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バー群青の店の扉が静かに開いたのは、連日の雪にも飽き飽きとしてきた夕暮れ間近のこと。
「いらっしゃい……ま……せ」
顔をあげた蒼は、来客の顔を見て思わず皿を落としかける。
「……って! 瑠璃さん!」
蒼は大急ぎでカウンターを飛び出すと、その人の……瑠璃の腕を掴んでいた。
「蒼くん、どうした」
「ほんとに、瑠璃さん?」
最初の出会いも、蒼は思わず彼女の手を掴んでいた。そうしないと逃げられてしまう。そう思ったからだ。
初めて出会った時、瑠璃は蒼の手を拒否した。しかし今は振り払うこともしない。ただ、力なく笑う。
「いきなりだな、いつも君は」
「どうしたって……2週間も来てくれなかったから、僕……」
蒼は瑠璃の腕を掴んだまま、無理やり椅子に座らせた。
握りしめた腕が、前より細い。動きもどこか弱々しい。
(ちゃんとご飯、食べてましたか? いったいこの2週間何してたんです。顔色も悪いし、それに……)
矢継ぎ早に質問しそうになり、蒼は慌てて唇を噛みしめる。
「……瑠璃さんに何かあったのかって、心配してたんです」
幸い、他に客は居ない。
蒼は瑠璃に気づかれないように、扉の外に『準備中』の看板を出した。
「瑠璃さん、体調悪そうですけど」
「ちょっと徹夜が続いただけだから。ああ、そうだった。蒼くんには言っておかないと」
瑠璃は力無く、蒼を見あげた。
普段から青白い顔をしているというのに、今日は一段と白い。
目元もクマなのか、青くなっているようだ。泣いたような跡はみえないが、眠れていないのだろう。瞳がぼんやりとしている。
彼女はいつも緊張しているが、今日はいつもよりひどい。蒼は瑠璃の腕を離すタイミングを逃したまま、彼女の顔を覗き込む。
「ね、瑠璃さん。本当に体調大丈夫……」
「私さ、近々引っ越す予定だから。引っ越しの用意をしてたんだ。ちょっと遠くに行くし、もうお店来られないかもしれないけど」
そして少し力なく、彼女は笑うのだ。
「元気でね」
「鍋焼きうどん作ります」
蒼は瑠璃の言葉を最後まで聞かず、カウンターキッチンに駆け込んだ。
「食べていきますよね」
「は? 蒼くん、私の言ったこと聞いてないだろ……」
「実は今週、おでんを作ったんですよ、瑠璃さん来ると思ってたのに」
瑠璃の言葉を無視して、蒼は恨みがましく彼女を見つめる。
「おでんの出汁でうどん作るの、最高に美味しいんですよ。良かった。ちょうど1人前残ってるから、瑠璃さん用のを作れます。ちょっと待ってて。卵だけ切らしてるので、それだけ養鶏所に取りに行きます」
相手の反論を許さないように一気に言って、蒼は微笑んでみせた。
「……まさか逃げませんよね。美味しいうどんが待ってるのに」
キッチンの小窓から外を見れば、雪はちょうど止んでいる。
夕暮れの赤い日差しがゆるゆる広がり、白い雪の上を染めていた。
「寒いし、ここにいてください。10分で戻ります」
「……養鶏所、遠いよ。この辺、道ややこしいし、蒼くんわかんないでしょ」
ジャケットを羽織る蒼を見て、瑠璃が立ち上がる。
思わず瑠璃の腕を掴むと、彼女は肩をすくめて苦笑した。
「まだ引っ越さないし逃げないって。一緒に付いてってあげる、養鶏所」
彼女はそう言って、力のない手で蒼を手招くのだ。
この町は、よその土地より少しばかり複雑である。
かつて……もう500年だか600年ほど昔……この町は街道として栄えていたと歴史書には書いてある。
旅人のために道を整え整備して、住人たちは街道の裏路地で暮らすようになった。
やがて住人のために作られた細い路地裏は、人体をくまなく巡る毛細血管のように町中をびっしりと覆い尽くす。
「……で、それから道を変えずにずっとそのまま、何百年も。細い道とか壊れた橋とかあるから、歩いてたらいきなり袋小路になったり、道が途切れたりする。すぐそこに見えてる場所にいきたくても、いけない」
店を出ると、瑠璃は迷わず道を曲がり、家と家の間を進んだ。
地図にはない場所を歩き、廃墟の庭を突き抜け、錆が浮く橋を平然と渡る。
「蒼くんも、前にパン屋に行こうとして迷った、って言ってただろ。パン屋ってちょっと高台に見えてるとこ? あそこに行くには遠回りしか道がない。しかも道なき道を行くしか無い。だからみんな迷う」
瑠璃が進むのは、蒼が初めて通る道である。
遠目には道があることさえ分からなかった。増築に増築を重ねた、違法建築も数多い。1階が破壊され、微妙なバランスで建っているような家もある。
崩れかけた家の壁で頭をぶつけないように、彼女は蒼に手で合図した。
(……やっぱり瑠璃さん、今日は変だ)
と、蒼は思う。いつもより饒舌だ。
まるで何かの重荷が降りたように、彼女はゆっくりと言葉を紡いでいる。
「それがここ、キンコツの町だ。昔は観光客も多かったけど、宇宙移住の計画が始まったらみんな出ていって、残ったのは廃墟ばっかり。まあ、どこの地方もみんなそうなんだろうけど」
細い排水路をまたぐように、家が建っている。どうやって家に入るかわからないような、高い位置に玄関を設けた家もある。
それを見上げて、瑠璃は懐かしむように呟いた。
「ただ、キンコツは入り組みすぎて区画整理ができないまま。だから昔の形を保ってる……まあ、実際はボロボロだし違法建築。住んだら底が抜けると思うけど」
瑠璃の蹴飛ばした空き缶が、音を立てて細道の影に転がっていく。そこには養鶏場。と書かれた看板があった。
矢印の方角は、東。
「これは嘘。工事中に誰かが看板を適当にこの辺に置いたんだ。養鶏場は、もっと山の方」
瑠璃は看板を直すと家と家の隙間を抜けて、道を曲がった。人が通る場所とも思えない川の際を器用に歩きながら蒼を振り返る。
「とろとろ歩いてたら、養鶏所閉まるぞ。あそこ、18時だか19時までだったし」
おかげで蒼が想像していたより10分は早く、国道に抜けた。
「瑠璃さんこのあたり詳しいんです?」
「母親の出身地」
白い息を吐いて、瑠璃がコートの前を合わせる。
「……というか、歴史のあたりは菊川さんの受け売り。私がキンコツに住んでたのは子供の時だけで歴史とか全然知らなかったし。でも養鶏所は昔からあるから、何度も行ってる、安心して」
「菊川?」
「えっと、私の上司」
聞き慣れない言葉に蒼の眉が寄る。どんな人ですか、と聞きかけた言葉を蒼はぐっと飲み込んだ。
そのかわりに、瑠璃の隣へさり気なく並んで半歩、近づく。触れた肩が暖かく、蒼はほっと息を吐いた。
瑠璃がここにいる。それだけで、蒼の中のこわばりがほぐれて行く。
「……もう、うちの店、変な客入れないようにしたから、瑠璃さんお店来てくれて大丈夫ですよ」
地面に残る雪を踏みしめ、蒼は何気なく言った。
「ああ、あの人達の、こと?」
「住人じゃないです。津島さんたちが追い払ってくれたからもう二度と来ません」
瑠璃に絡んでいた眼鏡とスーツの男たちは、東京から来た。と、津島に語ったという。
この地に探し求める人がいると噂に聞いて、足を運んだ。
しかしどこにも見当たらず、イライラとして思わず絡み酒をしてしまった……と、反省の言葉を口にしたそうだが、津島親子は彼らを追い出した。
風紀を乱す連中だ、と小左衛門は未だに怒っている。
あの連中のせいで瑠璃が姿を見せなくなった。と、蒼はそう思っているし、津島親子もそう考えたようだ。
しかし瑠璃は蒼の言葉を聞いても、動揺さえ見せなかった。
「あの人たちの言葉も、あってるんじゃない? そのシアンって人の書いた小説で、移住が推進されたんでしょ」
瑠璃は蒼を見ない。ただぼんやりと空を見上げて、彼女は白い息を吐く。
「親の七光りで小説家になったくせに、売り出されて、天狗になってさ」
山に近づくと、冷気はひどくなる。市街地では溶けてしまった雪がこの辺りはまだまだ残っているせいだ。
二人で歩くと積もったばかりの雪がぎしぎしと、激しい音をたてた。
「その人の名前をつけられた……宇宙移住の推進用の遊覧観光シャトルが大事故起こして、いっぱい人が……死んだ。それで、挙げ句、結局、そいつは逃げた。ずるいよね」
「それは」
「蒼くん、養鶏所そこ」
瑠璃が蒼の肩をたたき、山裾を指す。
そこには巨大なビニールハウスと、むっと煮詰まったような獣の香りがする。それと、あたり一面に広がる、鶏の声。
入り口には『天領養鶏所』と大きな看板がかかっている。
「……蒼くん」
看板を見つめたまま、瑠璃が蒼の名を呼んだ。
彼女はナイフのように鋭い目線で、蒼を見つめていた。
「文字は人を殺すんだよ」
吐き捨てるような瑠璃の一言は、鳥の声に紛れることなく蒼の耳にはっきりと突き刺さった。




