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疑念

 渋谷災害から4日後――9月28日。


 A-MI東京都市 某マンション 


 藤ノ宮麗はファルネスホルン日本支部より送られてきた書類を眺めていた。


 部屋の扉の向こう――キッチンでは胡桃沢幸奈がうきうきでカレーを煮込んでいる。

 キッチンから漏れだす香しいカレーの香りを嗜みながら、麗はページをめくる。


 彼女の読む書類にはこう書かれていた――『赤く滴る夜事件 調査結果報告書』




 赤く滴る夜事件――4日前に渋谷で起きた大規模災害。

 大勢の群衆で溢れかえる街道が血と炎で満たされ、戦後最悪とも言える阿鼻叫喚が巻き起こった。

 

 死者395名。

 負傷者4509名。

 行方不明者32名。


 被災者の87パーセントが渋谷区民、その他13パーセントは別区民及び他県民、外国人。


 街並みは半壊状態であり、復旧にまで()()()を要す。




「……」


 麗は無言で書類を閉じる。


 今や渋谷の復旧は完了済み。

 国外どころか県外にさえ報道されていない今回の大騒動は、現在当事者たちの心に大きな傷を残すことなく風化していくことが予想されている。


「……大それた事件が証拠も残さずに隠蔽された、か」


 渋谷市民にとって、今回の『赤く滴る夜事件』は大した記憶ではない。

 居合わせた県外人や外国人にさえも風前の灯に近い程度の認識である。


「――これが『システムヴァリアラスタン』の本領というわけね――」


 徹底された情報統制。

 それも人間の記憶やメンタルの領域にまで統制をかける逸脱したものである。

 これこそが現在の東京の平和を守り続けてきた世界唯一のシステムである。

 強制的に人々を矯正し、強要する平和――

 

 そのうち今回の出来事は当事者の間でも語られなくなり、記憶は彼方へ消えていく。

 そして事件自体が存在しなかったことになってしまうことは目に見えていた。


(その事実を知る人間なんて関係者だけ……大勢の人間たちはシステムの表面上だけを知り、それを快く思っているのでしょうね)


 今回の事件は前回と違い、何事もなく風化していく。


(それでもあの時は……)


 『ヴァリアラスタン』完成5周年記念式典における戦闘行為。

 蒼汰の大天使が初めて観測され、あの少年の人生を変えた出来事である。


(あれは大々的に報道され、世界中に知れ渡った事件……『システム・ヴァリアラスタン』がありながら、情報統制が行われなかった?)


 もしくは行えなかったのか――


(……アルベルト・シュタルホックスが起こした事態の影響を受けたのかしら?)


 戦闘の波及を恐れ、安全装置が作動したことによる一時的なシステムの凍結か?


「――麗ちゃん、カレー煮えたよ」


 思案にふけっていた麗を呼び戻す声。

 開けた扉から幸奈が顔を出す。


 幸奈はエプロン姿のまま、真剣に書類に目を焼きつかせていた麗の近くに歩み寄る。


「――大変な騒ぎだったね」


 ぽつりと呟く幸奈。

 閉口したまま首を縦に振る麗。


「――それに、()()()もね」


 ユキナの視線は麗の座るちゃぶ台の上に向けられていた。

 その先にあるのはクルス研究機関から持ち出した機密書類である。


「同感よ幸奈。私にとってはこっちの事件の方が濃厚だと感じるほどね」


 麗は報告書を投げ捨て、機密書類に手を伸ばす。


「……ねえ麗ちゃん。人工魔法少女なんて本当に作れるのかな?」


「……その類の知識は持っていないから詳しいことはわからないわ。でも、この書類を見る限り一応は完成していて、それに数段階の実地試験は完了しているみたいだけど……」


 そしてこの書類によれば、最終試験は近日中に行われる予定である。


 体制派(システマイザー)の行う実験である以上、例外を除いて蒼汰に直接的な実害はないと思うのだが――


「――やっぱり調査は必要そうね。ワルプルギス文書の次なる座標が未だ判明していないのなら、多少の時間的猶予はあるもの」


 麗はページをめくり、先ほどから気にしていた項目をちらりと覗き見る。


 『クルス研究機関』が閉鎖された後、実験の継続を委託されたのは『ミコト研究機関』という施設である。

 必要な人材や設備はすべて『ミコト研究機関』に移送され、取り壊しのされていない『クルス研究機関』に残された物は廃棄物として扱われる。


 つまり、培養槽に囲われたあの男女はすべて廃棄物という立場を与えられ、人権を剥奪されたのだ。


(それにしても、証拠を残したまま研究所を立ち去るなんて……何らかの思惑がありそうね……)


 お腹を空かせた幸奈を背に、麗は静かに書類を閉じた。


「――さて、もう夕飯にしましょう――ヘスティアもお夕飯食べるわよ」


 麗の言葉で幸奈がキッチンへと戻る。

 そしてもう一人、部屋の一角で人形のように口を結んでいたヘスティア・シュタルホックスが立ち上がる。


 ヘスティアはちゃぶ台の上から物をどかし、食器の置き場所を確保する。


 麗はそんなヘスティアの様子をじっと伺っていた。


 死から目覚めた少女。

 長い眠りから目覚めた少女。

 以前の様子を亡くした少女は、自分の世界を亡くして別人の皮を被っているように見えた。


 もちろん麗だけでなく、蒼汰も幸奈もヘスティアの様子に気が付いている。


 フランスから帰って来てからずっと眠ったままだった彼女。

 こうして目覚めてくれたことは嬉しい。 


 だが別の不安が現出しているのだ。

 

 今のヘスティアは何者なんだ――と。





 


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇







 赤く滴る夜事件より5日後。

 

 私立第一高等学校は何の変哲もなく通常授業の日程で開校されていた。

 学び舎をくぐる生徒たちに変わった様子はなく、そんな彼らを迎える教師たちにも目立った動きはない。

 5日前の出来事を口にする人間などおらず、普通が当たり前に進行している。


 その光景は蒼汰の教室でも広がっている。


 ただ一つ、普通とは言えない事態が彼の視線を釘づけにしている。


 蒼汰の見つめる先――椅子を引かれることのない無人の座席。

 そこは本来、狗神もえかが腰を下ろしているはずの場所であった。


 無意識に唇を噛む蒼汰。


 あの事件当日。

 ユキナがクルス研究機関の遠隔操作術式を破壊したことにより、暴動は一応の収束を見せた。

 もえかと離れ離れになったのは、幸い暴動収束直前であった。

 彼女の身の安全の可能性は否定できなかったため、淡い祈りと共に彼女の姿を追い求めた――


 だが彼の期待は裏切られ、すでに5日が経過した。

 

 何を食べても味がせず、生前の習慣に従って日常生活を遂行する蒼汰の心にはぽっかりと穴が開いていた。


 親友の赤骨赤城に心配され、クラスメイトに様子の変化を指摘されるほどの落ち込みを見せている蒼汰。


 十分にありがたいはずなのだが、今の蒼汰にとっては雑多でしかなかった。

 そうして蒼汰は、現実へフィルターを張るように目を閉じた。


 ……。


 …………。


 ………………。


 静かに過ぎる時間。

 蒼汰の視界を埋め尽くすものは闇のみ。

 外界との関係を断った蒼汰に、外の存在との接触の機会は訪れない――


 ――そう思っていた蒼汰の予想は、彼の手を包み込む柔らかく暖かな感触によって打ち消される。


「……くん」


 誰だ?

 今は一人にしてくれ。


「……たくん」


 今は誰とも会話をしたくない。

 もう諦めてくれ。


「……うたくん」


 誰かが名前を呼んでいるのだろうか?

 

 悪いが吉野蒼汰は今眠っている最中だ。

 だから今は構わないで。


 そんな彼の願望も空しく散り、()()は彼の名前を呼び続けた。

 

 蒼汰は鬱陶しく思い、自分に触れる感触を払いのける。

 そして手から温かみが消え、いつの間にか蒼汰の名を呼ぶ声もなくなっていた。


 もう立ち去ったのか――


 だけど教室にいる限り、誰かに話しかけられるリスクは孕んだままだ。

 屋上に行こう――そう思い蒼汰は椅子から腰を上げた。



「あ……」



 短い喘ぎ。

 隣から聞こえる息遣いに反応し、蒼汰は思わず横に視線を移した。


 彼の目の前に彼女はいた。


「も……もえか……」


 心臓が激しく波打つ感覚。

 

 あの日、手を離したことによって離れ離れとなってしまった少女。

 狗神もえかは数日ぶりに登校し、蒼汰の目の前に現れたのだ。


「えと……蒼汰くん……」


 悲しく、そして微かに怯えた瞳を向けるもえか。

 数秒のフリーズの直後、蒼汰はようやく我に返る。


「――もえか、無事だったの!? 怪我とかない!?」

 

 勢いよくもえかの両肩を掴みかかる蒼汰。

 傍から見れば、情熱的とも高圧的ともとれる強引さで女の子に詰め寄っている光景だ。


「――え? いや、私は『ヴァリアラスタン』関係のお仕事で学校をお休みしてただけだから……」


 ――そんなに力入れたら痛いよ……。

 

 もえかの悲痛な声を聞いた蒼汰は身を引く。


「ご――ごめんなさい」


 無意識に出た敬語で謝罪する蒼汰。

 

 鷲掴みにされた肩を抑え、もえかは拗ねたように頬を膨らませる。


「……蒼汰君が寝たふりしてるときに話しかけたのはダメだったけどさ、手を振り払うことはないんじゃないの?」


 もえかの不満を受け、蒼汰は先ほどの自分の行いを思い出す。


「あ……ごめん。あのときはすごく眠くて……」


 作り話でこの場を乗り切る。 


「ふーん」


 胸の下で腕を組み、訝しく蒼汰の瞳の色を伺うもえか。


「……まあいいや」


 もえかの表情に笑顔が咲く。


「蒼汰くんが突っ伏してるなんて珍しいね? 何かあったの?」


 それはこっちのセリフだ。

 

 目の前にいる少女は間違いなく狗神もえかである。

 小さいときから彼女を見ているのだから、これは間違いではない。


 もえかと離れ離れになった後すぐに事態は収束した。

 幸いもえかは何事もなく無事でいられたということか――


「――安心したよ。もえかはあの後何事もなかったんだね?」


 蒼汰の事実確認を前に、もえかは考え込むように動きが止まる。


「……何事もって……何のこと?」


 心の底からわからないといった表情を浮かべるもえか。

 

「だから――5日前の渋谷の暴動のこと」


 ――あのとき、暴走した人たちにもみくちゃにされたでしょ?


 そう言った蒼汰に対し、もえかはさらに疑問符を浮かべた。


 そして数秒後、我に返ったように口を割る。


「あ! あのときね、あのときあのとき――うん大丈夫!! 私は平気!!」


 咄嗟に蒼汰から視線を外す。


「――え? あ、そうか……」


 もえかの急激な態度の変化に驚きつつ、蒼汰は納得する。

 やはり杞憂であったのだろうか――


「私は平気だよ――あの日は『ヴァリアラスタン』の人工島にいたから」


 そのとき、蒼汰は空気の変化を肌で感じた。

 アースポートのある人工島は大田区にある羽田空港の隣海建設されている。

 位置的に渋谷からそれなりの距離があるはずである。


「もえか……あの夜渋谷から出てすぐに『ヴァリアラスタン』に向かったの?」


 蒼汰は胸の奥でつっかかる違和感を払拭すべく、裏取りを始める。


「――ううん。私はあの日ずっと人工島の上だよ?」


 頭を強く打たれる感覚。

 蒼汰の見てきた現実を真っ向から打ち破る言葉であった。


(そんなはず……ない……)


 確かに蒼汰は渋谷でもえかと出会ったはずだ。

 あのときの彼女の手の感触だって容易に思い出せる。

 だが目の前の彼女は、それをすべて否定する発言をしたのだ。


(それなら……それなら……)


 あの夜のもえかは一体誰だったんだ?

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