ワルプルギス文書
「まだだよ――まだ途中じゃないか!!!」
何も存在しない真白い空間。
そこでは蒼汰の慟哭だけが鳴り響いていた。
床を打ち付ける拳から血が飛び散る。
自分の手が壊れようと、思いのたけを床にぶつける。
蒼汰は願いを叶えられなかった。
ヘスティアは一人展望台に残され、永遠の眠りに就いた。
「何でそうやって……!? こんな……こんな!!!」
『――気は済みましたか? 吉野蒼汰』
声が聞こえた。
恨んでも恨んでも恨み切れない女の声が。
「――気が済んだだって?」
『――あなたの役目はワルプルギス文書の捜索収拾です。それは人一人の命の重さでは計り知れないほどの意味を持っています』
「お前は……そうやって人間の命を見下すのか!?」
『――いえ事実ですので。それに5億9638万1395個の異世界の運命を投げ出すというのですか?』
蒼汰は舌打ちした。
彼に寄生する大天使は宿主を脅迫している。
圧倒的な数を示すことで蒼汰の言動を封鎖する。
『――ご理解なされましたか? あなたの意志一つで生命が絶滅するか生き残るかの瀬戸際なのです』
――こいつ!
「……何でお前が僕に宿ったんだ!? お前さえいなければ、こんなことにはならなかったはずなのに!!!」
『――私があなたに宿らなければ、別の人間に宿ったのかもしれません。そうなれば宿主はあなたと同じ境遇となります』
他人であれば、どんなに辛い経験をさせてしまっても構わない。自分にはまったく関係のないことだとおっしゃるおつもりですか?
「――そんなこと言ってない。他人だから、苦しい目に遭っても全然構わないなんて思わないよ!!!」
蒼汰の叫びが白い空間に響き渡る。
蒼汰以外誰も存在しない世界で、彼は自分の中の大天使が笑うのを聞いた。
「何がおかしいんだ?」
『――いえ、本当に優しい方なのだと改めて理解しました』
彼の中の彼女が微笑む。
『――だからこそ、この役目はあなたに託したいのですよ』
蒼汰がこれだけ恨んでも彼女は嫌な様子はまったく見せない。
彼の気持ちを真っすぐに受け止める。
ここで大天使に文句を言っても仕方がない。
蒼汰は涙を拭いて立ち上がった。
ヘスティアを救う方法はあるはずだ、そう信じた。
彼の復活を察したように、彼の頭の中に語りかけられる。
『――補佐官である藤ノ宮麗から話は聞いていますね?』
失われたワルプルギス文書の断片を捜索して、新たな異世界を創り上げる『暁の水平線計画』。
『――そしてセカンドステージの『インフィニット・ピースメーカー』」
大天使が詠唱する。
その瞬間、蒼汰の足元がに巨大な魔法陣が出現する。
魔力閃光が灯り、下からの上昇気流で彼の前髪がゆらゆらと踊る。
魔法陣の中心から何かが召喚される――
そして魔法陣が消滅する瞬間、召喚されたものが蒼汰の目の前を浮遊する。
『――手に取ってください』
蒼汰は目の前の物体をつかみ取る。
それは古びて黄ばんだ紙。
半分以上が破れ落ちたそれには何かの文字が記されている。
「『過去の凄惨な歴史を繰り返さないため、全ての人間が互いを想い合う世界を実現すべきだ。感情と意思は相反する概念である――』、何だ? 読める――」
その書類に書かれている文字は見たこともない。
明らかに蒼汰の知っている言語ではない文書を読み解いた。
『――それはファルネスホルン語で記されたワルプルギス文書の切れ端です』
これが――
『――神の願いを記す文書。そして――』
神の力が込められ、異世界を生成するための神宝。
『―崩壊してゆく世界から生命を転移させ、移民としてその生活を保証するためのものです』
そして、現在この世に存在する世界とは程遠い、全ての人間が平和で幸せに暮らせる世界を創るのです。
「……まるで今の東京の姿みたいだ……」
ぼそりと言った蒼汰の呟き。
彼女は彼の独り言に答える。
『――A-MI東京都市とは性質が異なります。そう、平和の実現の仕方が違うのです』
実現の仕方――。
ヘスティアとの戦闘時、スピーカーを通して流れたもえかの演説。
やり方に問題がある、そう彼女は言っていたのだ。
『――吉野蒼汰、あなたはワルプルギス文書の存在を知り、関与した。もう後戻りはできません』
「一方的に僕の人生を変えたのは大天使だよ。今更な事実確認の必要はない」
蒼汰の即答に彼女は再び笑う。
『――今回のワルプルギス文書収拾に際し、自動的に異世界生成が開始されました。順次破片を回収し、移民先を完成させてください。任務完了、転送開始』
大天使の合図で蒼汰の視界が光に包まれる。
それまでの真っ白な空間が消え去り、新たな視界が開ける。
急激な視界の変化に脳の処理が追いついた時、蒼汰はさっきまでとは別の空間にいた。
無の空間から有の空間への転移。
目の前にずらりと並ぶ貨物用エレベーター。
「――吉野君?」
女の声がした。
「やっぱり吉野君だ!」
ツインテールをなびかせてこちらへ近づく少女。
「胡桃沢……」
セーラー服を着用した胡桃沢幸奈がそこにいた。
彼女の後ろ、宇宙エレベーターのデザインを基にした衣装を羽織る幼馴染、狗神もえかが蒼汰の存在に気が付く。
「――あっ」
大きく見開かれた瞳。
彼女のつま先がこちらに向く。
ゆっくりとした足取りが徐々に加速していく。
「蒼汰君!!!」
嬉し涙を堪え切れないもえかが蒼汰に抱きつく。
もえかの身長は蒼汰とほぼ同じなので、彼の頬に自分の頬をくっつけるように抱擁する。
「戻ってきてくれたんだね……」
「うん……まあ無事と言えるかどうかは分からないけどね」
全身をつんざく激しい痛み。
蒼汰は命を落とす寸前の重傷を負ってきたばかりだ。
(普通の人間なら死んでるよな……)
常識を超えた回復力で蒼汰の体は徐々に回復に向かう。
おそらく大天使の影響を受けていると思われるが、それでも痛いものは痛い。
蒼汰という存在はもえかにとって支えでもある。
だから痛いからといって、無理に引き剥がしてしまえば、また彼女に悲しい顔をさせてしまうかもしれない。
「おかえりなさい吉野君」
二人の逢瀬を眺めていた藤ノ宮麗が話しかける。
何か言いたげな顔をしているが、なかなか言い出せずに気まずくしている。
あの場にいた胡桃沢に聞いたのだろう。
魔力の膨大連続使用のオーバーロードで体調を崩していた幸奈だが、ヘスティアが人工洗脳を受けた一部始終を目撃していた。
あの時何もできなかった。
そう言いたげに目を伏せる幸奈は悔しそうに歯を食いしばる。
幸奈の様子を見ていた蒼汰。
解決策があるように口を開く。
「展望台……」
それはヘスティアの死地。
今もそこで眠っているヘスティアのもとに行けば――
(生き返らせることができるかもしれない……)




