⚂
俺は口元の血を拭った。
それが合図だったかのように、靄に包まれていた絡新婦がまとわりつく靄を払い姿を現した。
『小癪な真似を……。檻の中で尻尾を丸めておるとは、お笑い種じゃの』
挑発する絡新婦に、九尾の狐は低く唸り声をあげた。
よほどの恨みがあるのか、九尾の狐の周りに陽炎がたっている。
今にも檻を破り絡新婦に襲い掛かりそうだ。
でも、九尾の狐は俺の願いを聞き入れ、絡新婦を睨みつけるに止めている
「お前の相手は俺だ」
絡新婦の視線を奪うように、九尾の狐の檻の前に立ちはだかる。
凄みを利かして睨んだつもりだが、絡新婦は見下したような薄ら笑いを漏らした。
『クックック……。どちらが相手でも構わぬぞ。二人を相手にしたところで、我には造作もないことじゃがの』
言うが早いか、絡新婦は大きく口を開けると、クモを吐き出した。
サワサワと音を立て、大量のクモがこちらに迫ってくる。
『簡単に死なれてもつまらぬ。お主にこれを貸してやる』
背後で九尾の狐がそう言った。
すると、暗闇に小さな白炎が瞬いた。それはたちまち勢いを増すと、白い炎を纏った剣の形となった。
『それでヤツの心の蔵を貫け』
言われるがままに空中に浮かんだその剣を掴んだ。
ずしりと重みのある剣を構え、絡新婦に怒りの眼差しを向けた。
驚いた表情を見せたのは一瞬のこと。
絡新婦はバカにしたような笑みを浮かべた。
『そんな子どもの玩具で我の心の蔵を貫くじゃと? バカも休み休みいえ。お前を塵にするくらい造作もないが……、お前は極上の魂を持っておる。塵にするには惜しいのう』
絡新婦は頭から足まで嘗め回すように見ると、舌なめずりをした。
「お前になんか喰われてたまるかッ」
啖呵をきって向かっていったのはいいが、これまで剣なんか使ったことがないから、足元にいるクモを払うので精いっぱいだった。
悲しいことに、絡新婦にたどり着く前に息絶えそうだ。
そんな俺を見かねてか、九尾の狐が忌々し気に叫んだ。
『なんじゃそのへっぴり腰は! 剣は振り回せばいいというものではない。対象物から目を反らすなッ』
言われたとおりに体を動かそうにも、武道など携わったことがない俺にすんなりできるはずもない。
『ただ切りつけるだけではダメじゃ』
『違うッ! そうではない』
『何度同じことを言えばいいのじゃ』
一生懸命やっているのに思うように動けず、詰られ続ける。
『ああ、ダメじゃ。何をやっておる……』
『お前はわらわをからかっておるのか?』
うまく動けるようになるどころか、すでに息切れし始めている。
しかもクモの量が半端なく増えているのは気のせいか……。
「こいつら……さっきより増えてないか?」
『そやつらは単に切るだけでは、数を増やすだけじゃ。さっきからそう申しておろう』
「は? そんなこと……言ってたか?」
それ、今初めて聞いたけどッ!
そう言い返そうとしたが、クモを振り払うのがやっとだ。息が上がっている俺は話すことさえままならない。
『ほんに情けない……。こんな奴の願いなんぞ聞いたのが間違いじゃった』
九尾の狐があきれたようにため息をついた。
絡新婦と言えば高見の見物ときてる。
『人間に与するとは、九尾の狐も下郎に成り下がったものだな。貸してやった玩具もまともに使えぬ奴じゃぞ? 天下に轟く九尾の狐が聞いてあきれるわ』
露骨に蔑む絡新婦に、皮肉に答える九尾の狐。
『虫けらに言われとうないわ』
だがその言葉は笑い飛ばされる。
『そんなところでほざいておっても、痛くも痒くもないわ』
絡新婦の言葉に、九尾の狐が奥歯を噛み締めたのがわかった。
胸がチクリと痛んだが、これは俺が決着をつけなきゃいけないことだ。
小さなクモの群れに苦戦する俺を、絡新婦が鼻で笑う。
『たいそうな玩具を振り回すから、そこそこ楽しめるかと思うたが、他愛もない。ほんにつまらんのう。もう少し我を楽しませておくれ』
すると、パラパラと糸が降ってきた。
クモを排除することに専念していた俺は、降ってくる糸をまったく気にしていなかった。
でも、糸は俺の身体に触れる直前針へと姿を変えた。
体に幾筋もの赤い線が走る。
けれど、数は多いがチクッと感じる程度で大した痛みはなかった。
『その針をないがしろにしてはならぬ。動きを封じられてしまうぞえ』
せっかく九尾の狐が助言をしてくれたが、すでに遅く、体の感覚が少しずつ鈍くなってきていた。
「そういうの、早く……教えてくれないかな」
『愚か者がッ! 妖の攻撃を避けぬほうがおかしいのじゃッ!』
せっかく九尾の狐が力添えしてくれてるのに、俺にはそれを使いこなす技量がない。自分のことながら、だんだん腹が立ってきた。体もどんどん麻痺してきて、剣を握っているのもやっとだ。
だが九尾の狐に怒鳴られ、俺の中で何かのスイッチが入った。
「あー、もうッ!」
半ばやけくそぎみに剣で薙ぎ払った。
すると剣を纏っていた炎の勢いが増し、纏わりついていたクモが塵となって消えうせた。
『ようやくできるようになったか』
感心ともあきれともつかない声を漏らした九尾の狐に対し、絡新婦はあからさまに侮蔑したような笑いを漏らした。
『今更遅いわッ!』
言うなり絡新婦は先ほどよりも長く太い糸を何本もつくると、俺めがけて投げつけてきた。まるで大きな杭のようだ。
俺は懸命にそれを払いのけるが、すべてをよけきれるはずもなく、何本かは体に傷を作った。
そのうちの一本が、左腕の付け根のところに突き刺さった。
「ウグッ!」
その杭は刺さっただけではなく、意思を持ったかのようにグリグリとさらにめり込んでいく。
「うあ……ああああああああ!」
痛みに片膝をつき叫び声をあげた俺を、絡新婦が嘲笑う。
『ほんに遊びがいのない奴じゃ』
絡新婦は俺に糸を巻きつけると、その糸を引っ張り上げる。
引っ張りあげられ宙に浮いた俺を勢いよく地面へと叩きつけた。
「グホッ……」
痛みにうずくまる暇もなくすぐさま引っ張り上げられ、そして、同じように地面へと叩きつけられる。
尋常じゃない痛みにうめき声すら出ない。このままでは体も心も持たない。だが、糸を切ろうにも体と共に両手も縛られている。
どうすれば……。
思考をめぐらそうにも、痛みで何も考えられない。そんな俺に絡新婦が冷笑を浴びせる。
『あやつの方がまだ気骨があったのう』
「た、匠実のことを……言っているのか?」
『名などいちいち覚えておらんわ。でも友救うんじゃと息巻いておったのう』
『匠実が?』
聞き返した俺に、後ろから九尾の狐が叫ぶ。
『ヤツの話に耳を貸すな! 囚われる――』
『あやつは……』
九尾の狐の言葉を遮るように、絡新婦が声を張る。
『あやつは我を見ても怖がらなかった。逆に笑っておったわ。ようやく友と同じ景色が見れたと言ってな。じゃが、奴も大したことなかったのう。せっかく集めた魂を無駄にしおって――』
嘲笑を浮かべ饒舌に語っていた絡新婦が、突然口を閉ざしたかと思ったら、途端に血なまぐさいにおいが漂った。
それと同時に俺を縛っていた糸がほどけけた。
すると、どさっという音とともに、クモの足のようなものが目の前に落ちた。
見れば絡新婦の右腕が肩から切り落とされ、そこから大量の血が流れていた。
絡新婦は驚きこそすれ、痛がるそぶりも見せない。
ようやく自由になり、持っていた剣を杖代わりに立ち上がる。その剣が赤黒い血で染まっている。
『……匠実のことを……そんなふうに言うな』
絡新婦の肩からはダラダラと血が流れているのに、顔を歪めるどころか余裕の表情だ。
『ちょっとは楽しませてくれるようだな』
絡新婦がニタリと笑う。




