最後の分岐世界
西暦2023年12月 東京都某所 レジスタンス日本支部アジト。
決して清潔とは言えない崩れかけの建物内で、何人もの人間が慌ただしく靴を鳴らしていた。
来たるべき襲撃に備え、武器や物資の搬入、設置が急ピッチで執り行われている。
常に平穏とは無縁な彼らにとって、国際保安理事会による攻撃など日常茶飯事だ。
だが今回の襲撃は、魔法使いを否定する連中によるものではない。
藤ノ宮麗の拉致を目的としたグループによるものだと通達が来ている。
一時的に姿を消し、再びこのアジトに戻ってきた藤ノ宮麗。
彼女は3つの霊装を持ち、国際保安理事会に対抗する多大な戦力であり英雄である。
麗を失うわけにはいかない。
レジスタンスはそう意気込み、後藤支部長の命令の下、淡々と準備に勤しむ。
搬入された段ボールの中から、円柱状の機械を取り出す男性。
スキャナーと言われる、『隠密術式』を突破するための機材である。
その方法は、スキャナーが放出する波長を用いて魔法使いの心臓の熱を感知するというものだ。
『隠密術式』は通常の術式に比べて多くの魔力を消費し、術者に大きな負担を要するものである。
そしてその分、処理によって発生する心臓の熱は総じて高くなる。
心臓の熱のみを選別して測定する波長は、明らかに高い熱に触れた瞬間だけ反射し、それをスキャナーがキャッチする。
その波長が反射して返ってくる時間を計算し、相手の距離と方位を測定するという仕組みである。
多大な負荷のかかる大規模術式を展開する術者にも反応してしまう欠点はあるが、それでもスキャナーの性能には目を見張るものがある。
国際保安理事会から接収したそれらを設置するレジスタンス。
そんな彼らの仕事ぶりに目もくれず、早足気味にその場を通り過ぎる男性が1名。
額や首元に汗を流し徐々に加速する歩行は、彼の焦りを表していた。
彼の名は後藤信一。
レジスタンス日本支部長という肩書をかざし、日々国家保安理事会との衝突を主導する。
今までは主敵や、その関係者と目される人物の殺害に熱を込めていた。
しかし今では、もっと大きく人知を超えた存在の抹消に足を踏み入れていた。
後藤は建物地下へ繋がる階段を下りていく。
整美の行き届かない空間はカビの臭いにまみれ、ぽつぽつと落ちる水滴が階段を濡らしている。
地上とは裏腹に人気のない階段を抜け、そこは地下ながらも明るい照明が辺りを照らしていた。
そして大きな鉄格子によって場所を取られた空間に差し掛かった。
後藤は鉄格子の前で立ちどまり、そこに収監される少女に語り掛ける。
「――連中がアジトに乗り込んでくるのも時間の問題だ」
その少女――藤ノ宮麗は何も答えない。
天井から伸びる鎖に繋がれた手錠が、彼女の両手首を拘束している。
ボサボサの髪に、汚れた制服。
まともに風呂にも入らせてもらえず、洗濯のされていない服の着用を強いられている。
トレードマークである青色のリボンもとられ、日頃胸に挟んでいる小型拳銃も没収された。
12月の寒気に覆われた室内で、ブレザーを脱がされ、心許ないワイシャツ姿の麗。
穴の開いた黒タイツの中から素足が覗き、容赦のない寒さが彼女の心身を凍らせている。
いや、彼女の沈黙は寒さだけが理由ではないのだが――
そんな魂の抜けた麗の前で、後藤は両手で格子を握りしめる。
「この世界の崩壊が、これほどまでに早く始まるとは予想外だった……」
後藤は焦燥感に襲われ、ギリギリと奥歯を噛み締める。
今の後藤に、『ミコト研究機関』で見せたような冷静さはどこにもない。
もう時間は残されていない。
何としてもここで阻害者を仕留めなければならない。
彼らの目的は麗の奪還。
必ず連中はアジトにやって来る。
「……こんなはずではなかったのだが」
もう少しで昔のように、麗を隷属状態に陥れることができるはずだった。
これはそのための監禁だった。
壊れてしまえば、彼女をここから出して再び手足として使うつもりだった。
だが今は、じっくりと再教育をする余裕もない。
「……本当であれば他の平行世界にも手を加えて、じっくりと連中を締め上げるつもりだったのだが……」
後藤はレジスタンスの魔法使いたちに、蒼汰たちを敵として認識するように仕向けた。
様々な分岐世界で同じような認識を植え付け、じわりじわりと蒼汰たちの戦力を削る。
そしてアルフレッドより貸与された魔導兵器を使って殲滅、それが当初の筋書きだった。
しかし、この世界の崩壊が始まったことで計画に綻びが生じた。
だから急遽魔導兵器を3体投入し、一挙に責め立てるという方針転換を行った。
結果は壊滅。
そして蒼汰たちが、最後に残ったこの平行世界に入り込むという現在に繋がる。
後藤の愚痴を、麗は黙って聞いていた。
「大天使は生まれるべきではなかった、いずれ彼女は消えなくてはならない」
その存在そのものが、この世にとって害でしかない。
――いずれその存在だけでなく、存在したという事実さえもなかったことにしてやる。
口には出さない悪魔的な思案が頭を駆け巡った。
後藤は吐き出すだけ吐き出し、荒い息は徐々に平静を取り戻していく。
「話過ぎたな。私の準備が終わり次第、この世界を後にする」
後藤は踵を返し、下ってきた階段に目を向ける。
「その時は君も来るんだ。事態が落ち着いてから、再び銃を握ってもらうぞ――」
――それが責務だ。
最後の付け加えが麗の耳に届く。
彼女は体を震わせ、しばらく水を呑み込んでいない喉を鳴らした。
後藤の足音は階段を登っていった。
あの男はレジスタンス日本支部のトップ、部下の指令に向かったのだろう。
麗は1人、その場に残された。
(……吉野君、ヘスティア、幸奈)
彼らがこの世界、この時間軸にまで麗を追ってきた。
ファルネスホルンには、正確な時間軸へ行くためのタイムトラベルの技術はない。
これまで何回か、時間がずれるなどの失敗を繰り返してきたのだろう。
それと同じ数だけ、失敗して他の分岐世界へと流れついたのだろう。
(平行世界……理論……)
後藤が話すまで、平行世界理論など知る由もなかった。
(私がいるこの分岐世界が、最後の世界線……)
手錠に繋がれた手首は、内出血によって青く染まっている。
すでに感覚は鈍化しており、もう痛みは感じられない。
それでも、心の痛みだけはいつまでも居座り続ける。
「……麗奈」
喪った妹の名前を口ずさむ。
唇を噛み、血が流れる。
舌で血を拭うも、もう何の味もしなかった。
静かに目を伏せ、脱力した体をさらに脱力させる。
その時、けただましい警報音がアジトを支配した。
『隠密術式』か他の大規模術式による高熱を『スキャナー』が感知したのか。
それを受け、司令部が警報を鳴らしたのだろう。
この段階で、レジスタンスは敵の距離と人数をほぼ正確に捉えた。
続いて巻き起こるのは、おそらくこのアジトから放たれる先制攻撃。
その時、地上へ続く階段に閃光が走る。
それと同時に爆発的な轟音が連鎖する。
それは麗の頭上、地上から鳴り響く攻撃の轟音であった。
おそらくレジスタンスが繰り出した魔導砲撃。
それも長距離対象を撃ち抜くため、壮大な魔力を込めた狙撃だろうか。
だが、きっと蒼汰たちはレジスタンスによる迎撃を突破してくる。
麗には音しか聞こえないが、彼らを仕留めるには不十分な砲撃であることは理解できる。
こんな攻撃では、彼らの進軍速度は落ちない――
それも束の間だった。
地下まで響く地鳴り。
地上のどこからか聞こえる、到底人間とも思えないほどの巨体を連想させる足音だ。
それに続き、バラバラの箇所から同様の地響きが連鎖していく。
麗はそれを知らない。
得体の知れない巨大な物体が次々に立ち上がる音に、思わず背筋が凍った。
命が宿ったそれらはバラバラな方向に歩いていき、そして唐突にピタリと止まる。
関節の曲がる駆動音を響かせ、再び制止。
足音も駆動音も止まり、警報とレジスタンスの喧騒だけが木霊した。
そして数十秒後、その木霊を全て打ち消すだけの轟音と衝撃がアジト全域を揺さぶる。
普通の魔法使いの比ではないほどに苛烈な爆音。
実際に見なくても分かる。
建造物を何棟も貫通してしまいそうな高出力魔導砲撃が、一斉に射出された音だった。