希望を創る
「ヘスティアちゃん? どうしたのヘスティアちゃん!? 起きて!!!」
麗の肩に体重を預け、目を閉じるヘスティア。
駆け寄ったユキナが頬を叩き、名前を呼び続けるが覚醒に至らない。
脈拍正常、呼吸回数も問題ない。
他人から見ればただ眠っているだけの少女。
だがこの場に居合わせた人間にとって、ヘスティアの就眠はただ事ではない。
ユキナが麗からヘスティアの体を預かり、膝枕の形でヘスティアを地に寝かせる。
ユキナと麗が緊急事態に汗を流している間、しばらく傍観者を演じていた蒼汰がヘスティアの脇にしゃがみ込む。
「吉野君? ヘスティアちゃんが……」
「それはわかってる」
目じりにたっぷりの涙を溜めたユキナが救いの視線を浴びせかける。
ユキナの憂慮を払拭するため、そしてヘスティア意識を取り戻すための秘策を蒼汰は持ち合わせている。
蒼汰は自身の内側の存在に干渉する。
その存在は大天使。
彼女の力を伴った蒼汰の脳波をヘスティアに送り込む。
洗脳能力を最大限使用するのにうってつけの言葉がある――いわく『目を覚ませ』。
だが蒼汰の隣にはユキナがいる。
彼は彼女の過去を知らないが、どうやらユキナには洗脳を恨むだけの十分な理由があるようだ。
だからその言葉を声には出さず、脳内を走らせる。
魔法少女が大天使の侵入を拒めるはずもない。
触れ合ったら最後、僅かなタイムラグを経て洗脳奴隷となり下がる魔法少女に、ヘスティアを豹変させる――
――という目論見は、十数秒に渡る沈黙によって打破される。
蒼汰の赤い瞳が大きく見開かれる。
彼の目的を感知していた麗も、その異常に驚きを見せる。
――洗脳が機能しない。
「こんなはずは……」
それ以上の言葉が続かない。
焦燥の中、麗が蒼汰の肩をタップし耳元に唇を近づける。
「――吉野君、心当たりがあるわ」
麗の行為を察した蒼汰。
ひとまずヘスティアをユキナに預け、少し離れた場所まで移動する。
「藤ノ宮……何か知ってるの?」
「確証はないわ。でもあれは本来の魔法少女に起こりえないことだけは確かね」
麗は考え込むように思案する。
これは蒼汰に話すべきであろうか。
――いや、話さなくてはならない。彼がこの現実から目を背けることは好ましくない。
「あのね――」
「ヘスティア・シュタルホックスは日本政府に回収された後、何らかの施しを受けた可能性がある――ということだ」
その声の主。
血が滲み、全身を見るに堪えない怪我で彩るロッテ・ウイング。
「――吉野蒼汰は彼女の悪魔的な演出を見ていなかったな? 人体に不要なもてあそびを人でなしどもに受けさせられた結果のことだ」
「心して聞きなさい吉野君。ヘスティアは本来の彼女を失ってしまったという可能性があるのよ」
2人の解説は蒼汰の心情を変化させるのに十分なまでの意味を持っていた。
「アルベルトが起こした『ヴァリアラスタン』の一件といい、ヘスティアさんのことといい――」
内閣府に連行されたとき、日本政府は蒼汰たちにとって敵ではないと釈明した。
敵対行動はしない、だが自分たちに怒りの極みを起こさせる行動はすることもあるかもしれない。
――これも大天使の実験のため。
蒼汰が自国の政府に不信感を露わにしているとき、同じく怒りを覚えるロッテが口を開く。
「私はもう敗残の体制派も、ファルネスホルンも信用ならん……」
奥歯を噛みしめ、対立組織の蛮行を止めようともせず、高みの見物を決めているファルネスホルンにも反感を覚えるロッテ。
同時に怒気を匂わせる2人に挟まれた麗。
居心地悪く感じた麗。それなら、今のうちにやれることをやった方が賢明だ。
彼女は小さくため息をつくと、再びエーデルワイスの方へと向き直る。
「この世界に滅びをもたらす女――エーデルワイス」
荒らされた地面を一歩一歩踏みしめて歩く麗。
霊装で一挺の拳銃を抜いた彼女は、エーデルワイスのすぐ近くで停止する。
「墓は私が用意するわ、あなたは新天地が創造されるのを天上から眺めていなさい」
麗が銃口をエーデルワイスに向ける。
引き金を絞る直前、蒼汰の手のひらが銃口の目の前にやってくる。
「……どうしたの吉野君? あなたには大天使の他にマザーテレサまでもが宿っているのかしら?」
「殺すことはないよ。ワルプルギス文書は回収した、ディスターソードも破壊した、この国で僕たちの仕事は完遂でしょう?」
「私が撃鉄を落とすことは、今後期待される厄災への備えなのよ? 彼女の殺意はより複雑な作戦の上で実行されるわ」
――ここでエーデルワイスのおつむを撃ち抜いておけば、それでお終いなの――
麗の言葉。
だがそれは、本当の麗の気持ちなのであろうか。
「――それは藤ノ宮の意思? それともファルネスホルンの意向?」
「私の意志よ。あなたを補佐するのが私の務め、義務を全うするのが責任だから」
蒼汰の仕事の障壁を排除するのも麗の役目。
それでも――
「それは本当に……藤ノ宮のしたいことなの?」
内閣府から帰るときに覚えた違和感。
麗は役割を淡々とこなす事務的な表情を張り付けた少女だ。
だが、蒼汰は彼女の奥底に沈む本当の気持ちを嗅ぎつけていた。
「何だか藤ノ宮を見ていると、自分の気持ちを押し殺して生きているように見えるんだよ……」
微かに俯く麗。
彼女の様子に気がついた蒼汰はさらに言葉を繋げる。
「僕の目指す異世界創造に、そんな不幸はいらないよ」
「――はあ、あなたはいつもそうね」
少し不満げに唇を噛む麗。
「義務を果たすことはとても大切なことでしょう? それを否定するようなことは言わないで……」
「僕が否定しているのは責務の全うじゃないよ、藤ノ宮を縛り付ける負の義務のことだよ」
藤ノ宮の目つきが鋭く砥がれる。
だがそれもつかの間、麗は呆れたように、諦めがついたように銃を下ろす。
「――大天使には人の心を透視するような、透け透けウォッチング機能でもあるの? そういう変態行為は私だけにしときなさい」
「いや……そんなのないから」
拳銃を消し去った麗は泥だらけのポニーテールを片手で払う。
未だ目つきの尖りは直っていないものの、刃の抜けた柔らかな声音で話す。
「まあいいわ。さあホテルに戻りましょう? 今日の吉野君の仕事はゆっくり休むことよ」
ヘスティアのことは私たちに任せて――
そう言って麗は蒼汰に背を向ける。
そして蒼汰の前から立ち去った麗と入れ違いに、今度はロッテが近づいてくる。
「――藤ノ宮麗に何をしたんだ? アレはエーデルワイスを殺したがっていた女だぞ?」
「それは彼女の表面に張り付いていた別の何かです。本当に殺したかったのなら、僕の手のひらごとトンネルを開けていたところですよ」
その発言をした蒼汰の顔をまじまじと見つめるロッテ。
彼女の視線に気が付き、蒼汰もお返しに瞳を向ける。
「それで、ロッテさんはエーデルワイスさんを殺すおつもりですか?」
「……わからない」
ロッテは倒れこむエーデルワイスを見やる。
「こいつはファントムフューリーの人間だ。色々と事情であっち側に就かざるをえなかったようだが、それでも危険人物に他ならない」
「それは同意します」
蒼汰の即答。
「……貴様がワルプルギス文書を追跡できる大天使持ちでなければ、私は敵対していたかもしれない」
どうしてそこまでして鉄火場に足を踏み入れる?
「――希望があるからですよ」
「希望という言葉が犬に食われて久しい神と人間の世界にか? hopeなんて今じゃ化石だと私は思っているがな」
涼しい朝風に雪髪をなびかせ、碧眼が蒼汰の返答を待つ。
「訂正します。希望がある、ではなく希望を創るといったほうが正しいですね」
彼の言葉が素っ頓狂なものだと認識してしまうのはロッテだけだろうか。
ロッテはその子供じみた願いに怒るわけでもなく、嘲笑することもなかった。
「――僕が大天使をめぐるこの騒動に足を踏み入れてから、こういう考え方が強くなったんだと思います」
「強くなった? であれば元々そういった価値観を持っていたのか?」
蒼汰は首を縦に振る。
こういう想いを植え付けられたのは何年も前からだと記憶している。
「姉がそんな考え方を持っていたんです」
去年失踪してから今日まで、どこで何をしているか分からないが。
回想にふける蒼汰。
そんな彼の顔を眺め、ロッテは純粋な微笑みを浮かべた。
「……へえ、そこまでピュアな答えが聞けるとは思っていなかったぞ?」
「馬鹿にしているんですか?」
首を横に振って否定。
ちらっとエーデルワイスへ視線を移した後、ロッテは再び蒼汰に目を合わせる。
「神に与する異世界転移者も同罪だと啖呵を切ったあとだが、今回はあの女の処遇を任せる」
――だがこれだけは言っておく、今度エーデルワイスの再蜂起なんて事態に陥った場合、積極的にあの女の喉に剣を突き立てる。
そうしてロッテは視線を空に移し、無線機で遠方の支援部隊に撤退命令を下す。
通信終了後、ロッテは蒼汰に手を差し出す。
「――なんだかんだあったが、とりあえずありがとう。貴様の創るフロンティアを楽しみにしているぞ」
蒼汰はロッテの手を握る。
今回も本当の勝利だったとは言えない。
ヘスティアの眠りは原因不明、治療法もわからない。
だがベルリン市民を守り切ったことは褒めてもいいかもしれない。
互いに手を取り合う男女。
朝日に照らされた固い握手は、今後の協力関係を示唆しているかのようだった。
マルセイユ宮殿で行われた戦闘は終了し、ようやく平穏な時間が訪れた。
深夜から朝方にまで行われた戦闘を、フランス上空の衛星が終始監視していた。
フランス時間午前7時42分 状況終了。
この映像はすべてリアルタイムで某所に転送されていた。
転送場所、日本国A-MI東京都市『ミコト研究機関』。




