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熱いお湯でインスタントの珈琲を溶いて、息を吐く。
薄いコーヒーを一口飲んで、瑠璃は部屋の窓を開けた。
外に広がるのは、一面の夜だ。
光もない。音もない。匂いもなく、流れてくる風には味もない。
こんな風景を見ると、世界には自分一人なのではないか……瑠璃はいつもそんな風に思ってしまう。
(……本当に一人だったら、何も迷うことなんてないんだけどな)
瑠璃はコーヒーの残りを一気に煽ると、うん。と伸びる。眼の前にはクタクタの藁半紙が山積みだ。
「よし、あともう少し」
瑠璃は窓を開け放ったまま、ペンを取った。
「瑠璃さん、見てください」
蒼が満面の笑みを浮かべる時、それは瑠璃が喜ぶことを確信したときだ……と、瑠璃は最近気がついた。
まるで大型犬にでも懐かれた気持ちになって、瑠璃は眉を寄せる。
動物は嫌いではないが、昔から犬より猫派である。
成人男性にむやみに懐かれるのは少々疲れる……それに蒼には大切な人がいると、小耳に挟んだ。
大切な人がいるくせに愛想を振りまくのは軟派な男だ。
しかし同時に、その「大事な人」に蒼はもっと優しい顔を見せるのだろうかと想像してしまい、瑠璃は唇を噛み締めた。
「……うん」
「瑠璃さん、反応が鈍いですね。眠い?」
「昨日、深夜まで、仕事で」
瑠璃は欠伸を手のひらで覆い隠し、こめかみを揉む。
閉じたまぶたの裏に見えるのは、夜の闇。ガタガタの印刷の文字がぎっちり詰まった、質の悪い紙。
(最近、ますます印刷が悪くなってる気がする)
瑠璃はもう一度欠伸を漏らして、ポケットに突っ込んでいた一枚の紙を広げる。
一番下、かすれた色で押されているのは行政のマークだ。
その下に、行数ツメツメで書かれているのは『キンコツのA地区、陥没修復工事のお知らせ』。
政府公式の発表はいつも急に決まるのだ。
道路工事のお知らせだとか、立入禁止地区の拡大だとか。そういったものを朝に間に合うよう、原稿整理するのも瑠璃の仕事だ。
深夜の時間は好きだが、睡眠リズムが一度狂うとなかなかもとには戻らない。
「ちゃんと寝なきゃ、瑠璃さん」
「……君は規則正しく生きてそうだもんな」
「そりゃもう、健康優良児なので……ね、それより。ほら、じゃーん」
瑠璃が嫌味っぽく言っても蒼は堪えない。彼はカウンターの内側から、何かを取り出してみせた。
「うん?」
「なにそれ、と聞くのが礼儀ですよ」
「……何だそれ」
蒼が持ち上げたのは、黒くて大きな瓶だ。瓶は黒く、中の液体も黒いのだろう。とぷり、と重そうな音が響く。
「珍しいでしょ。珈琲酒です。ミルクで割るとミルクコーヒーっぽくなるんです。ここでバーやってるって噂になって、みんなが余ったお酒とか回してくれるようになったから……」
蒼は壁にずらりと並ぶ瓶を見て満足そうに鼻を鳴らす。
最初、瑠璃がこの店に入った時に惹かれた酒瓶、実は半分以上が空っぽだった。
「今はもしかして、中身入り?」
「ええ、今では空っぽの瓶のほうが少ないです。ウイスキー、ブランデー、リキュール、焼酎」
蒼は壁をこんこんと叩く。以前までは無かった棚が増え、その上にも瓶が並んでいた。
「……据付の棚だけでは足りなくなって、常連さんが壁に追加の棚を作ってくれたんです」
ぎっしり並ぶ、様々な色と形の瓶を見上げて瑠璃はぽかんと口を開ける。
香草が沈んだ瓶に、毒々しいまでの赤い瓶まで。どんな味がするのだろう。
世界は瑠璃の知らない味で満ちている……思わず喉を鳴らしかけ、瑠璃は咳払いで誤魔化した。
「いいんじゃ……ない?」
「ようやくバーらしくなってきました」
黒に茶に青に赤。形も色も統一感のないその風景は、なるほどバーらしくはあった。
「……で、それはコーヒーを酒に溶かした?」
「コーヒー豆と氷砂糖を焼酎に漬け込んでるんです」
きょとんとした瑠璃をみて、蒼は照れたように笑う。
彼が瓶を振ると、とぷとぷと黒い液体が揺れる。確かにそれは、カップに注がれてるコーヒーと同じものに見えた。
「普通のコーヒーより飲みやすいですよ。アルコールはきついけど、甘くて、柔らかくってお酒って感じがしないんです。きっと瑠璃さんも好きですよ」
蒼はいつものカウンター内側に立っている。何を作っているのかはわからないが、ガラスの触れ合う音が心地よく響く。
その音を聞きながら、瑠璃は疲れた指先を揉んだ。
最近、仕事が妙に忙しい。
駅前にあるキンコツ新聞の事務所には瑠璃の机があるが、出歩くのはあまり好きではない。
そこで上司の菊川にわがままを言って、瑠璃の出勤は週に一回だけ。原稿を届ける日だけにしてもらった。
出勤しない分、原稿作成は手を抜かないと決めている。
どんどん受けているうちに、文字量が増え続けた。家には打ち込むための機械がないので、ペンに紙というアナログな方法で仕事をする羽目になる。
……そんなこんなで、指がくったりと疲れていた。
それを目ざとく見つけて、蒼がいたずらっぽく笑う。
「瑠璃さんも甘いお酒、飲みたい頃かなって」
一枚なら平気でも、枚数が増えれば指が疲れ、肩がこり、体が酒を求め始める。
ぷん、と鼻先に漂う甘い香りを嗅いで、瑠璃は苦笑した。
「なんで君はいつも、私の飲みたいものをそうやって当ててくるんだ」
瑠璃がわけもなく気が立っていた日。蒼が出したのは、見た目も可愛いイチゴ酒の牛乳割りと、ハムのサンドイッチ。
その前の日は、とにかく目が疲れていた。だから目に優しいブルーキュラソーのレモンソーダに、オムレツが出た。
不意にここ数日のことを思い出し、瑠璃は真顔になる。できるだけ立ち寄るまいと思っているのに、なんだかんだで毎日のように通っている。
(ここに来れば、食事ができるから。それだけだし……今いる客みたいな常連じゃないし、他意はないし、別に気に入ってるわけでは……)
現在、店内には瑠璃の他に2人連れの男性客と、3人の常連客がいた。
気づけばカウンター席は満席だ。
以前なら客が居るだけで足がすくんだが、一番奥の席が開いている時に限り、平気になった。そこは少し薄暗く、光が届かないのだ。
蒼もそれがわかっているのか、いつもその席に荷物を置いて瑠璃のために開けておいてくれる。
「はいどうぞ」
ビール、ウイスキー。皆がそれぞれ透明度の高いものを飲んでいる中、瑠璃の前に置かれたのはとろりと薄暗い色に染まるカップだった。
あたたかい牛乳の中に溶かされた珈琲のリキュールは、思った以上に甘い。鼻に抜ける珈琲の香りに瑠璃はほっと息を吐いた。
「お酒の味あんまりしない」
「酒飲みの才能ありますよ、瑠璃さん」
「ち、違う。甘いから……最近、ケーキとか、そういうの、出回ってなくて、舌が甘いものに敏感になってるっていうか……」
慌てて言い訳をする瑠璃を見て、彼は驚くほど優しい顔で微笑んだ。
「気をつけてくださいよ。そういうお酒はレディキラーって言われてるんですから……僕は真面目なので、ごくごく薄めで作ってます。でもじっくり漬け込んでるから、薄めでも香りはいいでしょ?」
夜中に飲んだインスタントコーヒーより、ちゃんと、ずっと美味しい香りがする。
「……ん。いい匂い」
「これに合わせるのは、これを塗った、トースト!」
「は?」
蒼が続いて取り出したのは、バターの瓶と……真っ黒に染まった大きな瓶だ。
ずっしりと重そうなそれに、瑠璃の顔が歪んで写っている。
「なんだそれ」
「餡、です」
「あん?」
「和菓子で使う、餡。ですよ」
そして彼はちらりとカウンター席の端に目線を送る。
「津島さんが餡作ってて、わけてくれたんです」
「美味しいわよぉ」
カウンターの真ん中に座っているのは津島というおばあさんだった。確か花子、という名前だったはずだ。
名前の花が自分のトレードマークだと言って、いつも花柄の付いた帽子をかぶっている。
さらに柔らかいストールを首にまいており、そこに顔を埋めるようにして笑うその顔は、まるでお地蔵様だ。
この店の常連なのか、3日に一度は姿を見せる。今も彼女の友人という女性たちと並び、にこにことおにぎりを頬張っている。
ぺこりと頭を下げると少し寂しそうに……それでも少し嬉しそうに彼女は目を細めて瑠璃を見た。
「甘すぎない味でねえ。小豆の味がホクホクなのよぉ」
「まあ騙されたと思って食べてみてください……って」
あ、と蒼が驚くほど大きな声を上げる。
「あ、だめだ。パン切らしちゃった」
「最近、大繁盛だもんな」
「だからって、私が来なくても……なんて謙遜、言わないでくださいよ」
蒼はカウンターから抜け出すと客たちに軽く頭を下げた。
「ちょっと待ってて。パン作ってる店で、もらってきます」
エプロンを片手で脱いでかごに放り投げると、彼は冷えた扉に手を置く。
「瑠璃さん。絶対待っててくださいね。帰らないで」
蒼は瑠璃だけ見つめて、そういった。




