お姉
ーーここが好機。
リンが掌を上に向けて腕を横に伸ばすと、滝の水がバウの手を受け皿にして溜まっていく。
水の勢いが強いため、一瞬で水でいっぱいになった大きな掌をリンが容赦なく振るう。
ボールのように投げつけられた水の塊は、小さくなったヨウガントの肩を再び黒く固めた。
自らの不利を悟ったらしいヨウガントは、踵を返して素早く駆け出した。
リンは追いかけようとしたけれど、速さ勝負になれば、小さくなったヨウガントに軍配があがる。
ーーそして、なによりも。
転がり落ちるように、リンがバウの胸から飛び出した。
地面に転げた痛みなど感じる余裕もなく、喉元にせり上がってくる不快感に任せて、咳きこみながら激しく嘔吐してしまう。
「はじめてにしては、よく耐えた。及第点だろう」
やや尊大にリンを褒めながら、バウは現れた時と同じくらい唐突に崩れ落ち、バラバラの石の塊へと戻った。
「全部夢だった……なんてことが起きたらいいのにな」
一番の非現実だった二体のゴーレムは消えてしまったけれど、サオリの受けた被害は消えない。
灰になった家や炭になった人がどうしても視界に入ってしまうせいで、すべてを夢で片付けることもできない。
リンはバウだった石の山を見つめた。
その頂点に、青色がチラリと見える。
疲れ果てた体に鞭を打ってヨロヨロと立ち上がったリンは、両手足を使ってバウの残骸をよじ登り、一番上に転がっていた青色の元へと辿りついた。
その青色の正体は、ぼんやりとした青い光を放つ、リンが片手でなんとか持てるくらいの大きさの水晶玉だ。
「我とそなたの契約の証だ。我がミールよ。我の力が必要なその時は、証に呼びかけるといい」
水晶から聞こえたバウの声に、リンは「ありがとう」と答えて水晶をポケットへしまった。
これまで感じたことがないほどの鋭い痛みを味わい、精神をゴーレムと融合させて戦ったリンは今すぐ気を失いたいくらいに疲れ切っていたけれど、今倒れるわけにはいかなかった。
最後の気力を振り絞って、リンはゴーレムの四歩を戻るため、元々洞窟があった山へ向かって歩き出した。
「姉ちゃん、起きて」
四百歩歩いたあたりでぐったりとしているランを見つけたリンは、その傍にしゃがみこんでランの体を揺すった。
バクバクと心臓が鳴り響いている。
大丈夫、大丈夫、とおまじないのように何度も繰り返しながら、リンはランの体を優しく揺すり続ける。
「姉ちゃん!」
リンの縋るような大声にか、緩く揺すられる肩にか。
どちらがキッカケかはわからないが、ランの睫毛がフルフルと震えて、瞼の奥から瞳が現れた。
「……りん」
「ねっ、姉ちゃんっ!」
ーーもう大丈夫だ。
一瞬そう思ったリンは、けれどランの顔を見て絶望した。
ランの赤い唇が、さらに鮮やかな深紅で彩られている。
リンを呼ぶために薄く開いた隙間から、たらり、と血が滴った。
唇を噛み締めてしまったとか、口内を嚙んでしまったとか、そういった軽微な出血でないことは確かだ。
大丈夫よ、とほとんど聞こえないくらいの掠れ声が紡ぐ。
リンの視界は涙で滲んでいたけれど、それでもランが優しく穏やかに、いつも通りに笑ってくれているのがわかった。
「もっとたくさん、教えてあげなくちゃいけないことがあったの」
ランの手が、リンの手を包みこむように握ってくれる。
ほとんど力は入っておらず、ギョッとするほどに冷たかった。
「でも、大丈夫。バウ様が、あなたを認めてくださった」
ハァ、と熱い呼吸の音がする。
ランの喉が悲鳴をあげるように、ゼィゼィと音を奏でた。
リンは耐えきれず、ランの肩に縋るようにしがみついた。
「やだ、やだよ。姉ちゃん、死んじゃダメ」
「大丈夫、大丈夫よ。バウ様が付いていてくださるから、なにも怖くはないわ。ねぇ、リン。リナを、お願いね」
だんだんと小さくなっていく声。
辛うじて聞き取れたそれが、ランの最後の言葉だった。