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空が青く見えるのも夕日が赤く見えるのも目と脳が見せる錯覚だ。
つまり人間は自分の目と脳に騙され続けて一生を過ごす。
瑠璃は宇宙一尊敬する母から、そう学んだ。
「よっ……と」
瑠璃はプルトップを爪先でこじ開けて、ぬるいビールを喉の奥に流し込む。
その途端、鼻先に冷たい雫が跳ねて、彼女は眉を寄せた。
「ちょっと……今日晴れじゃなかったっけ?」
気がつくと、大きな雨粒が一滴、二滴。
あっという間に雨脚が強まって、眼鏡に水滴が広がる。
濡れた眼鏡の向こう側に、猫の親子が見えた。
するりと細い黒猫と、その足元に絡みつく毛玉のような子猫が3匹。
「早く屋根のあるところにいかないと、濡れちゃうよ」
猫は二、三度目を瞬かせると、子猫を連れて壁の隙間に吸い込まれていく。猫にまで見限られた瑠璃は、びしょ濡れのまま苦笑した。
(……雨の中でビールを飲む人間なんて、酔狂すぎて猫も近づかない、か)
瑠璃はふと、そんな言葉を思い出した。
それは瑠璃の上司、菊川の言葉だ。
(あれは確か半年前……あの日は送別会で……)
たった半年前なのに、思い返せば遙か昔のようだ。
ちりりと痛むこめかみを押さえて、瑠璃は目を閉じた。そうすると、瞼の裏に半年前の風景が浮かんでくる。
残念ながら瑠璃は記憶がいい。楽しいことも嫌なことも、この小さな脳はすべて記憶していて瑠璃を時折揺さぶるのだ。
(あれは10人を見送る……送別会……で)
思い出したのは、半年前の出来事だ。
それは瑠璃の入社日であり、同時に知らない人たちの送別会の日。
『はじめまして』と『さようなら』が重なる日だ。
感傷と追憶に浸る見知らぬ人々に囲まれて、河川敷でバーベキューを行った。
……なかなかハードルの高いイベントだ。とくに瑠璃のように、人とふれあうのが苦手な人間にとっては。
(それで……)
瑠璃はあの時と同じように、プルトップの尖ったところに指を置く。
(指を切ったんだ)
あの日も瑠璃は今と同じように、ビールのプルトップに指を置いた。
気まずさのせいだけではない。人生で初めてビールというものを口にしたせいだ。
18歳を超えれば合法的に飲酒が認められる。そう決まったのは100年も前だ……と、歴史の教科書ではそう学んだ。
が、瑠璃自身は21歳を迎える半年前まで、アルコールを口にしなかった。真面目というわけではない。ただ機会に恵まれなかっただけだ。
送別会では当然のようにビールが配られ、乾杯の声が響く。仕方なく口にしたビールは想像していたよりもずっと苦くて、アルコールは舌を痺れさせた。
その味に驚いたせいで、指先を軽く切ったのだ。
硬い金属が瑠璃の柔らかい皮膚を突きやぶる。「あ」と声を上げた瑠璃に気づいた菊川が、気づくと横にいた。
右手はあなたの商売道具よ。大事になさい。菊川はそんなことを言って、瑠璃の指に絆創膏を貼ってくれた。
その瞬間、天気予報を覆して雨が降り始める。
誰かが涙雨だと言って、その言葉に誰かが泣いた。
涙は少しずつ伝染し、誰かが「奇跡の歌」を口ずさむ。隣の男性も口ずさみ、向かいの女性も、後ろにいた男性も。
そして歌はやがて河川敷一面に歌が広がった。
『必ずどこかで、私たちは繋がっている。暗闇の中でも、青い光が私たちを導くから』
大粒の雨、光る川に、濡れるたき火、円陣を組んで歌う人々。
白々しい騒々しさを見つめながら、瑠璃は一人、醒めた目でビールを飲んでいた。
そんな瑠璃を見て、菊川がニヒルに笑ったのだ。
『雨の中でビールを飲む人間なんて、酔狂すぎて猫も近づかない』
河川敷の向こうを足早に駆けていく猫を指差し、彼女は言った。
『それにね。普通の人は雨が降ったら傘をさすのよ。もしくは傘を誰かに差し出されるの』
そして瑠璃の頭の上に雨除けのハンカチを置きながら、まるで聞き分けのない妹に対するように言ったのだ。
『きっと、いつかあなたにも現れるわ。そういう人がね』
そんな事を言いながら、彼女自身も雨に降られたまま、フヤケた煙草をふかしていた。
それが半年前のこと。
(いつか、ね)
瑠璃はビールの缶を握りしめる。唇を噛みしめる。
(……まあ、一生無いと思うけど)
その瞬間、瑠璃は青い影に包み込まれていた。