もえかの涙
狗神もえかは蒼汰から離れない。
子供のように駄々をこね、自分の願いを貫徹させんがために蒼汰にすり寄る。
何とかイベントを開始する段取りをつけ、最後のピースまで手に入れた後の出来事。
「お願いだから……どこにも行っちゃだめ……」
蒼汰に体を預け、さらに両手で彼の体を抱きしめる。
もう離さない、どこにも行かせないと言うように――
「狗神――」
彼はこれから展望台にまで上がっていかなくてはならない。
もえかもこれから本番だ。
こうして抱擁する時間など残されてはいない。
「吉野君がどこにもいかないって言うまで、私ステージに立たないから……」
一体どうしたんだ?
どうしてもえかは蒼汰をどこにも行かせようとせず、こうして彼を拘束するのか。
「吉野君、これから危険な目に遭いに行くんでしょう?」
「!?」
もえかの推理は的中している。
蒼汰は展望台で人工的な洗脳を受けたヘスティアと対峙することになる。
何とか洗脳を解き、彼女を解放させる。
ヘスティアも戦闘を得意とする異世界の人間、魔法少女だ。
蒼汰が無事で済む確証などない。
「吉野君は……そうやって辛い目に遭っちゃだめだよ……。痛くて、苦しくて、死んでしまいたいと思うような経験をしたらいけないの!!」
蒼汰君にはそんな思いをさせたくない!
自分がそういう思いを散々してきたから!
「私はずっと昔から吉野君と一緒だから分かる――吉野君が大変な思いをしてるから、これから大変な思いをするから、そんな暗い顔をしてるんだってことぐらい分かるの!!」
再び流れ出る涙。
そうだよ、大切な人にそんな苦しみを味わってほしくない。
「苦しむかもしれないんだよ!!」
もう苦しいだけの注射や投薬は嫌だ!
「怪我して痛い思いをするかもしれないんだよ!」
痛いから、そうやって私の体にメスを入れるのはやめてよ!
「だから……行っちゃだめ。吉野君が心配だから――蒼汰君が大好きだから言ってるの!!!」
彼女の叫びがアリーナ中に響き渡る。
彼女の絶叫に周りの視線が釘付けになる中、蒼汰は考えていた。
ここで彼女の警告を無視してしまえば、もえかは立ち直れなくなるかもしれない。
それではヘスティアがどこかに行ってしまい、永遠とアルベルトの人形にされ続けてしまうかもしれない。
悩んでいる暇などない。
思考しても答えが出ない。
だから心で決める――
「――もえか」
彼女の名前を呼ぶ。
数年ぶりに彼女をファーストネームで呼んだ。
「僕は――行くよ」
もえかの息が詰まる。
悲痛の表情で、その瞳を震わせる。
「――絶対に帰ってくる、そう約束したら行かせてくれる?」
微笑みを湛えた蒼汰の問いかけ。
だがもえかは答えない。
「僕は不死身みたいな体をしてるから、どんなことがあっても帰ってこれる自信はあるよ」
冗談めかしく言う。
けれども実際に蒼汰は一度死亡して生き返った経験がある。
「――大変な思いをしても、その大変な思いの向こうにつかみ取らないといけないことがあるんだ……」
ヘスティアが人工洗脳を受けたとき――
彼女は蒼汰の頭を撫で、そして語り掛けた。
『大丈夫……大丈夫』と。
ガロンとの戦闘の後、気を失った蒼汰はうなされていた。
それを慈しむように、慰めるように優しく蒼汰を解放した少女――
それがヘスティア・シュタルホックスだ。
彼女は蒼汰を敵視していた。
そんな彼女が敵意対象である蒼汰の面倒を見たのだ。
まだあの時のお礼を言っていない。
だからランスで貫かれようが、それで死のうが。
生き返ったゾンビになろうが――
「絶対に『ありがとう』っていうために、あの人を取り戻すよ」
最後のセリフだけが口に出ていた。
もえかに詳しい事情は話せない。
だからこれ以上は口にできない。
「――本当に蒼汰君は無事で戻ってくる?」
弱弱しいもえかの問いかけ。
彼女の吐息が蒼汰の頬をくすぐる。
唇が触れそうなほどの至近距離で見つめ合う男女。
「――もちろん。なすべきことをきっちりと果たしてからね」
そう断言する。
彼の言葉を受けたもえかが腕の力を弱める。
「――蒼汰君は蒼汰君の役目を果たして。私は私の仕事をこなす――」
ようやくもえかに笑顔が戻る。
それを見た蒼汰にも笑顔が伝染した。
彼女から離れ、蒼汰は展望台へ向かうべくアリーナ出入り口に足を向ける。
「行ってらっしゃい吉野君。狗神もえかのことは任せなさい、あなたはヘスティアをお願い」
「――うん。やるべきことが終わったら、物資運搬用エレベーターで落ち合おう」
麗との会話を済ませて走り出す。
出入り口を出て、まずは館内マップに目を通す。
舐めるように視線を動かし、階段を発見。
迷路のような飲食店通路を駆け抜け、上へと続く階段を駆け上がる。
ぐるぐると螺旋階段を上がり、疲労と息切れを無視してさらにスピードを上げる。
帰宅部の影響だろうか、展望台がある最上部に着いたとき、蒼汰はもうヘロヘロだ。
だけれども足を決して止めない。
最上階は広大な面積を展望台が占めている。
望遠鏡やバー、ソファーが置かれるデートスポット。
その展望台の扉を蒼汰は開ける。
豪華な七色の絨毯が敷き詰められた空間が視界に入る。
一歩一歩絨毯を踏みしめ、蒼汰は彼女を探した。
そして不意に彼の目に入ったもの。
ソファーに腰かけ、優雅に窓から見える宇宙空間を眺める騎士服の少女。
碧眼と血色の瞳に星々の輝きを焼き付ける長身の赤髪魔法少女。
鍛え上げられたランスを床に突き刺し、過すぐでも戦いに赴く――そういった雰囲気を漂わせる美少女。
デートスポットで彼を待つ彼女。
ヘスティア・シュタルホックスが吉野蒼汰の存在に気が付く。
「――よく来ましたね、吉野蒼汰。そして大天使」
床に突き刺さったランスを引き抜く。
絨毯の生地が付着したランスの刃先、それが蒼汰に向けられる。
「この決闘は、大天使を被検体とする実験を行うためのものです」
「実験……」
ヘスティアは蒼汰の様子から、彼の心中を察する。
よって懇切丁寧に解説を加える。
「私たち異世界の異人がこの世界に転移されたこと――それは大天使を実験体とした大規模実験の最終フェイズを飾るためのものなのですよ」
「大天使の実験……」
蒼汰はヘスティアの告白にはそれほど驚かない。
階段を駆け上がったせいで息は切れているが、不思議なほどに落ち着き切っている。
「アルベルト様や、上の連中の野望を私は叶えます。だからこそ、大天使を完全体にする」
完全体――
「我々の復讐のため、あなたの大天使を強くして差し上げましょう」
ゆっくりとした所作でランスを構える。
「吉野蒼汰に宿った大天使よ、本当にありがとう。あなたの存在は永遠に後世へ語り継がれるでしょう――」




