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(……気まずい)
知らない人間の視線にさらされて、瑠璃はうつむく。いや、実際は誰も瑠璃のことなど見ていないのかもしれない。
こういったときに感じる視線の9割は、自意識過剰の産物だと瑠璃は知っている。
しかし、瑠璃はいつも人の視線に晒されている……そんな恐怖を抱いてしまう。
河川敷の送迎会と同じだ。空気に馴染めない。
あのときに切った指の傷はもうすっかり癒えているはずなのに、指先がチクリと痛くなった。そんな気がする。
「あ……の……」
(大丈夫だ。この席は一番隅っこで光も当たらない。薄暗くて、私もじっとして……うつむいていれば、目立たない。誰も、私のことなんて、みてない)
瑠璃は震える指でカップをつかむと、珈琲酒を一口飲んで唇をきつく結ぶ。
大丈夫。これは魔法の言葉だ。自分で唱えるだけで心が落ち着く。大丈夫、大丈夫。
(誰も、こっちなんて、みない……みんな、私のことなんて、知らない。大丈夫、大丈夫)
これまでなら、一人きりになった瞬間、さっさと席を立って逃げていただろう。しかし今は蒼の言葉が楔のようになって、動けない。
帰らないで。蒼のはなったその言葉が、瑠璃を縛り付ける。
「……ですか?」
ただの口約束だ。
ただの口約束なのに。
「……ですよね?」
「は?」
濁ったような不快な声が耳をくすぐり、瑠璃は慌てて顔をあげる。
珈琲酒はすっかり冷めていた。クリーム色の表面に、重い影が揺れている。
「シアン先生、ですか?」
気がつくと瑠璃のすぐ真横に男の顔があった。驚いて瑠璃は体をそらす。
……男の体からは濃厚な……アルコールの匂いがした。
「お前、誰にでもそうやって絡むのよせって」
瑠璃が体をそらしたのと同時に、もうひとりが男の肩を掴む。
それは最初からカウンターに陣取っていた二人連れの客だ。眼鏡の男と、スーツの男。
20代後半か、30代……瑠璃とそう年代の変わらない二人連れ。この町で見かけたことがないので、きっと住人ではない。
眼鏡男はすっかり泥酔しているが、スーツの男はそれほど酔っていないらしい。彼は瑠璃をじっと見つめて首を振った。
「よく見ろって、シアンなわけないだろ。全然顔が違う」
彼はすっかり酔っ払った眼鏡を椅子に押し戻し、愛想笑いを浮かべて瑠璃を見る。
「ごめんねえ。こいつ、シアン先生の大ファンなんですよ。で、似た年齢の人見かけるとさ、見境なく声かけてんの」
「ファンってのは昔ね、昔の話ね」
眼鏡が大声をあげて、机を叩く。瑠璃は思わず息を呑んで、固まる。しかし瑠璃のそんな態度にも気づかない顔で眼鏡は低い声で唸った。
「あーもう、まあたガセネタかよ。この町で見かけたって噂があったんだけどなあ」
「それって誰のことぉ?」
人見知りをしない花子が無邪気に声をあげたので、二人の男の視線はそちらに向かう。
それを見て、瑠璃はようやく握りしめていた拳を緩めた。いつでも逃げられるように、腰をゆるゆると上げる。
「お兄ちゃんたち、誰か探してるなら、探してあげよっか」
花子とその横に座る女性2名は、年配の女性特有の朗らかさで男たちを自分の席へと引っ張り込んだ。
「この町は長いで、案内できるよぉ」
「あれ、おばあちゃん、シアンってしらない? 小説家で……」
ちらりと、スーツがカウンターの内側を見た。レジの横、そこには本が数冊置かれている。
シアンと書かれた背表紙のその本には、『青の世界』と、タイトルが刻まれている。
「シアンってのがまた、すごくってさ。8年くらい前かな、13歳で作家デビューして」
古臭い本の背表紙を見つめたまま、スーツがつぶやく。
「ガキのわりに、いい小説書いてたんだけどさ」
「違う! 違う違う違う。結局さあ、宇宙移住計画やってる会社の犬ってやつよ。もしかすると政府の犬かも」
静かなスーツの声は、眼鏡の怒声にかき消された。
「宇宙移住?」
「第……第何次だっけ? ほら、宇宙移住反対の風潮が上がったじゃない。あの時に、宇宙移住とか宇宙旅行の小説書いて、めっちゃくちゃ売れたんだよ」
花子が目を細め、焼酎を一口飲んだ。しょぼしょぼと、細い目が揺れている。
「売れとるならええやないの。そんな若い娘さんにひどいことを言わんでも」
花子の静かな声に、スーツとメガネが顔を合わせる。そしてやれやれ、と言わんばかりに肩をすくめるのだ。
やがてスーツが鞄から一冊の薄い雑誌を取り出し、広げて叩く。
シアンの文字と、モノクロ写真が瑠璃の目に飛び込んだ。それは腰まで長い髪を持つ、幼い少女の背中である。
大きくセンセーショナルな見出しの下に、カゲツというライターの名前が堂々と書かれている。
「これは?」
「古い週刊誌だけど、最近話題になってるやつ。当時も話題になったんだ。天才少女ってもてはやされたけど、蓋を開けてみれば……」
花子が目をしょぼしょぼと震わせて週刊誌を覗き込む。瑠璃の指先が少しずつ冷えていくのがわかった。しかし息を止めたまま、カップを掴んで瑠璃は前を見つめ続ける。
大丈夫、大丈夫。その言葉だけを繰り返す。
スーツと眼鏡は瑠璃などすでに眼中にないようで、花子に週刊誌を見せつけることに夢中だ。
「売れた小説はさ、実際は移住推進の会社に頼まれて書いた小説だったらしい。ま、それでもビジネスとしてはありだと思うよ」
「ただの親の七光りだよ。おばあちゃん。内容なんてクソつまらないもんさ。親が宇宙学者でさ、それで売れたってわけ」
「宇宙学者の名前がわかるなら、その子の本名もわかるんじゃね?」
「ばっかお前、あの時代の宇宙学者は全員偽名なんだ」
「分かってんのは、この町の出身者だったってだけ」
「だからさ、まだ生きてりゃ、ここに隠れてるってこともありえるわけ」
「そんなに、嫌うこと、あるかねえ」
スーツと眼鏡の掛け合いに、花子の声が静かに差し込まれる。お茶割り焼酎の入った湯呑を握りしめたまま、皺の寄った目で男を見上げる。
「若いんでしょ。その子。すごいじゃない。若いのにそんな小説書いて有名になって……それなのに、怒られるんかねえ」
花子の声は、見知らぬ少女を包み込むような優しさに満ちている。
「……可愛そうじゃないの。こんな時代なんだからみんな仲良くせんと」
「ごめんね、絡み酒」
その声を聞いて、スーツは酒が覚めたように苦笑した。そして眼鏡の背をとんとんと叩く。
「だめなんだよ、こいつ。可愛さ余って憎さ百倍っての? こいつ、シアン先生の大ファンだったから……」
「ただの人殺しだよ、あの女は」
しかし空気を読まない眼鏡は冷たく吐き捨て、乱暴にグラスを机に叩きつけた。
その言葉の鋭さに、店内がしん、と静まる。その静けさが彼を気まずくさせたのか、それをごまかすように眼鏡が瑠璃に一歩近づいた。
ひやりとした冷たい目線が、瑠璃に注がれる。
(……ああ、あの時と同じ、目線だ)
瑠璃は息をする事も忘れて、男を見上げた。
「だってさ、お姉さん。どう思う? あの女が元凶の遊覧船がどうなったか……6年前のあの事故は……」
「……お客さん、ここ、ナンパ禁止です」
その時、眼鏡の肩に白い指がぎりりと食い込んだ。




