3
蒼が瑠璃の前に熱い鍋を置いたのは、養鶏所から戻って30分後のことである。
外にはずっと準備中の看板が出たままなので、他の客が来る心配はない。
準備中になっていることを知らない瑠璃だけが、入り口を気にするようにそわそわしている。
「ゆっくりしてくれていいですよ。今日はどうせもうお客さんも来ないでしょうし……さあ、どうぞ召し上がれ」
鍋から立ち上がる湯気を見つめて、蒼は微笑む。
柔らかく、甘い香りが店いっぱいに広がっている。
瑠璃は椅子に浅く腰掛けたまま、慎重に鍋を覗き込んだ。
「……うどん? 黒い……」
「おでんの出汁を使った特製の鍋焼きうどんです」
鍋に広がる薄黒い汁は、大根や、練り物などをじっくり何日も煮込んだおでん汁である。
具はほとんど売り切れてしまったが、少し残っていた大根だけ上に載せた。もうグズグズで、黒く照りのある大根だ。
麺は自家製麺。太めで、柔らかい。それをことことと煮込んで、上からもらったばかりの卵を滑らせる。白身がふわりと白く固まったら、それで完成。
甘い出汁の香りがうどんにとろりと絡んで、こんな冷え込む雪の日には最高のご馳走だった。
先程聞いた天領の寂しいセリフも、この温かい湯気できっと紛れる……きっと。
寂しさを振り払うように、蒼は冷蔵庫からずっしりと重い瓶を取り出す。
「これに合わせるのは山廃です」
「山廃?」
「日本酒ですよ。嫌いですか?」
「……飲んだことない」
「じゃあ、ぜひ」
蒼の持つ瓶は、深い紺色。透明のグラスに傾ける。すると、と、と、と……と心地いい音が振動になって伝わってきた。
「日本酒ってお米と麹と水で作られるんですって。蒸した米に麹菌っていうのをつけて、これを水の中で発酵させたら日本酒になる……僕も受け売りで、よくわかってないんですけど」
瓶に詰まっているのは少し黄色みを帯びた、とろりと濃厚な日本酒。
小さなカップを出し、蒼は自分用にも少しだけ注ぎ入れる。
米から酒が生まれるのは、不思議だ。と、蒼は未だにそう思う。
「酵母菌を増やすためには、米とか米麹をひと晩かけて揉み続けるらしいんですね。その作業が山卸」
山卸は寒さを堪えながら何日も続く、過酷な作業である……と、酒蔵の看板を守る男が蒼に教えてくれた。
彼はこの地域で唯一残った、酒蔵の主である。
「……で。その工程をやめて、麹の力だけで発酵をすすめたのがこの山廃です。山卸を廃した、だから山廃」
グラスに注いだ日本酒を瑠璃の前に差し出すと、彼女は目を丸くする。
「自然の力に、任せたってこと?」
「どれだけ置くかとか、そういうのは職人技です。この近くに酒蔵があって、変わり者の杜氏さんが今でも酒造りしてるんですよ。でもご時世で人は減って……」
日本酒作りは、ずいぶんと手がかかる。
しかしこんな時代、酒蔵で働く人間も減った。
「山卸するだけの人員がないから、山廃にするしかない……ってことか」
瑠璃はとろりと揺れる貴重な日本酒を覗き込んで、小さく呻く。
眼鏡の奥、瑠璃の目は大きなアーモンド型だ。綺麗な目尻はすっと伸びて、瞳の色は透き通るような美しい茶色だった。
メイクでどれだけ顔つきを変えても、目だけは変えられない。
蒼は瑠璃の顔から目をそらし、自分のカップに注いだ酒を一口飲む。
とろりと、甘くて重い。喉に絡むような濃厚な味だ。じんわりと腹の底が暖かくなる。窓から向こうは極寒だが、店の中は温かい湿度が絡みつく。体の中も、外も。
「味は濃厚? なのかな。俺はあんまり日本酒飲まないのでわかんないんですけど」
「……甘めでちょっと重い。けど、美味しい。なんだろう、アルコールがきついのに、飲み込むと胃のあたりがほっとする」
「杜氏さんに感想言ってあげると喜ぶかも。日本酒はじめて飲んだ人の意見ってきっと貴重だから」
「とろっとしてて……焼酎とも他のお酒とも違う味がする」
「美味しい?」
「……一気には飲めないけど、うん。優しい味」
瑠璃は日本酒を一口飲み、白いうどんをすする。
「うどんによく合う」
「うどんとお米ですもんね」
とろとろに黒く染まったおでんのスープが染まった白い麺はぐずぐずだ。上に載せた卵は良い半熟具合、端で突くととろりと黄身が溢れて汁に交じる。
麺に黄身が絡んで、きらきらと輝いている。
おでんうどんは、柔らかい。味はゆっくりと溶けていくはずだ。暖かさと甘さが、瑠璃の緊張を解くはずだ。
……それを願いながら、作ったのだから。
「出汁、良いでしょう。魚をもらったから、骨から出汁をとったんです。灰汁を丁寧にとって、大根も卵も……地区に唯一残ってる豆腐屋さんで厚揚げなんかも仕入れたりして。色んな味が混じり合って。ああそうだ、こうしても美味しいんです」
蒼は新しい湯飲みに酒を注ぎ、上から残った出汁を加える。湯気の上がるそれを瑠璃に差し出した。
「え、そんな飲み方ってある?」
「和風スープと思って」
湯呑から立ち上るのは、酒と甘い出汁の香りだ。恐る恐る口にした瑠璃が目を丸くした。
「……これは」
蒼も同じものを作って、一口すする。
暖かい出汁と、ぬるい酒がとろりと絡む。酒として飲むのではなく、これは確かにスープの分類だ。
濃厚で、甘く、体が温まる。
出汁の底から、溶けた具材の味がした。
湯呑を握りしめたまま、瑠璃がほうっと息を吐く。
「おでん、食べたかった……かもしれない」
「食べに来ればいいじゃないですか。また作りますよ」
「でも、私は引っ越し……」
瑠璃の言葉が途中でとまる。バスタオルの中で子猫たちが小さな鳴き声をあげたのだ。
「……あ、猫」
彼女は珍しくも困ったような顔で口を閉ざした。
恐る恐る瑠璃が猫に触れると、子猫たちは安心したように鳴き声を止める。そして瑠璃の指に絡みつき、眠ってしまう。
「蒼くん、あの」
「俺は飼えませんよ。飲食店です」
「誰か……」
瑠璃は困ったように眉を下げて蒼を見る。その目線はずるいな、と蒼は無理やり顔をそらした。
瑠璃はきっと蒼が猫の飼い主を探してくれる……そう思っているのだ。
まるで親猫を求めるように、小さな毛玉が瑠璃の指を吸う。小さなくせに力強い音だ。生命力が瑠璃の手元に灯っているようだった。
「里子に出すなら、自分で探してくださいね」
「菊川……さんなら」
瑠璃の上司であるというその名前を聞くのは2度目だ。心の奥にチクリと何かが引っかかり、蒼はそれを無理やり振り払った。
そして意地悪な笑みを浮かべる。
「でも、これで引っ越しはできませんね。子猫三匹連れてこの時代、引っ越せますか?」
「……な」
「それに角煮もプリンも……あとおでんも。食べてないじゃないですか。まだ引っ越しちゃだめです」
蒼が口をとがらせれば、瑠璃はほとほと困った顔で目を伏せた。
「引っ越しは……絶対だ」
「なぜ?」
「……用事が、あるから」
瑠璃は言葉を選ぶように、濁しながら呟く。
「どこへ行くんです?」
「まだ決まってない。仕事の都合で、向こうが決めるんだ。だから私にはわからない」
彼女は言葉をごまかすように日本酒をくいっと開けた。
「猫の貰い手はどうせ、すぐ見つかるよ、蒼くん。だって子猫だし」
強がるように彼女は言って、立ち上がる。
子猫をそっと抱きしめ、指先であやしながら。
「とにかく、今日は……家、帰らなきゃ」
「外、ひどい雪ですけど、帰れますか? 猫連れて」
蒼の言葉を聞いた瑠璃は、またも困ったように眉を寄せた。
瑠璃の手の中で子猫たちはすうすうと寝息をたてているところだ。瑠璃が動くと、まるで親猫に甘えるように3つの黒い塊が丸くもぞもぞと動く。
あたふたと表情をかえる瑠璃を横目に眺め、蒼はわざとらしく伸びをした。
「……いいですよ。2階、僕の部屋でよければ使って下さい」
「え」
「僕は下に寝ます。カウンターの椅子どかせば、下に寝袋敷けるし」
「いや、でも」
「部屋は結構綺麗にしてますから、大丈夫ですよ」
「そうじゃなく」
「やだなあ、危ない男だって思われてます?」
「そ、そんなことは思ってない」
戸惑うような瑠璃の言葉に、蒼は明るく返した。
「じゃあ、問題解決じゃないですか」
蒼はカウンターの内側に畳んであった段ボールを組み立て、その中にタオルなどを詰め込む。
瑠璃の手からタオルごと子猫を受け取って、箱の中にそっと下ろす。足場が安定したせいか、猫たちはしばらくもぞもぞ動いたあと、くるくる喉を鳴らした。
「猫はこうしておいて、寝る時に横に置いておくと安心でしょう。2階の部屋は内側から鍵できるから、心配なら締めて」
「別に心配なんて」
「良かった、僕信用されてる」
「そ……そんなこというと、信用なくすぞ」
瑠璃はようやくいつもの調子を取り戻したように口を尖らせ、蒼は思わず吹き出した。
瑠璃が怒るより早く、蒼はポケットから取り出した小さな鍵を瑠璃に押し付ける。
「冗談ですよ。あ、そうだ。僕、朝はいつも早くから買い出しに出ちゃって居ないと思います。店の鍵渡しておくんで、朝出ていく時はこれで締めて下さい」
「あ……ありがとう。明日、また、鍵を持ってくる」
「あげますよ。合鍵だから」
瑠璃の手に滑り込ましたのは、この店の鍵。それを見て瑠璃が驚くように目を丸めた。
「いや、だめだろ。家の鍵だぞ」
「いいんです。瑠璃さんのこと信用してますし」
押し返す瑠璃の小さな手に触れ、蒼は震えを押し隠す。細く、小さく、冷たい指だ。
この指でペンを握り、彼女は文字を刻む。キンコツの記事を、淡々と刻み続ける。
文字を生む指は折れそうに細い。
鍵が指に食い込んでいないか確認し、蒼は微笑んだ。
「それに鍵かけないと外出られないでしょ?」
実際、鍵などなくてもキンコツの町は安全だ。しかし、蒼は一つだけ、鍵の複製を作っておいた。
「持っていて、瑠璃さん」
……鍵さえあれば、合鍵を瑠璃にいつか渡せる。
そう思っていたからだ。この小さな鍵は、瑠璃のために作っておいたもの。
「蒼く……」
「おやすみなさい」
戸惑う瑠璃を、蒼は無理やり店の奥に引っ張る。そこにある薄い扉を開ければ、2階に向かって薄暗い階段が伸びていた。
「上も冷えるんで、あとで湯たんぽ持っていきます。大丈夫。部屋は入りません。扉の前に置いておくので、僕が降りたら扉を開けて湯たんぽを取って」
二人の前に広がるのは外の温度を吸い込んで、しん、と冷え込んだ階段だ。真っ暗で、先も見えない。瑠璃は恐る恐る、足を階段にかけた。
「う、うん、おやすみ……ありがとう」
猫の入った段ボールを抱いたまま、彼女は何度も蒼を振り返り、ゆっくりときしむ階段の奥に吸い込まれていく。
きい、と扉の開く音。閉まる音……もう音は聞こえない。
「おやすみなさい」
甘く香る部屋の空気を吸い込んで、蒼は階段につながる扉を締めた。
そして冷たい扉に額を押し付け目を閉じる。
心音がうるさいほどに響いていた。この階段の先に瑠璃がいる……そう思うと、体が震える。
「おやすみなさい……また明日」
蒼は呟いた。
「……シアン」
蒼の言葉にかぶさるように、外では雪が降り落ちる音が響いていた。




