3
「や、そうじゃなく」
眼鏡の顔が一瞬で、青色に染まった。びくりと震え、後退しようとして足を絡ませる。
情けなく地面にへたり込んだ彼は、怯える顔で上を見上げた……気がつくと、瑠璃をかばうような恰好で蒼が立っている。
腕には湯気の上がる食パンを抱え、瑠璃には背を向けたまま。そのせいで彼がどんな顔をしているのかは見えない。
ただ、化け物でも見るような顔で眼鏡が震えている。スーツも、驚くように目を丸めている。
その空気を割るように、ふくふくとした腕が眼鏡の腕を捕まえた。
「ほんまよ。若い子に絡んで、いやらしい」
「いや、そんな。ほんと、別にナンパってわけじゃ……」
「ほら、ほら、酔いすぎよぉ。おばあちゃんらが送ってあげるから」
花子とその友人の二人組だ。彼女たちはすっかりコートをまとって帰り支度が済んでいる。
花子はスーツのポケットに入っていた配給チケットを奪い取り、6枚のチケットを引き抜く。
「騒がしくしたお仕置きで、ここはみぃんな、あんたの奢りやよ。はいはい、帰ろうねえ」
チケットを机の上に置くと、津島は不器用なウインクを蒼に向けた。そして瑠璃に小さく手をふるのだ。
まだなにか文句を口にする男たちは、強靭な彼女らの手によって、あっという間に扉の外に。
……気がつけば、蒼と瑠璃、二人だけが店に残された。
「遅くなってごめんなさい、瑠璃さん。まだ、お……僕、この辺の道よくわかってなくて、迷っちゃって」
少しだけ蒼の言葉が硬い。乱れる息を堪えるように喋っているせいだ。
いつもは静かな彼の肩がかすかに上下し、白い首元に汗が流れているのが見えた。
首元のあたりで上下に揺れる青い髪には、かすかに黒い箇所が見える。やはり染めているのだな、と瑠璃は冷たくなったカップを握りしめたまま、ぼんやりと思う。
「大丈夫ですか? 瑠璃さん」
「別に助けてもらわなくても、自分でなんとかしたけど。ただの……世間話だし」
店は、しんと静まり返っている。
「ナンパじゃないよ。私なんかをナンパするような人いるわけないだろ。あの人達、誰かを探してたみたいで……」
握りしめる指先が少し震えた。
その震えを瑠璃はぐっと握りしめる。
「人を……私の知らない人のこと、聞かれた、から。知らないって、言っただけ」
男たちの残していったカップや皿だけがそこに残されていた。
二人の男が座っていたその場所だけが薄汚れて見える。
「そんなことより、いいの? 蒼くん、せっかくのお客さん」
「良いです。瑠璃さんにベタベタされるほうが僕、ずっと嫌なんで」
瑠璃は複雑な感情に蓋をして、下唇を噛みしめた。
「……変わってる」
蒼は瑠璃の顔を見て、何かをつぶやきかけ……目をそらす。
「それにナンパはあり得ることですよ。瑠璃さん、すごく不用心だから。変な人に狙われそうで心配です」
なにか言いたいことを堪えるようなその仕草は、彼の癖なのだろう。ぎこちない目線のそらし方は、まるで困った大型犬だ。
それを見て、瑠璃は思わず吹き出す。
「そんなことを自然に言える蒼くんこそ、女の子にもてもてだろ」
「残念ながらそうでもなくって」
蒼はようやく落ち着いたのか、苦笑交じりに店を片付けると、カウンターに駆け込んでいく。
そしてぎこちなく、瑠璃に笑顔を見せた。
「ラッキーですね。パン、焼き立てでしたよ。焼いちゃうのもったいないな。焼かずに、ふわふわのまま、食べましょうか」
「いや、私はもう……」
「せっかく用意したのに?」
思わず立ち上がった瑠璃だが、蒼の視線で動きが止まる。
仕方なく腰掛け直した瑠璃の前に、やがて厚切りの食パンとバター、黒い餡が置かれた。冷えてしまった珈琲酒のおかわりも。
手に持つと、ずっしりと指に圧力がかかるほどに重い重いパンだ。
割ると、ふんわりと湯気が上がる。周りはパリパリで真ん中はふわふわ。まさに焼き立てのそれに、瑠璃はそっとバターを染み込ませる。白いパン生地に驚くほど素直にバターが溶け、黄金色に輝いた。
「そこに餡も載せてみて」
期待のこもった蒼の目に押されるように、瑠璃はナイフで餡をとる。少しだけ取ろうとすると、蒼が小さく首を振るので、もう少し……たっぷりと。
焼きたてのパン、バターに溺れたそこに餡を載せてかじりつく……と、瑠璃の口元がだらしなく緩んだ。
パンの暖かさに、バターのしょっぱさ。わざとらしいほどの甘い餡。ふわりと口の中に広がった味に、瑠璃の空虚な場所がうまる。
珈琲酒の甘さが後味に、ゆっくりと染み込んでいく。
疲れがまるで流れ出すように消えていく。
「……おいしい。案外……あうね」
「珈琲も餡の小豆も、もともとは豆ですから。あいますよね」
蒼は満足そうに笑うと、紙袋から何か大きなものを取り出す。
「そうだ。パン屋さんに、余ったラジオをもらったんです。ずっと欲しかったんですけど全然手に入らなくて……パン屋さんの倉庫にあったものを直してくれたんです」
それは銀と黒の渋いラジオだ。東京はともかく、地方にいくとラジオが生命線だ。政府公式のものもあれば、民間が趣味で流す番組もある。
蒼は瑠璃の様子を伺うように、にこりと微笑んだ。
「ラジオも結構、最近は希少らしいですよ」
丸いスイッチをひねると、きゅるると異音が放たれ、続いて歪むような音楽が響く。
数十秒、スイッチをひねって音を探り続けると、やがて飛び飛びだった音がだんだん一つの音楽へとまとまっていく。
「……奇跡の歌」
どちらともなく、呟いた。
ゆるやかなピアノの旋律に、優しい女性の声が重なる。それはもう耳にタコができるほど聞き続けた曲。
数年前に売り出されたこの曲は、いまだに宇宙船が出発するロビーで流される。
お別れ会でも、送別会でも……あらゆる場所で流される。だから皆、飽き飽きしている。が、これ以上別れにふさわしい曲はどこにもないので、この曲は今日も流されるのだ。
蒼は眉を寄せ、ラジオをじっと見つめる。
「あの歌作った人って、確かほら、あれですよね。10数年前に流行った……離れてても恋してるとか、なんか恋愛ソングの」
「くり……栗田……亜美?」
「それ。その人が作ったんですって。元々は知り合いを見送るために作った、プライベートな曲だったらしいですけど。今じゃ誰でも知ってる歌でしょ。すごいですよね」
蒼が音の調整をしながら言葉を続ける。
この歌は日本を飛び越え、今や人がまばらになった世界中で歌われている。あらゆる言語に変換されて、このリズムと曲が鳴り響く。
全世界の人がこの歌をうたう。
蒼はぼんやりと聞き慣れたリズムに耳を傾け、冷蔵庫に背もたれをしていた。
宇宙移住の計画はここ10年で素晴らしい発展を遂げたが、事故も事件も悲劇も山のように起きた。
この曲を聞くだけで、誰でも過去を思い出す。そしてその時の感情を思い出す。
蒼にも知られたくない過去があるのだろうか。と、瑠璃は不意に思った。
「どんな気分なのかな、全世界の人が自分の歌うたってるって……世界中の人が自分を知ってる気分って」
「さあ」
瑠璃は指についた餡を舐める。
甘くて幸せな心地に反して、心がどんどん冷めていく。
先程までの動揺は音をたてるように引いていた。ゆっくりと、動悸が収まっていく。
残ったものは、覚悟だ。
昔から、覚悟と諦めだけは得意である。
「……最悪な気分なんじゃない?」
瑠璃は蒼に聞こえないように、そう呟いた。




