吸息吐息
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おう、こーらくん。今日も見るからにしんどそうだねえ。うまくリラックスできているかい?
いつものことだけど、年度末って気持ちが落ち着かないよね。目の前のことだけじゃなく、新年度の心配もしなくちゃいけない。私なんか、来年度から配置が変わるからねえ。うまく新しい環境になじめるか、いまから心配で心配で胸が苦しいよ。ははは。
私たちは環境が変わると聞くと、多かれ少なかれ、気持ちが動くはずだ。人前じゃ平静を装っていても、ひとりだけになると、いろいろと考えてしまって不安にさいなまれる……なんてことも珍しくない。その一員が私なのだけどね。情けないことに。
でもね、これはどうやら現代人に限った話ではないらしい。変化を控えたものをめぐる昔話、耳に入れておかないかい?
時は戦国。
とある戦争で徴兵され、そのまま家族が戻ってこないということは、しばしばあったことだ。かの村の若い衆の数名も、戦が終わってひと月が経っても戻ってくることなく、家族以外はほとんど生存を絶望視していたらしい。
ところが、ある昼下がりのこと。不意に彼らがドサドサドサと、村の敷地内へ「空から降ってきた」んだ。出発した際に身に着けていた、槍や胴丸、その他の荷物の姿はなく、ほぼ全裸。
その顔は、比喩ではない土気色。かろうじて口元から息が漏れ出し、命のあることが確認できる状態だったという。すぐに介抱されたものの、大半の男たちはそのまま昏睡状態に。息を引き取るまで、意識を取り戻すことはなかった。
その彼らの中でひとりだけ。どうにか言葉を交わせるくらいに回復した者がいてね。自らの身に起きたことについて、次のように語ってくれた。
ひと月前、確かに自分たちは指示された集合場所へ向かっていた。
すでに全員、一度は危ない命を拾った経験持ち。またあの、死が身近にある場所へ赴くのかと思うと、腹の奥からむかむかとこみ上げてくるものがあった。それを紛らわそうと、道中での口数も自然と増えていったそうだ。
やがて集合した後の行軍、明日より戦場となる場所に到着してからしばらくして。一緒に来た者の一人が陣を張った直後に催してしまい、近くの木陰へ用を足しにいったんだ。その背中を見送っていた他の面子だが、その姿が木陰に隠れてしまう寸前のこと。
ごうううん……と、銅鑼と獣のあいの子のような、低い音が響くや、彼の姿はふっと消えてしまったらしい。
驚いて面々は自分のまなこをこすり、彼が消えてしまったあたりを探るも、彼の姿は影も形もなかった。
幸い、雑兵の点呼に厳しくない部隊でもあり、全員が頬かむりを決め込んだ。下手に報告すれば、敵前逃亡を助けたとしてとばっちりを受けかねない。彼らは任された夜番の仕事のかたわら、彼の姿を探したものの、結果はかんばしくないものだったという。
そして翌日。
彼らの隊は中段にあたる小高い丘へ構え、先陣たちの激突を見守っている。旗色が悪くなったり、本陣より横合いから攻撃する命が下ったりすれば、すぐさま動ける状態を保ちながら。
馬たちなどは、ずっとうなり続けながら首をしきりにかしげている。彼ら自身にしても、地面に突き立てて握る槍の柄に、じんわりとだが己の汗のにじんでくるのを感じていた。ゆっくりと深呼吸を繰り返し、頭さえもうずかせてくる、己の動悸を少しでも鎮めんと試みる。
やがて断が下った。拮抗状態に大将が業を煮やしたのか、敵部隊への強襲するよう指示が出されたんだ。ときの声をあげながら、一斉に丘を駆け下り、敵先陣のわき腹へ突っ込んでいく。
二方面からの攻撃。それもすでに戦闘を挟んで、疲労しているところへの新手だ。たちまち敵兵たちは壊乱し始めたように見えたが、そう思えたのは最初だけ。
瞬く間に散った敵兵の波の向こうに見えるは、一段目が膝をつき、二段目が立ちながら、それぞれが火縄銃を構えた姿。
はかられた。こちらが勢いづき、密集隊形に近づいたところで、一網打尽に討ち取る策。初めから敵の先陣は、こちらを破る矢としてではなく、当たるだけ当たってから引く、壁のごとき存在だったんだ。
こちらを向く銃口の前に姿をさらすのは、いまや固まるこちらの兵ばかり。目を閉じて撃とうが外すこともないような惨状に、村人が死すらも覚悟したとき。
またあの、ごうううん……といううなり声。
同時に、火を噴く相手の鉄砲だったが、轟音こそ響けど、覚悟していたような痛みはない。己のみならず、すぐそばにいる他の足軽、騎馬兵すらも、血しぶきあげて倒れるような者はひとりもいなかった。遠目でも、相手の鉄砲隊が動揺しているのが察せられる。
好機、とばかりに村人たちは槍を抱えて、鉄砲隊へ突っ込む。火縄銃は連射がきかない。弾込めの間隙を縫って肉薄すれば、あとはこちらが暴れまわるだけ。そう理解しているだろう、騎馬隊の数名があっという間に敵兵へ詰め寄り、手に持つ槍で突きかかっていく。
しかしまたしても、ごうううん……。
繰り出した槍は、穂先どころか武者の握る持ち手以外の柄が消え去ってしまい、地にはべる鉄砲隊には届かない。乗る馬の蹄でもって、蹴散らす者の方が多かった。
そして、今度は音が長く続く。その間、互いに振るう刃物は、相手へ届く前にその姿を失くしてしまった。
肉に食い込み、骨すらも断てるだろう斬撃。臓腑を刺し、一息に相手の生を奪えるだろう刺突。そのことごとくが虚空に消え、双方の刃はほぼ底をつきかけた。
こうなると、もはや鎧どおしすら使えない組み打ちで、相手をねじ伏せるよりなくなる。
腕を絡ませ、足を引っかけて相手を押し倒しあい、殴打や寝技で相手にとどめを刺さんとした。すると、今度はとどめを刺そうした者が消え、ついで殴られていた側にも、遅れて消えていく者が現れ出す。
でも、それを考えるゆとりはない。
すでに村人自身も、目の前の兵に組み合ったところ、ものの見事に一本背負いを食らっていたからだ。叩きつけられた拍子に、灰の空気がいっぺんに押し出され、すかさず上にのしかかられる。
伸びた腕が、がっと首を掴んできて、みるみる力を入れられる。締めるというより、へし折らんとばかりに力を籠める敵兵の目は、完全に血走っていた。
遠ざかりかける意識と余力をかき集め、なんとか相手の腕に手をかけたところで、ごうううん……の音は、ひときわ強くなる。
ふっと、首にかかる力が消えた。のみならず、馬乗りになっていた敵兵の姿もぱっと無くなってしまう。怒号うずまく戦場のただ中で、村人はこの瞬間、青く広がる空と、ひとつだけ浮かぶ白い雲を、その双眸に映すばかり。
でも、それすら長くは続かない。
苦い鉄の香りと共に、つっと唇を伝って落ちる、雫の感触。それが己の血だと分かり、思わぬほどの耳の近さでそれが跳ねるや、村人の視界は一気に暗転した。
戦前より感じていた、胸の動悸。それを何倍も強くしたものが、身体中でいっぺんに跳ねる。頭を抱えようにも、身体に手をやろうにも自由は利かず。ただひたすらに数を重ねる、鼓動のみを感じていた。
規則的に押し寄せる痛みを受けて、顔をしかめる村人の真っ暗な脳裏に、やがて少しずつ少しずつ、浮かび上がってくるものがある。
心臓。かつての戦の折り、相手の大槍による斬撃を受け、胸をかっさばかれた遺体からのぞいた臓器のひとつが、暗い視界の中で白い輪郭を伴い、浮かび上がってくる。
あのとき見た、握りこぶしほどの大きさにとどまらなかった。
ぐんぐん近づいてくる心臓は、外から内へ。ぎゅっとすぼまっては膨らむ動きを繰り返しながら、村人の視界いっぱいに広がってくる。その心臓のすぼまるたび、全身が弾けそうな痛みが走るんだ。
――目の前のあれを止めないと……。
村人の本能が、動かない腕を伸ばさんと、力を込めた。指一本すら動いた実感がなく、それでもなお大きくなる心臓に、ならば身体で当たってやるとばかりに、でたらめに身体中を「いからせ」ていく。
その間も、鼓動は止まない。すでに全身は「痛い」を通り越し、「熱い」とたとえた方が近かった。
肌のすべて、毛の先までも火をともしたかのように錯覚し始めた矢先、白い心臓に変化があらわれる。
ぽたりと、はっきり耳に届く水音。
それが二度、三度と続き、遅れて白い心臓の影が、上部より赤く垂れ落ちるものに染まっていく。血だ。
幾筋も落ち、枝分かれしながら心臓の底へと走る、血の雫たち。そうして白い心臓が一分のスキもなく埋め尽くされてしまうと、心臓の拍動がピタリと止んでしまった。
村人の痛みも止む。それでも依然、身体を動かせずに固まる彼の前で心臓は、今度はゆっくり、静かに動き出したんだ。
先ほどとは違う。はじめに心臓が膨らみ、しぼみ、膨らみ、しぼみ……。逆さまの拍動をもって、心臓の姿は村人の視界の中をどんどん小さくなっていく。
心臓は遠ざかっていた。いや、遠ざけられていた。心臓が膨らむたび、圧が目の前から押し寄せ、村人の身体を潰さんとしてくる。そのたび、心臓はなおも姿を豆のように縮めていくんだ。
押されて、押されて、もうすっかり心臓が見えなくなるや、急に男の目の前に青空が広がり、身体が落ち始め……村に戻ってきていたらしい。
男はひょっとすると、自分が見たものは、この大地の心臓で、あの音は大地の呼吸ではないかと、思ったそうだ。
自分と同じく、大地も大いに心を乱していたのではないか。おそらくこれから吸うことになる、血や命のことを考えて。
自分が深呼吸して取り入れ、吐き出したのは空気。それが大地では、真上にいた塵芥のごとき人と武器を取り入れ、それを吐き出したのでは、とね。