出発はこの三日後だった
人外が見える貧乏青年(苦労人)と、故郷に帰りたい河童の、遠野へ帰るまでの物語。たまにハートフル。時々ギャグ。楽しんでいただければ幸いです。
目の前に、河童がいた。
「おい」
「……」
「おい」
「……」
「おい」
「…………」
「おいと言っておろうが! 聞こえんのか、このたわけがっ!」
……空耳じゃなかった。
わが目を疑いつつ、和泉森彦は口を開いた。
「……な、何?」
「それが年長者への態度かこの大たわけがっ!」
「えーと、なんですか」
「なんでございますかだろうがこの大ボケたわけがっ!」
大概口悪いなこの河童。というか、年長者のくせにガラも悪い。
そもそも気づかないふりをして通り過ぎたかった森彦には、降りかかってきた災難としか言いようがない。
変なのにつかまっちゃったなあと思いながら、森彦はその場に座り直した。
時刻は午前六時、場所は繁華街の裏通り。一本入った先には川があり、綺麗とは言い難い水が流れている。その二十分前まで深夜番の仕事をこなし、頭も体もふらふらな自分にとって、昼仕事までの数時間は貴重な休息タイムだ。
コンビニのバイトは嫌いじゃないが、たまに疲れすぎて幻覚を見る。
二十一歳、フリーター。このままの生活を続けていてはまずいかもしれない。
「おぬしがわしを見る目で分かった。おぬし、遠野に行きたいな?」
「いえ、まったく」
「…………」
「…………」
「…………」
「じゃ、俺はこれで」
河童が硬直したのを幸いに、さっさと逃げ出そうとする。だが、一瞬早く立ち直った河童に足をつかまれた。
「待てい! せっかく見つけた『見える者』、ここで逃がしてたまるかっ」
「俺には関係ないですって! ただでさえ幽霊とか見てるのに、この上河童なんてごめんですっ」
「見えとるなら幽霊も河童も似たようなもんじゃろが! あいつら足がない分、わしの方が立場は上じゃ!」
「知りませんよそんなの!」
とにかく離してくださいと、必死になって暴れたが、さすが河童、がっちりつかんで離さない。そういえば相撲が得意だったか。いや、これってむしろプロレスじゃねえ?
しばらくじたばたしていたものの、向こうから人の話し声が聞こえ、森彦は慌てて囁いた。
「とにかく、場所を変えましょう」
河童は遠野生まれであり、故郷に帰りたいと言った。
「いや、帰ればいいじゃないですか」
「簡単に言うな! ここから遠野までどれくらいかかると思っとるっ」
「ええと……まあ遠いですかね」
正直、森彦は東京生まれ東京育ちで、東北にさしたる思いはない。知識もなければ興味もなく、せいぜいが、そういえばたまに名前を聞くなといった程度だ。もっと言えば、遠野が何県にあるのかさえ分からない。
以前にそう話した時、信じられないといった軽蔑の目で知り合いに見られたが。
しかし、興味のない人にとってはそんなものだろう。
何より、生涯行くつもりもない。一生関係のない土地だ。
だが、目の前の河童には違うらしく、うっとりした声で語られた。
「ああ、あの美しい秋の景色よ……! 燃える葉が山を覆い、黄金色が一面に降り注ぐ。空気が光るように瑞々しく、澄み切った風が吹きわたる川岸。せせらぎの音が心地よく、心を清らかに洗い流す。冬は寒く、厳しさの中にもぬくもりがあり、雪の重みに感じる生活。そして、待ちに待った春! 一斉に萌え出ずる若芽の、なんと勢いのあることか! あと、夏はもちろん緑が濃く……」
「あ、もうそのくらいで」
このままだとあと一周くらい語りそうだったので、森彦は適当に遮った。
河童はむっとしたものの、森彦の手元を見て、興味を覚えたように近寄ってくる。
「おぬし、何をしとるんじゃ?」
「スマホで検索かけてるだけです。……あ、出てきた。えーと、ここから遠野までだと、大体四時間くらいかかりますね。運賃は一万六千円くらい。へえ、盛岡で乗り換えるのか」
「何だと!? なぜそんなことが!」
「ちなみに、もうちょっと時間かかってもいいなら安くなりますけど。バス、乗れます?」
「おおお! バス! あの長い乗り物か!」
「スイカは……無理ですよね。見えないなら無賃乗車でもいいのかな。いや、駄目かな……」
「スイカは好きだ。あれはうまい」
「いえ、スイカじゃなくてsuicaです」
かみ合わないやり取りをしているうちに、なぜだか河童が黙り込んだ。見ると、ぐすぐすと泣き出している。
「うう……苦節三十年、ようやく故郷に戻れるとは……」
「三十年? 今まで何してたんですか」
「やかましいわ! 色々試してはいたんじゃい。じゃがこのご時世、だーれもわしを見る者はおらなんだ。たまにいても、まるで妖怪を見るような目で逃げてしまい……」
「いや、河童じゃないですか」
「やかましいと言うておる! ともかく、そんなこんなで、相談に乗ってくれる者がいなかったんじゃ。ようやく出会えたおぬしを、そう簡単に手放すわけなかろ」
「はあまあ……行き方を教えるくらいはいいですけどね」
ここからなら、上野に出ればなんとかなる。バスにしろ電車にしろ、遠野に辿り着く事はできるだろう。乗り換えは不便だろうが、そのくらいは頑張ってほしい。
「とりあえず、最寄りの駅まで送りますよ。ええと、赤羽まででいいですか?」
「なんでじゃ」
「へ?」
「行くならきっちり送らんかい。それともおぬし、ここで河童を見捨てる気か?」
「ええと……それはまさか、上野まで行けと?」
「まさか」
そうですよね、と答えかけた森彦は愕然とした。
「遠野まで送れと言うとるんじゃ。なに、時間はかかっても構わん。河童の気は長いでな」
「いやいやいや! 無理ですって。俺、昼と夜に仕事があるんですよ? バイトに穴をあけるわけには」
「バイトとは何じゃ」
「バイトは……まあ仕事っていうか、正社員じゃないお手伝いっていうか……」
「仕事ならわしが頼もう。わしを遠野まで送り届けるんじゃ。いいな!」
きっぱり言い切った河童が、「なに、ただでとは言わん」とにやりと笑う。
「おぬしが頼みを聞いてくれたら、わしの宝を授けてやろう。悪い話ではないと思うぞ?」
「……一応聞きますけど、それって現金?」
「屋敷と蔵が建つほどのな」
……フリーター、貯金なし。金は喉から手が出るほど欲しい。
しばらく考えた後、森彦はアルバイト先に電話を掛けた。
予算の関係上、新幹線はあきらめて、東京から高速バスに乗る事にした。
「おぬし、何をしとるんじゃ?」
「金を下ろしてます。手持ちの分じゃ足りないんで、とりあえず全額」
ATMがあって助かった。タッチパネルを操作する森彦を、河童が興味津々で眺めている。防犯カメラに映ったら問題だが、おそらく心配ないだろう。
ちなみに河童の大きさは、ざっと見積もって六十センチほど。森彦のリュックに入る程度だ。ぬいぐるみと言って通用するぎりぎりのレベルか。
コンビニで水を買い、いざという時のための食糧も買い、ついでに遠野のガイドブックを一冊買う。痛い出費だが、後で返ってくると思えば問題ない。
(とはいえ……)
準備を終えて席に座ると、目を輝かせた河童が身を乗り出した。
「森彦、森彦! あれはなんじゃ」
「あれは噴水です。この辺じゃ珍しい形ですけど」
「あれは」
「あれは公園ですね。色がついているのは遊具です」
「あれは?」
「あれは……オブジェかな……ええと、彫刻みたいな……」
道路からの景色が珍しいのか、ひっきりなしに質問してくる。答える森彦はすでに眠い。眠いが、うとうとすると恨めし気ににらまれるので、仕方なくその都度相手している。
東京で暮らしてしばらく経つと言っていたか。その間、観光はしなかったのか。それとも何か理由があるのか。
だが、さすがに少しは眠りたい。
「……そうだ、よかったらこれ」
ふと思い出してガイドブックを差し出すと、河童は目を丸くした。
「なんじゃ、これは?」
「遠野のどこに行きたいのか、それで調べといてください。タクシー乗る金はないんで、着いたら頑張って歩きましょう。水はここに置いときます。飲み終わったらお代わりもあるんで、適当にリュック漁ってください。あと、マジ、寝かせて……」
言葉の最後は眠りに落ちながら呟く。河童は素直に受け取って、小声で言った。
「まったく……お人好しにもほどがあるじゃろ……」
しばらく眠ったせいか、目覚めはスッキリ爽やかだった。
「あれ、今どこ?」
「仙台じゃ。のりかえ、とやらをさっさとせんかい」
そんなに寝たのかと思ったが、時計は午後三時を指している。慌ててバスを乗り換え、二人はほっと息をついた。
「これで遠野まで行けますよ。で、行く場所は分かりました?」
「ああ、まあな」
河童はやや言葉少なだ。故郷に戻れるのが嬉しすぎて、感激しているんだろうと森彦は思った。
東京から遠野まで、およそ七時間。金を節約した分、時間はかかるが懐にはやさしい。着いたら夜になっているだろう。見知らぬ土地でたったひとり、いや、心細いが連れはいる。
「あのな……森彦よ」
「はい」
「わしはな……」
「はいはい」
「あのな……」
感謝の言葉を口にすると思った森彦は、続く言葉にずっこけた。
「この、じんぎすかんらーめんとやらが、食べてみたい!」
「……は?」
「それから、かっぱけーきと、そふとくりーむと、おむらいすも食べたい!」
「いやいやいや、行きたいところってのはそうじゃなくて」
「あと、いるみねーしょんも見たいぞ!」
見ると、ガイドブックのあちこちに、添付の付箋が貼られている。ご丁寧にも、特に行きたいところには◎のシールも添えて。
「あんた観光に行くつもりか!? 帰るんだろ、ていうかイルミネーションなら東京で見ただろうが、飽きるほど!」
「いやじゃーっ。わしは遠野で見たいんじゃーっ!!」
「子供か!」
ぎゃんぎゃん言い合ったものの、河童は一向にあきらめない。それどころか、言葉の端々に「謝礼…」「後払い…」「…踏み倒し」などと、不穏な単語も混ぜてくる。最後のPA休憩が終わったところで、森彦もようやくあきらめた。
「……金が尽きるまでですからね」
「おう! もちろんじゃいっ」
言い分が通った河童は喜色満面だ。どこから回ろうと、意気揚々とガイドブックを眺めている。せめて安いものにしてくれよと願いつつ、森彦はぐったりと座席にもたれた。
「……そういえば、河童さん」
「なんじゃ」
「帰りたいってことは、待ってる人がいるんだろ? 何十年も留守にして、大丈夫だったの?」
「……心配無用じゃ。それに、わしの目的はもう果たした」
「目的?」
「つまらぬ話じゃ。東京ですべきことも終わったし、あとは故郷に帰るだけよ」
それで話は終わりだと、河童がガイドブックに目を落とす。それ以上は聞かず、森彦もふたたび眠りに落ちた。
***
寝ている間に、変な夢を見た。
――そうかぁ、嫁さ行くんか。
――相手は東京の人だとよ。サヨちゃん、元気でな。
頭の中で、誰かが話している。
――サヨちゃんはべっぴんだで、相手も幸せもんさなぁ。
サヨちゃんって誰だろう。
森彦の疑問に答えるように、鈴を振るような声がする。
――河童さん、おるか?
名残惜しそうに川を見つめる少女の姿。
頭の中に、川べりの映像が浮かび上がってくる。
華奢な体に粗末な着物をまとい、手には笹舟。年齢は十七、八だろうか。白い肌に赤い頬。愛らしい顔立ち。後ろで縛った髪が艶やかに揺れる。まるで映画のようなワンシーン。
少女はそっとため息をつき、手にした笹舟を川に流した。
――へばな、河童さん。さよう、なら。
そして少女は背を向ける。
その後ろから姿を見せたのは――あの河童だ。
河童の手には一輪の花が握られている。
けれど、少女にその姿は見えない。遠ざかる着物の色あせた柄を、河童はいつまでも見つめている。笹舟は河童に拾われたが、ふたたび水に放された。――一輪の花を、その背に乗せて。
五十年か、百年前。あるいはもっと昔の話。
――会いに行く。
いつか、もう一度、会いに行く。
たとえ君がいなくなっても。この姿が見えなくなっても。
君の幸せを見届けに、必ず行くよ。
だから、どうか――。
「くおらっ。起きんかい森彦! 遠野じゃ!」
「…………あ?」
そして森彦は目を覚ました。
***
「まったく、二度も寝こけているとは軟弱者め。とっとと調子を取り戻して、行くぞ遠野! じんぎすかんらーめん!」
バスを降りる準備をする森彦の横で、河童がわくわくと身じろいでいる。
直前まで妙な夢を見ていた気がしたが、起きたらすぐに忘れてしまった。はいはいと答えつつ、半分ほどに中身の減ったペットボトルをリュックに入れる。どうやら味は悪くないようで、その後もたまにねだられた。
バスを降りると、よく冷えた空気が頬を撫でた。
「うわ、寒……」
「この程度で寒いとは、おぬし、弱っちいのう」
「あいにく、準備もなく来ましたんでね。で、最初はどこへ?」
「じんぎすかんらーめん!」
「はいはい」
場所はガイドブックで確認してある。ここからさほど遠くないので、歩いていけばいいだろう。問題は、気づかれずにラーメンを食べさせる事ができるか、だが。
「心配ない。気づかれにくいように術をかけるでな」
森彦の心配を読んだように、河童があっさりと言い放つ。
「え、そんなことできるんですか?」
「できる。というかおぬし、今までずっと術をかけておったのに、気づかんかったのか」
そういえば、いくら空いているとはいえ、バスの中であれだけ騒いでいたのに、誰も気にする気配がなかった。あれはそういう事だったのかと、今更ながら感心する。
「便利ですね」
「便利じゃが、不便でもある。気づかなくすることは簡単でも、逆はできん。つまり、必要な時に助けを求めることができんのじゃ」
「なるほど……」
便利と不便は紙一重、というわけか。いや、この場合はそれも違う気がする。
「ここに来れば、河童さんが見える人もいるんですか?」
「まあな。東京よりは多いじゃろ」
「よかったですね」
ほっとして笑うと、河童がまじまじと森彦を見た。
「……おぬし、どうしてそこまで人が好いのじゃ」
「え、そうですか?」
「わしが言うのもなんじゃが、だまされやすく、流されやすい。今の世ではなおさらじゃろう」
「あー、そうですかねえ……」
うーんと悩みつつ、まあ河童ならいいだろうと思い直して口を開く。
「俺ね、霊感体質なんですよ」
「れーかんたいしつ?」
「平たく言えば、幽霊とか見えちゃう人間なんです。で、そのせいで色々と生きにくくて」
学生の頃は「変わっている」程度でよかった。
色々と不便はあったものの、人の輪から外れる事で生きていけた。それでも生きていけるだけの「陰口」と「無視」、「仲間外れ」によって、逆に存在できるスペースをもらった。
だが、社会に入ってからは駄目だった。
「普通に考えて、血まみれの人間を無視出来ちゃったらまずいし、人じゃなかったらもっとまずいし。声だけとか、気配だけなのもあったりして、色々と判別がつかなくて。あと、たまに取り憑かれちゃったりもするし」
そうなるともう最悪だ。バイトを首になるのはもちろん、住む場所にさえ困る日々。結果、短期のアルバイトを転々として、なんとか日銭を稼いでいる。
「こういう体質で困るなとは、思ってるんですけど……。実際、今だって困ることはいっぱいあるんですけど。でもまあ、そのおかげで困ってる河童さんに会えたわけですし」
「……わしに?」
「なんだか知らないけど、縋りついてくるし。頼られたら、やっぱりね。弱いじゃないですか。こんな俺でもできることがあるならって、思っちゃったんですよね……あ、もちろん、報酬もかなり目当てですけど」
あの日は特に、幽霊を見て疲れていた。
急に悲鳴を上げた森彦を見て、バイト仲間は引いていた。
自分だって何も知らなかったら、同じようになるだろう。彼らを責める気にはなれない。
ただ――疲れていたのだ。
言葉が通じず、迫りくる人外の姿に疲弊して、心がかなりすり減っていた。その直後に河童を見て――さすがに妖怪は珍しかった――というか初めてだったが、飛びついてこられてびっくりした。
びっくりしたが、嫌ではなかった。
それは河童が困っているからでもあったし、ここで手を離すのが忍びなかったからでもあったし、単純に興味があったせいもあるが、何よりも、河童と自分を重ねてしまったせいかもしれない。
「俺は見えないものが見える人間で、河童さんは見えざる者で。立場は違うけど、似たようなものじゃないですか」
だから助けようと思ったんですよ、と。
笑った森彦を、河童が無言で見上げていた。
「おお、じんぎすかんらーめん!」
「これが河童のそふとくりーむ!」
「けーき! おむらいす! ついでに団子も!」
「……もう財布が限界です!」
森彦の悲鳴とともに、河童の食べ歩きツアーは幕を閉じた。
ぽっこりと膨れたお腹を抱えつつ、河童はご満悦の様子だ。後ろにはがっくりと肩を落とした森彦が、軽くなった財布を抱えている。
「めっちゃ弾丸ツアーでしたね……。閉店ぎりぎり、よく間に合ったなもう」
「これも河童の神通力じゃ。さてと、うまいものも食ったし、次はいるみねーしょんといくか」
「まだ行くんですか? ってまあ、イルミネーションなら川の近くだし、まあいいのか……」
でも歩きだと間に合わないかな、と森彦が時計を見る。時刻は午後九時半過ぎ。ここからだとちょっと遠いが、めがね橋のライトアップならまだやっている。
「この距離だとタクシーになるかな……。河童さん、俺、そろそろ帰らないといけないんですけど、ひとりで行けます?」
「なんじゃ、おぬしは来ないのか?」
「行きたいのは山々ですけど、明日もバイトがあるんです。それに、よく考えたら地元なんだから、いつでも見に行けるでしょう?」
なら今度でもいいんじゃないですか、と言った森彦に、河童は無言で首を振った。
「わしはな、今日しか無理なのよ」
「どうしてですか?」
「今日でわしは消えるからな」
「え!?」
慌てて河童を見ると、確かに少し透けている。
「なんで? どうして? 水、水飲みます?」
「案ずるな。それは前から分かっておった」
落ち着けとなだめながら、河童は差し出された水を一口飲んだ。
「わしのいた川の近くにな、昔、女の子が住んでおったんじゃ」
「はあ」
「名前はサヨちゃんというてな。可愛い子じゃった。わしの姿を見ることができて、昔は一緒に遊んだもんじゃ」
サヨは大きくなると河童が見えなくなってしまったが、しょっちゅうキュウリを供えたり、笹舟を流して遊んでくれた。姿が見えなくなっても、ずっと声をかけ続けてくれた。
「サヨが結婚して東京に行くことになった時、わしもついていこうと思ったんじゃ。幸せになればよし、そうでなければ連れて帰る。そのつもりで百年と少し前、わしは東京に行くことにした」
河童は水の近くでないと生きられない。そのため、神通力を使って移動して、川のそばに居を構えた。幸い、サヨの嫁いだ家の近くに川があり、彼女を見守る事はたやすかった。
「サヨはやがて娘を産み、その子も成長して嫁に行った。その子もまた娘を産み、その子供も成長して娘を産んだ。その娘もまた子供を産み、健やかに幸せに成長した……が、その娘に病が見つかった」
サヨはとっくに他界していたが、河童は彼女の子孫を見守り続けた。河童の話は、口伝えに娘たちも知っていて、花や笹舟を流してくれた。河童は彼女たちをよく知っていた。
「病はな、神通力でどうにかなるものじゃった」
ただし、それには代償が伴った。
「人の運命を変えるのじゃ。娘の病を治す代わりに、わしは神通力の大部分を失った。故郷に戻ることはもちろん、姿を保つのさえ難しい。おぬしに見つからなければ、わしはとうに消えておった」
「そんな……」
「その時、強く思ったのじゃ。故郷に帰りたい。もう一度遠野の地を踏みたいと」
それが三十年前の話だ。
しかし、さすがにもう時間がない。
「いるみねーしょんも、見たかったが……もう潮時かもしれぬ」
世話になったなと、河童がペットボトルを返す。それを握りしめ、森彦は勢いよく右手を上げた。
「……タクシー!!」
ものすごい気迫に押されてか、通り過ぎようとしていたタクシーが急ブレーキをかける。
「めがね橋まで、大至急!」
「お客さん、この時間だと間に合わないかもしれないよ? ライトアップなら、明日でも……」
「どうしても今日しか駄目なんです。人生最後の思い出なんです。お願いします!」
「お客さん、自殺すんの!?」
「俺は死にませんが、助けてください!」
勢い良く頭を下げた森彦に、何か思うところがあったらしい。運転手が親指を上げた。
「分かったよ。任せな」
どこをどうやって走ったのか、タクシーは九時五十五分に目的地へと到着した。
「お釣りはいりません、ありがとうございました!」
東京へ戻るための旅費を放り投げ、河童を抱えたまま走る。河童はいつの間にか、ぐったりと森彦にもたれている。間に合うか、いや。
「……河童さん、イルミネーションです!」
叫ぶ声に、河童がゆるゆると目を開ける。
「おお……美しいのう……」
めがね橋の名の通り、二つのアーチに分かれた橋が、色鮮やかな光をまとっている。東京の方がはるかに派手だが、こちらの方が温かい。水面に光が反射して、季節外れの花火のように揺れている。
「森彦、世話になったな……」
「そんなこと言わないでください。死なないでよ、河童さん!」
「わしはもう駄目じゃ……ああ、幸せな一生だった……」
「いやだよ、河童さん! 河童さんっ」
河童を揺すぶった拍子に、リュックの外側に入れておいたペットボトルが落ちる。その拍子に、ゆるんでいたキャップが外れ、中身が河童の皿にかかった。
そう、今まで一度も水分補給していなかった皿に。
シュウウウウウ……。
皿の水分が吸収される音が響く。そして。
「完全ふっかーーーーーーっつ!」
「俺の涙返してくれる!?」
というか先ほどの設定はどうした。神通力の大半を失ったから消えるんじゃなかったのか? そもそも、森彦と出会っていなかったらすでに消えていたと言ったのは嘘か。嘘なのか。
色々と言いたい事はあったものの、無事な姿に気が抜けた。
「人騒がせにもほどがありますよ、もう」
「すまんすまん。しかし、あながち嘘でもないのじゃ」
残った水を一気飲みしながら、河童がぷはっと息を吐く。
「おぬしのれーかんとやらが、わしの神通力に反応したようでな。おかげで神通力を切らすことなく、ここまで辿りつくことができた。感謝するぞ、森彦よ」
食べ物でさらに補給して、遠野の地でずいぶん回復した。すべてがつながっていたのだと、河童が自慢気に口にする。
「そりゃよかったですけど……後半、消えかかってたじゃないですか……」
あれは何でだと尋ねると、河童はしれっとした顔で言った。
「じんぎすかんらーめんに夢中で、皿の水を切らしてしまったせいだな」
「切らすなよ、そんな大事なもん!」
「落ち着け。とはいえ、危なかったのも事実なのじゃ。助かったのはおぬしのおかげよ」
「俺の?」
どういう事だと思ったら、河童がにやりと笑みを浮かべた。
「わしのために必死になって、金を使ってくれたろう? 河童は守り神にもなる。神は捧げ物からも力を受け取る。つまり、あれがさらなる力になって、わしをつなぎ留めたのじゃ」
「俺の三万円が……?」
「もっとも、使わなくとも生き残れたが」
よかったよかったと、河童がふむふむ頷いている。
森彦にとって、三万円は大金だ。しかも東京に戻るための旅費。おまけにあれが全財産だ。
ふいに腹が立ってきて、森彦は河童の頬を引っ張った。
「いひゃい! ふぁにふぉふる(何をする)っ!」
「やかましい! さんざん人に心配させといて、少しくらいはお仕置きですよ!」
「守り神になんということを!」
「うるさいわ!」
騒いでいるうちに、橋の明かりは消えていた。ふと気づくと、水面は星明りに染まっている。
東京よりずっと空は綺麗だ。星が降るように輝いている。
「……そういえば、河童さんの家はどこなの?」
そこまで送っていくよと言うと、河童はちょっと黙り込んだ。
「……もうないのじゃ」
「え?」
「しばらく前に、地が揺れてな。わしのいた場所はとうにない」
その言葉に森彦も思い出した。この土地を襲った災厄の記憶を。
「あの時に、もう一度、帰りたいと思ったのじゃ。しかし、わしは神通力のほとんどを失っておる。帰りたくても帰れない」
どんなに帰りたかったか。
たとえ誰もいなくても、故郷へ戻りたかった。
なつかしい光景がなくても、なつかしい人がいなくなっても。
それでも、ただ、戻りたかった。
「探せば他の河童もいる。気長に見つけるつもりじゃ」
「そっか……」
「世話になったな、森彦よ」
忘れないうちに礼をしようと、河童は小さな包みを渡した。
「これをやろう。約束の宝じゃ」
「いや、俺は……」
「いいから受け取れ。昔なら、蔵がいくつも建つほどの大金じゃ。……では、さらばじゃ」
そう言うと、河童は川に飛び込んだ。小さな水音がひとつ、それから静寂が訪れる。しばらくその場にたたずんでいたが、やがて森彦も歩き出した。
「言い忘れたが、森彦よ」
「うわっ! びっくりした」
いたんですかと水面を見れば、見慣れた皿が浮かんでいる。
「もしよければ、おぬしも遠野に住むがよい。人も水も美しい場所じゃ。人外のものも多いが、それもおぬしには住みやすかろう」
「遠野に……」
「考えておけよ」
そして今度こそ水に潜る。波紋が広がる川を見下ろし、森彦は目を瞬いた。
「遠野に住む……か」
案外と、悪くないかもしれない。
ジンギスカンラーメンもおいしかったし、ケーキもソフトクリームもおいしかった。そういえば、近くにあった茶店では、従業員を募集する張り紙もあった気がする。
東京での仕事はアルバイトだ。電話すればすぐに辞められる。アパートにある荷物も少しだけだ。望めばすぐに荷造りできる。
そして何より、ここの空気はおいしかった。
案外――本当に、悪くないかもしれない。
そこで思い出し、河童のくれた包みを開ける。あれだけ大事そうにくれたのだ。蔵がいくつもとはいかないまでも、そこそこまとまった金額があるんじゃないか。
そして固まる。
「……十円じゃないか!!」
叫ぶ橋の下で、ぽちゃんと水の音がした。
了
お読みいただきありがとうございました。
河童ケーキはメロンクリーム、河童ソフトはメロン味。ソフトクリームにはキュウリの薄切りはちみつ漬けを添えて。オムライスはキュウリサラダ付きで!