人技です。この近くに酒蔵があって、変わり者の杜氏さんが今でも酒造りしてるんですよ。でもご時世で人は減って……」

 日本酒作りは、ずいぶんと手がかかる。

 しかしこんな時代、酒蔵で働く人間も減った。

「山卸するだけの人員がないから、山廃にするしかない……ってことか」

 瑠璃はとろりと揺れる貴重な日本酒を覗き込んで、小さく呻く。

 眼鏡の奥、瑠璃の目は大きなアーモンド型だ。綺麗な目尻はすっと伸びて、瞳の色は透き通るような美しい茶色だった。

 メイクでどれだけ顔つきを変えても、目だけは変えられない。

 蒼は瑠璃の顔から目をそらし、自分のカップに注いだ酒を一口飲む。

 とろりと、甘くて重い。喉に絡むような濃厚な味だ。じんわりと腹の底が暖かくなる。窓から向こうは極寒だが、店の中は温かい湿度が絡みつく。体の中も、外も。

「味は濃厚? なのかな。俺はあんまり日本酒飲まないのでわかんないんですけど」

「……甘めでちょっと重い。けど、美味しい。なんだろう、アルコールがきついのに、飲み込むと胃のあたりがほっとする」

「杜氏さんに感想言ってあげると喜ぶかも。日本酒はじめて飲んだ人の意見ってきっと貴重だから」

「とろっとしてて……焼酎とも他のお酒とも違う味がする」

「美味しい?」

「……一気には飲めないけど、うん。優しい味」

 瑠璃は日本酒を一口飲み、白いうどんをすする。

「うどんによく合う」

「うどんとお米ですもんね」

 とろとろに黒く染まったおでんのスープが染まった白い麺はぐずぐずだ。上に載せた卵は良い半熟具合、端で突くととろりと黄身が溢れて汁に交じる。

 麺に黄身が絡んで、きらきらと輝いている。

 おでんうどんは、柔らかい。味はゆっくりと溶けていくはずだ。暖かさと甘さが、瑠璃の緊張を解くはずだ。

 ……それを願いながら、作ったのだから。

「出汁、良いでしょう。魚をもらったから、骨から出汁をとったんです。灰汁を丁寧にとって、大根も卵も……地区に唯一残ってる豆腐屋さんで厚揚げなんかも仕入れたりして。色んな味が混じり合って。ああそうだ、こうしても美味しいんです」

 蒼は新しい湯飲みに酒を注ぎ、上から残った出汁を加える。湯気の上がるそれを瑠璃に差し出した。

「え、そんな飲み方ってある?」

「和風スープと思って」

 湯呑から立ち上るのは、酒と甘い出汁の香りだ。恐る恐る口にした瑠璃が目を丸くした。

「……これは」

 蒼も同じものを作って、一口すする。

 暖かい出汁と、ぬるい酒がとろりと絡む。酒として飲むのではなく、これは確かにスープの分類だ。

 濃厚で、甘く、体が温まる。

 出汁の底から、溶けた具材の味がした。

 湯呑を握りしめたまま、瑠璃がほうっと息を吐く。

「おでん、食べたかった……かもしれない」

「食べに来ればいいじゃないですか。また作りますよ」

「でも、私は引っ越し……」

 瑠璃の言葉が途中でとまる。バスタオルの中で子猫たちが小さな鳴き声をあげたのだ。

「……あ、猫」

 彼女は珍しくも困ったような顔で口を閉ざした。

 恐る恐る瑠璃が猫に触れると、子猫たちは安心したように鳴き声を止める。そして瑠璃の指に絡みつき、眠ってしまう。

「蒼くん、あの」

「俺は飼えませんよ。飲食店です」

「誰か……」

 瑠璃は困ったように眉を下げて蒼を見る。その目線はずるいな、と蒼は無理やり顔をそらした。

 瑠璃はきっと蒼が猫の飼い主を探してくれる……そう思っているのだ。

 まるで親猫を求めるように、小さな毛玉が瑠璃の指を吸う。小さなくせに力強い音だ。生命力が瑠璃の手元に灯っているようだった。

「里子に出すなら、自分で探してくださいね」

「菊川……さんなら」

 瑠璃の上司であるというその名前を聞くのは2度目だ。心の奥にチクリと何かが引っかかり、蒼はそれを無理やり振り払った。

 そして意地悪な笑みを浮かべる。

「でも、これで引っ越しはできませんね。子猫三匹連れてこの時代、引っ越せますか?」

「……な」

「それに角煮もプリンも……あとおでんも。食べてないじゃないですか。まだ引っ越しちゃだめです」

 蒼が口をとがらせれば、瑠璃はほとほと困った顔で目を伏せた。

「引っ越しは……絶対だ」

「なぜ?」

「……用事が、あるから」

 瑠璃は言葉を選ぶように、濁しながら呟く。

「どこへ行くんです?」

「まだ決まってない。仕事の都合で、向こうが決めるんだ。だから私にはわからない」

 彼女は言葉をごまかすように日本酒をくいっと開けた。

「猫の貰い手はどうせ、すぐ見つかるよ、蒼くん。だって子猫だし」

 強がるように彼女は言って、立ち上がる。

 子猫をそっと抱きしめ、指先であやしながら。

「とにかく、今日は……家、帰らなきゃ」

「外、ひどい雪ですけど、帰れますか? 猫連れて」

 蒼の言葉を聞いた瑠璃は、またも困ったように眉を寄せた。

 瑠璃の手の中で子猫たちはすうすうと寝息をたてているところだ。瑠璃が動くと、まるで親猫に甘えるように3つの黒い塊が丸くもぞもぞと動く。

 あたふたと表情をかえる瑠璃を横目に眺め、蒼はわざとらしく伸びをした。

「……いいですよ。2階、僕の部屋でよければ使って下さい」

「え」

「僕は下に寝ます。カウンターの椅子どかせば、下に寝袋敷けるし」

「いや、でも」

「部屋は結構綺麗にしてますから、大丈夫ですよ」

「そうじゃなく」

「やだなあ、危ない男だって思われてます?」

「そ、そんなことは思ってない」

 戸惑うような瑠璃の言葉に、蒼は明るく返した。

「じゃあ、問題解決じゃないですか」

 蒼はカウンターの内側に畳んであった段ボールを組み立て、その中にタオルなどを詰め込む。

 瑠璃の手からタオルごと子猫を受け取って、箱の中にそっと下ろす。足場が安定したせいか、猫たちはしばらくもぞもぞ動いたあと、くるくる喉を鳴らした。

「猫はこうしておいて、寝る時に横に置いておくと安心でしょう。2階の部屋は内側から鍵できるから、心配なら締めて」

「別に心配なんて」

「良かった、僕信用されてる」

「そ……そんなこというと、信用なくすぞ」

 瑠璃はようやくいつもの調子を取り戻したように口を尖らせ、蒼は思わず吹き出した。

 瑠璃が怒るより早く、蒼はポケットから取り出した小さな鍵を瑠璃に押し付ける。

「冗談ですよ。あ、そうだ。僕、朝はいつも早くから買い出しに出ちゃって居ないと思います。店の鍵渡しておくんで、朝出ていく時はこれで締めて下さい」

「あ……ありがとう。明日、また、鍵を持ってくる」

「あげますよ。合鍵だから」

 瑠璃の手に滑り込ましたのは、この店の鍵。それを見て瑠璃が驚くように目を丸めた。

「いや、だめだろ。家の鍵だぞ」

「いいんです。瑠璃さんのこと信用してますし」

 押し返す瑠璃の小さな手に触れ、蒼は震えを押し隠す。細く、小さく、冷たい指だ。

 この指でペンを握り、彼女は文字を刻む。キンコツの記事を、淡々と刻み続ける。

 文字を生む指は折れそうに細い。

 鍵が指に食い込んでいないか確認し、蒼は微笑んだ。

「それに鍵かけないと外出られないでしょ?」

 実際、鍵などなくてもキンコツの町は安全だ。しかし、蒼は一つだけ、鍵の複製を作っておいた。

「持っていて、瑠璃さん」 

 ……鍵さえあれば、合鍵を瑠璃にいつか渡せる。

 そう思っていたからだ。この小さな鍵は、瑠璃のために作っておいたもの。

「蒼く……」

「おやすみなさい」

 戸惑う瑠璃を、蒼は無理やり店の奥に引っ張る。そこにある薄い扉を開ければ、2階に向かって薄暗い階段が伸びていた。

「上も冷えるんで、あとで湯たんぽ持っていきます。大丈夫。部屋は入りません。扉の前に置いておくので、僕が降りたら扉を開けて湯たんぽを取って」

 二人の前に広がるのは外の温度を吸い込んで、しん、と冷え込んだ階段だ。真っ暗で、先も見えない。瑠璃は恐る恐る、足を階段にかけた。

「う、うん、おやすみ……ありがとう」

 猫の入った段ボールを抱いたまま、彼女は何度も蒼を振り返り、ゆっくりときしむ階段の奥に吸い込まれていく。

 きい、と扉の開く音。閉まる音……もう音は聞こえない。

「おやすみなさい」

 甘く香る部屋の空気を吸い込んで、蒼は階段につながる扉を締めた。

 そして冷たい扉に額を押し付け目を閉じる。

 心音がうるさいほどに響いていた。この階段の先に瑠璃がいる……そう思うと、体が震える。

「おやすみなさい……また明日」

 蒼は呟いた。

「……シアン」

 蒼の言葉にかぶさるように、外では雪が降り落ちる音が響いていた。

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