葛藤の末の決断
彼女は大学の同級生であった。
授業も課題もまじめに取り組まず、よく教授から補習課題を突き付けられていた真広とは正反対に、どこまでもまじめで優秀だった。
夕暮れ時の教室で、2人っきりでいた時に異世界転移に晒され、血と硝煙に塗れた泥沼の戦争世界へと飛ばされた。
そこで真広は『ラインハルト帝国』という国の兵士として転移し、彼女は『ラスコー・ポリテーヌ共和国』という国の代表の1人娘として転移した。
その後彼女は軍に志願し、2人は銃を手に戦場で対立する関係へと発展したのだ。
彼女は蒼汰の3つ上の姉だった。
幼い頃に公園でもえかと遊んでいた蒼汰を迎えに行き、もえかに想いを寄せる蒼汰を揶揄うようで、2人をくっつけるためにお節介を焼いていた。
大天使が蒼汰に宿る前、突如彼女は失踪した。
それ以来、この世界から彼女という存在の記憶、痕跡が抜け落ちていき、あたかも最初から存在すらしなかったように扱われた。
おそらく誰かが、例えば彼女が大学で使用していたノートを拾ったとしても、名前の書かれたそのノートは、拾い主が気づく間もなく消失しているだろう。
『――彼女が、彼女こそが『システム・ヴァリアラスタン』です』
いつものように透き通るような大天使の声音。
だが蒼汰は、彼女の言葉を十分に理解できていなかった。
いや、ただ単に思考がフリーズし、大天使の言葉の意味を噛み締める余裕がないだけであろうか。
「……姉さんは……いやだって、姉さんは姉さんで……」
蒼汰は大天使の言葉を理解し始めたかと思うと、今度は目の前の現実から目を背けようとする。
『――あなたのお気持ちはお察しします……でも』
――あなたがどう思おうと、この現実だけは変わりません。
突き放すように蒼汰を諭す大天使。
「いつから……いなくなったのが去年で、いつから姉さんは……」
『――ことの発端は、1年前に吉野美帆がとある女神の思惑で異世界に転移させられたことです』
大天使は何かを、いや全てを知っているとでも言いたげなはっきりとした口調で語り出す。
『――その世界では戦争によって世界が荒廃し、多くの命が失われました。彼女はそれを嘆き、何とかしたいと、悲しみを終わらせたいと切望しました』
――そして彼女は、『ワルプルギス文書』を使ってその世界を再構築、誰もが戦争の悲しみを背負うことがない幸せな世界を創ろうとしました。
『――文書を使用した際、文書の力を取り込み、吉野美帆は人間から女神へと昇華しました。そして自分が管理女神として世界を再創造したんです。でも、『体制派』の攻撃に見舞われました』
「……」
次々と繰り出される事実。
大天使がその存在を公にしてからの特異な経験に匹敵するほど、大天使が話す内容は蒼汰を驚愕させるものだった。
『――彼女は元人間とは思えないほどに強力な女神として誕生して、目を付けられたのです』
――そして女神となった彼女は『体制派』に捕らえられ、『システム・ヴァリアラスタン』として利用されました』
「利用……された……?」
『――ええ。彼女の莫大な魔力を用いて、人間では実現不可能な、東京都に存在する全ての人間に同時洗脳を施す機械として利用されたんです』
大天使のセリフが脳内を過ぎった瞬間、蒼汰は両手の拳をぎゅっと握りしめた。
蒼汰がどれだけ大天使の言葉を拒否し続けようと、蒼汰の思考はは否応にも彼女の言葉を理解していった。
『――それがあなたのお姉さん、吉野美帆の現在の姿です』
蒼汰は顔を伏せ、瞼をぎゅっと強く閉じ込んだ。
そしてゆっくりと目を見開き、もう一度美帆の顔に視線を合わせる。
目の前にいるのは間違いなく吉野美帆である。
だが蒼汰の知る彼女はもういない。
『――今や彼女は体制派にとって最重要計画の1つです』
大天使の言葉の通りだ。
蒼汰の知る美帆は、戦争とは無縁の普通の女子大生だった。
今の彼女は、超神的な儀礼を経て、美帆ではない美帆へと姿を変えたのだ。
『――あなたも十分に理解しなくてはなりません。『システム・ヴァリアラスタン』の本当の存在意義を』
「存在意義……?」
『――範囲下の全ての人間に洗脳を施すことができる、それはつまり、誰が相手であろうと自分たちに強制的な服従を強いることができるということです』
「範囲下ってことは、東京の人々……」
『――ええ。敵を自分たちに寝返らせ、寝返った敵を敵を討つための駒として利用することもできる』
――以前渋谷で発生した集団サイコハザード。あれには『体制派』が敵勢力への牽制のため、『システム・ヴァラスタン』の性能を披露するためのパフォーマンスの意味も含まれていたんでしょう。
「確かに……でも、どうして僕にそんな話を……」
『――彼女にまつわる話を聞いて、あなたはどう思いましたか?』
質問を質問で返す大天使。
『――あなたは『体制派』を許すことができますか?』
初めて見る、大天使の感情的な言葉。
僅かに怒気の孕んだ大天使の言葉を聞き、蒼汰は一瞬委縮した。
「僕は……」
当然許せるはずもない。
大好きな姉をモノのように扱われ、その生涯を兵器として徴兵される。
『――私は、彼女を……吉野美帆を必ず連れ戻します』
大天使の顔は見えない。
だが彼女の決意は、例え表情が見えなくとも容易にくみ取れるものだった。
「そんなの……僕だって同じだよ」
美帆いなくなって、蒼汰は悲観した。
表面には出さなかったものの、姉を見つけ出したいという想いはずっと煮えたぎっていた。
そして今、探し求めた人が目の前にいる。
たった1枚のガラスを隔てた向こうに、吉野美帆が――
蒼汰は1歩踏み出し、美帆との距離を詰めていく。
右手を伸ばし、彼女の眠る水槽のガラスに手を触れた。
その瞬間、真っ白な空間が一挙に暗転。
それと共に甲高い警報が轟き、赤色の非常ランプが点灯した。
『――システムへの脅威を検知。システム保護のため、脅威対象の排除を実行します』
直接頭の中に語り掛けられるような、温かみのない人工音声。
「そんな……」
嫌な汗が蒼汰の背中を撫でた。
『――蒼汰様。たった今警備要員が、強力な人工魔法少女が……』
「人工……魔法少女?」
『狗神もえかではありません。おそらく彼女と同様に、『人工魔導発生ナノマシン』の適合に成功したもう1人の人工魔法少女、そのクローン体かと思われます』
蒼汰の胸のつまりが、『狗神もえかではない』という大天使のセリフによって流し出される。
「そ、そうなんだ……でも、どうしてもえかのクローンじゃないって分かるの?」
それは率直な疑問であった。
人間の接近、それも魔法使いであれば魔力周波などといったものを感知することはできるであろう。
だが大天使は警備要員が人工魔法少女のクローンであると断言した。
一呼吸ほどの沈黙。
その沈黙を経て、大天使は口を開いた。
『――それはもう、これまで何度も交戦したことのある相手ですから。何度も、何度も……』
しみじみと回顧に浸る大天使。
何やら思いつめたような声音が引っかかるが、蒼汰が引っかかったのはそこではない。
「何度も……?」
彼女は何を言っているんだ?
もえかのクローンならいざ知らず、他の人工魔法少女のクローンと交戦したことなんて……。
脳の処理に手間取る蒼汰。
そんな彼の様子を見て、大天使は唇を噛んだ。
『――呆気に取られている場合ですか? 今にもクローン体は迫っているのですよ』
だがすぐに気持ちを切り替え、蒼汰を正気に戻すべく叱責による回復を図る。
「――そ、そうだね! 奥村さん!!」
まだ頭の中はぐるぐるとしている。
大天使の言葉、美帆を今すぐにでも連れ出したい気持ち、あらゆる思考や感情が脳内を錯綜する中、蒼汰は美帆から目を離すことができない真広に声をかけた。
「――美帆、美帆! 今連れて帰るから!!」
真広は腰のサーベルを抜き放つ。
美帆を収納する水槽のガラスを叩き割ろうと、細身の刀身を思い切り振り上げる。
「――奥村さん! 吉野蒼汰君! すぐに戻って!!」
その言葉と共に、蒼汰と真広の背後の扉が開放された。
そこには勢いのある扉の開放によって雪髪を跳ね上げ、顔色を悪くしたクリスティアーネが立っていた。
「――撤退します! すぐにでも『ナノタウン』の脅威駆逐要員が駆けつけてしまいます!!」
クリスティアーネは息を切らし、顔色を悪くしながらも必死に叫んだ。
だが真広は動かなかった。
美帆とエレナの姿を交互に瞳に焼き付け、強烈な現実に翻弄されるが如く、感情を右往左往され、クリスティアーネの言葉など少しも聞いていなかった。
「私の声が聞こえないんですか!? 状況は理解しました!! 彼女があなたの愛するアレクシア・アニョルト――吉野美帆だということも!! でも――」
「美帆が……美帆がここにいる! 彼女を目の前にして、撤退などできるものか!!」
「ここは『体制派』にとって重要施設の1つです! 敵が侵入した際、確実に息の根を止められるだけの戦闘力を有した部隊が配置されているんです!!」
――アルフレッドの傍らにいるときに聞いています! 狗神もえかともう1人存在する人工魔法少女の完成形、その少女のクローン部隊が編成されています!!
「相手は狗神もえかに次ぐ人工魔法少女のクローンです。狗神もえかのクローンに劣るとはいっても、今の状況では勝ち目なんてないですよ!!」
――加えて、全員の体が時空間航行路と同質の超環境によって汚染され始めているはずなんです。そんな状況でまともな戦闘など行えるはずもありません!!
クリスティアーネの主張に、真広は一切の反論ができなかった。
「今すぐ脱出しないと、このまま本当に全滅してしまいます!!」
――それに!!
「――ファルネスホルン最高評議会にとって、『システム・ヴァリアラスタン』こと吉野美帆の奪還は計画されています! 救い出すチャンスはあるんですよ!!」
――今ここで撤退をしないと、全員が人工魔法少女に殺されるか、時空間航行路の超環境で汚染され死亡してしまいますよ!?
次々とクリスティアーネから発せられる主張の数々。
真広も頭の中では彼女の主張が如何に正しいか、彼女の言う通りの行動を取るべきであるということを理解している。
だが心の奥底の感情が、彼に正しい行動を起こさせることを抑制していた。
普段の冷静さを失った今の真広にとって、今成すべきことを即断即決する余裕など消え失せている。
どれほどクリスティアーネが言葉をかけようと、真広の様子は変わらない。
そう思われていたが――
「彼女の言う通りだヴァルトハイム中佐……いや、この世界では奥村真広だったな……これ以上はだめだ……」
背後から不意に注がれる第3者の言葉。
聞き覚えのある声で語り掛けられた真広。
後ろの振り向き、そして声の主と視線を合わせた。
「これ以上この場にいたらお前が死ぬぞ、ここは人間が五体満足に適応できるような環境じゃねえんだ!!」
ウェーブのかかった金髪の下に湛えた青みがかった双眸。
真広はガラス越しにそんな吸い込まれそうなほどに美麗な瞳と視線を合わせる。
「戻れ。今のお前たちじゃ、あたしもこの子も連れて帰ることなんてできないだろ!?」
水槽の中で、ケーブル塗れの女性――エレナが声を張った。
「それに、ここでお前が死んでしまったら、あの時、お前だけを元の世界に還した吉野美帆の気持ちを踏みにじることになるんだぞ!!」
その言葉を聞き、真広の強張った全身から力が抜けていった。
振り上げたサーベルを床に落とし、だらんと腕が重力に従って下に伸びる。
「――吉野蒼汰君! 手伝って!!」
真広の気が抜けた瞬間を見逃さず、クリスティアーネが真広の体に飛びついた。
そのままタイムマシンの方向へと引きずっていく。
「――っ!!」
蒼汰は歯を食いしばり、真広の腕を引く。
彼はこの状況に理解を示しているが、納得できているわけではなかった。
本当は自分だって、真広と同じように美帆を連れ戻したかった。
蒼汰の前からいなくなって1年、彼はずっと彼女のことを想っていたのだから。
『――蒼汰様、手を伸ばしてください』
『システム・ヴァリアラスタン』へ繋がる扉を出る瞬間、彼の中の大天使が言葉を発した。
蒼汰は真広を引っ張る役目を左腕に託し、右手を差し出した。
すると蒼汰の足元に魔法陣が出現し、それが蒼汰の手のひらに舞い降りた。
――感情だけで考え、感情だけで行動してしまえば論理、合理が傾く。だが感情は決して忘れてはならない。それがあってこそ、人々は人々との心からの繋がりを形成できる。
『――これで文書が回収できました、さあ早く――』
「――と、扉が閉まってる!!」
頭の中の大天使の言葉をかき消すほどの声量で叫ばれた声。
そんなクリスティアーネのセリフを証明するように、今まさに『システム・ヴァリアラスタン』へ繋がる部屋の扉が閉鎖を開始した。
警備要員が投入されたことにより、戦闘の影響がシステムに及ばないようにする措置であろう。
「……美帆」
小さく彼女の名前を呟く真広。
真広はクリスティアーネと蒼汰の手を振り払い、もう一度彼女の方へ視線を向けた。
今は連れ戻せない。
ようやく真広は理性で感情を押しのけ、この場から撤退するという英断に徹した。
ずっと忘れることのなかった生き別れの美帆の姿を瞳に焼き付ける。
「絶対に……もう一度来るからな!」
その言葉を最後に、真広は前を向いた。
扉が閉まる音を背中で聞きつつ、蒼汰とクリスティアーネと共にその場を後にした。
――。
――――。
―――――――。
――文書回収率95パーセント。
――これで、ほぼ全ての『ワルプルギス文書』の断片を回収できました。
――あともう少し、もう少し……もう少しだったのに……。
――残存の文書断片発見できず、すでに消失しています。
――『ワルプルギス文書』の断片喪失により、新世界『ゼネラルメビウス』の完成は不可能となりました。
――かの世界を創り出す『暁の水平線計画』は失敗。
――セカンド計画たる『インフィニット・ピースメーカー』は、これまで通り進行されます。
――でも……未完成のままの『ゼネラルメビウス』が、世界の構成を維持できるかどうかは、誰にも分かりません。