その名は。
崩れた家、亡くなった人、呆然と立ち尽くす人。
ついさっきまでの国とはまったく違うその姿に、どうしたって理解が追い付かない。
リンは必死に走りながら、あふれる涙を抑えることができなかった。
「姉ちゃん、姉ちゃん」
縋るようにランを呼んでも、答える声はない。
全部、自分が悪いような気がしてくる。
今日の講義終わりにこっそり逃げ出すようなことをしなければ。
三人一緒に山を降りていれば。
あの家に、ランもリナも一緒にいたのだろう。
悪い方へ悪い方へと転がる思考は留まるところを知らない。
そもそもリンがこっそり逃げ出したりしなければ、こんな状況にならなかったのではないだろうか、なんてバカげた考えまでリンの頭には浮かんでしまった。
この襲撃とリンは、なにも関わりがないというのに。
毎日毎日歩く道が、がれきに覆われていつもと違う姿を晒している。
恐怖に足が竦みそうになる度に、リンは「姉ちゃん」とランを呼ぶことで耐えて、足を動かした。
ふと、リンの背中を熱風が撫でる。
また、近くで火事が起きてしまったのかもしれない。
安全を確保するために状況を確認しようと軽く振り返ったリンは、思わず足を止めてしまった。
さっき家から見えた手があった。
その手は腕に繋がっていて、腕は肩に、肩は胴体へと繋がっている。
そこには、橙色の燃え滾るもので形成された人型のものがいた。
今まで何度も話に聞いてきたのだ。
教えてくれるランが傍におらずとも、リンはその正体を正しく理解していた。
「ゴーレム……」
リンやランが力で作るような、簡単に抱きあげられそうな小さなものではない。
人間の何倍も大きなゴーレム。
千年前に一斉に眠りについたと伝えられている、本物のゴーレムだ。
ーー目が、合った。
平面的な距離も、立体的な距離も、多分にある。
けれど、リンは確かにそう感じた。
ずどん、ずどん、と大きな足音を立てて、ゴーレムが近寄ってくる。
その体で、ゴボリ、と膨れ上がった橙色の液体らしきものが弾けるのが見えた。
「よう、がん……?」
噴火する山に存在しているという燃え滾る石の話を、ランの講義で聞いたような覚えがあった。
試験で間違えたから、と十回も書き取りをさせられたから、記憶に残っていたのだ。
驚きと恐怖からか、今の状況ではどうでもいいともいえることを考えて固まっていたリンの体に、汗が吹き出すほどの熱風が吹きつけられた。
「……姉ちゃん!」
溶岩ゴーレムの攻撃とも思っていないであろう攻撃を受けてようやく正気に戻ったリンは、転がるような勢いで再び駆け出した。
後ろから、なにかが燃える匂いがする。
なにかが崩れるような音がする。
命乞いをする声が、途中で途切れたのがわかる。
けれど、リンはもう振り向かずに、必死に走り続けた。
命乞いの声に聞き覚えがあったことになんて、気付いてはいけない。
何故、溶岩ゴーレムがリンを追っているのかはわからない。
リン以外にも人間はまだ残っているのに、どうしてリンなのか。
けれど、追ってくる以上は逃げなくてはならない。
「姉ちゃん、姉ちゃん……」
自分を守るように何度も何度もランを呼びながら、リンは走った。
息が切れて、脇腹が痛くなって、足がふらついても、走った。
洞窟まで、いつもはすぐに着くのに。
焦っているせいなのか、足場が悪いせいなのかはわからないけれど、今日はなかなか着かないような気がする。
大きく口を開けて必死に呼吸をしながら、リンはようやく山への入り口へ飛びこんだ。
慣れた獣道を駆け上っていく。
山はまだ大きな被害を受けていなかったのか、目に映る景色はいつも通りだ。
背後には非現実が迫っているけれど、いつも通りの山はリンを少しだけ安心させてくれた。
「姉ちゃんっ!」
「リンっ!」
何度目かの呼びかけに、ようやく返事があった。
少し先まで迫った洞窟から、ランが飛び出してくるのが見えた。
いつも綺麗に整えられている巫女服は少々乱れていて、肩口にはほつれも見える。
袖には、なにかが突き刺さったような穴も開いていた。
「姉ちゃん!」
「リン、ひとりにしてごめんね! 奥にリナがいるはずなの、探して一緒に逃げてっ!」
「わかっーー」
わかった、と答えようとしたリンは、体に走った衝撃に言葉を途切れさせた。
息が詰まるような、感覚。
一拍間を置いて、リンは自分が地面に俯せに転がっていることに気付いた。
木の根か草に足を取られて、転んでしまったようだ。
山道ではよくあること。
だが、追われる立場では、あってはいけないことだった。
「リンっ!」
ランの声が、ずっと遠くから聞こえるような気がした。
頭の中を色々な情報が駆け巡っていく。
これが走馬灯だろうか、とリンは思う。
背後に感じていた熱さが近寄ってくるのがわかった。
俯せのまま首を回して背後を確認したリンは、自分に向かって振り下ろされようとしている大きな拳を見た。
ーーあぁ、もう駄目だ。
拳が振り下ろされる。
リンは立ち上がることすらできずに、その拳を見ていた。
木々が騒めくほどの強い風が吹き抜けたけれど、その程度で溶岩ゴーレムの拳が止まることはない。
ーー振り下ろされた拳は、リンの頭上でなにかにぶつかったように弾かれた。
「……は?」
完全に死を覚悟していたリンは、予想外の顛末に思わず間の抜けた声をあげてしまう。
「リン、大丈夫っ? 早く逃げてっ!」
ランの声によって急激に現実に引き戻されたリンは、弾かれたように立ち上がって、再び駆け出した。
後ろに熱を感じる。
恐らく、溶岩ゴーレムが火の玉で攻撃しているのだろう。
けれど、熱を感じる度に強い風が吹いて、リンに攻撃が当たることはなかった。
まっすぐに腕をこちらに伸ばしているランの姿が見える。
リンに防御壁のようなものを作ってくれているのはランなのだろう。
ランにそんな力があるなんて、リンは聞いたこともなかった。
「ゴーレムを作る力より、こっちを先に教えてあげるべきだったわね」
ランの横を駆け抜ける瞬間、そんなおどけた声が聞こえた。
不安でいっぱいなリンを少しでも宥めようと、いつも通りを装ったのだろう。
「リナをよろしくね、リン」
「わかった!」
リンは振り向かずに走った。
ランもきっと、振り向いていないだろう。
洞窟を駆け抜けたリンは、崩れた社の前で大きく息を吸った。
「リナぁああああああああああぁああああぁああ!」
声を限りに叫ぶと、微かに声が聞こえた。
小さすぎて場所の特定まではできないけれど、確かに、社の方だった。
リナの名を呼びながら、リンは社に近付いていく。
微かな声を聞き逃さないように、なるべく音を立てないように注意しながらがれきをどかしていくリンの耳に、再び小さな「お兄ちゃん」という声が届いた。
声の聞こえた方を注意深く見ると、小枝のような細い腕が、重なったがれきの隙間に見えた。
「リナっ!」
すかさず駆け寄って、リンはリナの体を覆うがれきをすばやく取り去ってやった。
腕が露わになり、頭が見えた。
リナは地面に俯せに倒れた状態でがれきに埋まっているようだった。
背中のがれきをどかし終えたリンは、クラリとした眩暈を感じた。
リナの背を圧し潰すように、彼女の胴よりも太い社の大黒柱が転がっていたのだ。
「お兄ちゃん、痛いよぅ」
うるうると目を潤ませて訴えるリナに、リンは精一杯の笑顔を向けた。
「大丈夫! すぐに兄ちゃんが助けてやるからな!」
リンは大黒柱に手をかけたけれど、所詮子供の力だ、動くわけがない。
「お兄ちゃん……」
リナの声から、力がなくなっていく。
「大丈夫、大丈夫だからな!」
なんとか安心させようにも、リンの声には隠し切れない焦りが滲んでしまっていた。
ぐらり、と地面が揺れた。
「……え?」
耳が痛くなるほどの轟音が響き渡る中、洞窟が崩れ落ちてくるのを、リンは見た。
リンは咄嗟に両腕を上へ伸ばした。
ゴーレムを作る要領で力を籠めると、石の塊はリンを避けるように降り注いできた。
洞窟の壁や天井だけでなく、地面にまで亀裂が走り、様々な場所で地崩れが起こるのが音でわかった。
しばらく耐え抜けば、上方はすべて崩れてしまったのか、降り注ぐ石の塊が数を減らして、ついに止まった。
もくもくと舞う土埃のせいで視界が制限されている。
家で花火を見ている時は薄暗い程度だったはずの空は、いつの間にか夜の帳に覆われていた。
自分の手すらよく見えない暗闇の中で、リンは必死に地面をまさぐった。
つい先程まで、洞窟が崩れる直前までリナがいた場所。
けれど今はどんなに指先に神経を尖らせて探っても、リンの手に触れるのは硬い石の塊ばかりだ。
この暗さでは、リナがこの石に圧し潰されてしまったのか、それとも地面が崩れたせいで離れた場所に流されてしまったのかも判別ができない。
「ちくしょう……! もっとちゃんと、訓練しておくんだった!」
吐き捨てるようにリンは呟く。
遊ぶことにかまけて力を制御する訓練を怠ったのは、他でもないリンだ。
リンの力の制御がもっとうまければ、自分だけでなく、リナだって守ることができたはずなのに。
不意に、世界が橙の光で照らされた。
暗いままよりも明るい方がいいに決まっているけれど、光の色を見る限り、手放しで喜ぶことはできない。
光源の方を振り向いたリンの目に映ったのは、ゆっくりと上半身を起こすような動きをしている溶岩ゴーレムだった。
蹲るような姿勢になっていたから、リンの位置まで光が届いていなかったのだろう。
溶岩ゴーレムに照らされた範囲に、赤色が見えた。
「姉ちゃん……!」
土埃にまみれた赤い袴が、少しだけ見えている。
見える面積と角度から察するに、地面に倒れ伏しているらしい。
距離が離れているせいで、意識の有無まではわからない。
リンは両手を地面につけた。
掌に意識を集中すると、ジンワリとした熱さを感じる。
リンが注ぎこむ力に呼応するように、周囲の石の塊がカタカタと揺れはじめる。
ーーけれど、それだけだった。
ランと比べるとまだまだ未熟なリンの力では、洞窟が崩れたあとの大きな石の塊を操ることはできない。
リンでも操れるような大きさの小石たちはすべて大きな石の塊の下敷きになっていて、操ることはできても、塊の下から出すことは難しいようだった。
身を起こし終えた溶岩ゴーレムが、地響きとともに歩きはじめる。
ランが踏み潰されるまで、ほとんど猶予は残されていない。
リンは熱さで痛みを感じる程に掌へ意識を集中させたけれど、やはり、石の塊を動かすことはできなかった。
「誰か……誰か! 助けてっ!」
助けは来ないことを、リンは疾うに知っていた。
山の麓から響いていた悲鳴は、もう聞こえない。
サオリに民はもう残っていないのだろう。
全員が息絶えたのか、それとも運よく逃げ切れた者がいるのかはわからないけれど。
そもそも、ゴーレムに対抗できるような力を持っているのは、リンたちの血筋だけだ。
「ゴーレム様は人間を守ってくれるんじゃなかったのかよ……!」
奇しくも今日聞いたばかりの昔語りが、頭にこびりついていた。
人間を守ってくれるはずのゴーレムに、攻撃されている。
感嘆には受け入れられないその状況は、事実としてリンの目の前にある。
「姉ちゃん、リナ……」
リンの目から大粒の涙が溢れ出した。
ランとリンの年が七つも離れていたこともあって、リンには「男なのだから姉と妹を守らなくてはならない」という意識が希薄だった。
リナと一緒に、いつもランに守られていたからだ。
孤軍奮闘しなければならない状況になってはじめて、リンは自分の無力さを痛感した。
「頼む……頼むよ。動いて……俺を助けてくれッ!」
リンは残る力を振り絞った。
体中の血が沸騰しているかのように、全身がカッと熱くなる。
文字通り、全身全霊で挑んだリンに応えるように、リンを中心として円を描くように周囲の地面が突如として発光した。