彼女の激情
ヘスティアたちを預け、蒼汰は1人でスラム街を後にした。
行きついた先は、スラム街の存在する廃墟街よりも向こうに位置する廃墟街である。
どこもかしこも崩れかけの建造物が乱立した光景。
草木が根絶やしにされ、住民の姿もない。
本当に東京は壊滅してしまったのか、そう実感できる物寂しさだった。
足元の瓦礫に注意しながら、蒼汰はレジスタンス日本支部アジトを探す。
すでに壊滅し占領されたのかもしれないアジトだが、最近でも麗らしき少女は目撃されている。
(藤ノ宮……)
あのお爺さん――藤ノ宮玄の言葉が脳内を反芻する。
後藤に壊された。
あのスラムを出てからも、それだけが頭から離れなかった。
(ここで彼女を救い出せれば、未来が変わる……)
この世界のあり方に横槍を入れてしまうことになる。
それでも、麗を助けることができるのなら――
砂利を踏み越えて前に進む蒼汰。
蒼汰以外の足音が響かないこの街で、よそ者の侵入を察知した守護者が静かに立ち上がる。
「――そこで止まりなさい」
蒼汰に向けられた、警告の声音。
ひしひしと警戒心を醸し出すその声に、蒼汰の息が止まる。
「……あなた魔法使い? 魔力周波を垂れ流しにして」
蒼汰はこの声を知っている。
凛として透き通った若い女性、少女の声。
「あなたは誰? 答えなさい」
徐々に大きく聞こえる少女の声。
よく響く足音を轟かせながら、彼女は蒼汰に接近する。
「答えてって言っているのよ。私の言葉が理解できないの?」
そして彼女は、蒼汰の目の前に姿を晒す。
学校制服に身を包む少女。
荒野の中でひと際輝く、下ろされた黒い長髪。
端麗な顔立ちで蒼汰を睨みつける少女は、片手に拳銃を握って立っていた。
「藤ノ宮……」
蒼汰が知る彼女と瓜二つの少女が、そこにいたのだ。
蒼汰が無意識に呟いた彼女の名前。
当の本人は、それを聞き逃さなかった。
「……私を知っているのね?」
スラムでも聞いた通り、麗の名前は知れ渡っている。
麗は蒼汰が自分の名前を言ったことに驚くこともなく、さらに続ける。
「あなたはスラムから来た魔法使いでしょう? 私に何の用?」
麗の警戒は厳しいままだ。
レジスタンス日本支部所属の麗が、対立するスラムの住民と認識した者に好意的な目を向けるはずもないのは当然だ。
だが麗は、それ以上の理由によって蒼汰ににらみを利かせる。
「藤ノ宮、僕は――」
「――動かないで!」
鈍い発破音が聴覚を支配する。
顔に衝撃が走り、鋭く痛む箇所から生暖かい液体が流れ出す。
蒼汰の頬を掠めた銃弾は、背後の瓦礫の中へと姿を消した。
蒼汰から発せられる大天使の魔力周波。
スラムの住民は指摘しなかったが、おそらく彼らも異常性には気が付いていたのだろう。
「あなたは、私に何か用なの?」
麗も大天使の魔力周波に感づいているからこそ、警戒を緩めない。
たとえ同胞だとしても、麗は蒼汰を得体の知れない何者かと認識している。
「藤ノ宮、話を聞いて!」
つい感情的に出してしまった大声。
そのことが麗に火をつけ、拳銃を握る手に力が入る。
だがもう止まらない。
頬の激痛に意識が向かないほど、蒼汰は必死になって言葉を紡ぐ。
「――僕は藤ノ宮を助けに来たんだ!」
ぴくっと体を反応させる麗。
表情も態度も変えないが、それでも蒼汰の言葉に疑問と驚きを示している。
「……いきなり何を言っているの?」
表情は険しいが、口調は穏やかである。
まるでおかしな人間を見るかのように、冷めた瞳を蒼汰に向け続ける麗。
その姿は、蒼汰のよく知る普段通りの彼女に見えた。
だが、蒼汰は見逃さなかった。
彼女の瞳が大きく揺らぎ、見栄を張るように冷静を気取っているということを。
「――そのままの意味だよ。藤ノ宮が抱えるものを、少しでも軽くしてあげたくてここまで来たんだ」
この時の蒼汰の読みは的確だった。
彼女の瞳の揺らぎは、自分の憂いを自覚してのこと。
自分自身が追い込まれているのを知っているからこそ、救済を述べる蒼汰に無意識の反応をしていた。
「他人の僕からこんなこと言われて警戒するのは分かってる。藤ノ宮が納得できなくても――」
蒼汰は必死だった。
少しでも麗の不幸を取り除こうと必死だった。
麗を蝕む不幸。
それはきっと――
「後藤が藤ノ宮に義務とかそういうものを強制した。義務を果たすことは大事だけど、藤ノ宮が壊れてまで守らないといけない義務なんて――」
麗の琴線に触れる言葉。
歯を食いしばり、巻き込まれた唇から血が流れる。
麗は蒼汰に言ったんだ。
あの場所で、『ミコト研究機関』で。
――あなたが彼女を救い出したなんて奇跡を見て、私のように義務とか責務とか、そういうものに目をくらませているばかりじゃだめだと思ったの。
あの時の麗は、それに気が付き、自覚できた。
そのきっかけを作ったのは蒼汰だ。
だから今回だって――
「僕は藤ノ宮の背負っているものを一緒に背負うよ。藤ノ宮が克服できるまで、僕たちが一緒に――」
言い終わることのないセリフ。
胸を押す衝撃が、蒼汰の体勢を大きく崩す。
「どうして、あなたなんかに……」
麗は蒼汰を突き飛ばした。
砂塵まみれの地面にお尻を落とし、地に着いた手のひらが激しく痛む。
「初めて会ったばかりなのに、馴れ馴れしくて気持ち悪い……」
蔑む瞳が蒼汰に降り注ぐ。
両肩を震わせ、力んだ手で今にも拳銃の引き金を引いてしまいそうな雰囲気の麗。
「……僕は、今までの藤ノ宮に戻って欲しいって思ってるから」
蒼汰が捲し立てる言葉も、目の前の麗には届かない。
これほど近くで語り掛けても、届かないほどに麗は遠い場所にいるのだ。
だがそれ以前に、蒼汰は麗の気持ちを理解できていなかった。
それを理解できない限り、麗の心が揺れ動かされることはない。
未だ理解できていないからこそ、蒼汰は禁忌に触れる。
その言葉が麗にどんな顔をさせるか分からないから、蒼汰は口に出してしまう。
「今の藤ノ宮じゃあ、麗奈さん……妹さんだって悲しむかもしれないのに!」
スラムを出る前に、玄さんから簡単に聞いた話である。
彼女には2つ下の妹がいた。
魔力を持たない普通の人間として生まれた妹。
彼女は魔法少女として、周囲からよく思われていなかった麗を励まし続けた。
麗も麗奈への愛情を持ち、妹としても心の支えとしても麗奈を大事にし続けた。
「僕も一緒に頑張るから。元気になって、麗奈さんに逢いに行こう」
妹の名前を出せば、きっと麗は応じてくれる。
少々強引だが、彼女を救うことに繋がるのであれば……。
麗からの返事はない。
俯き、前髪が影を作って彼女の表情を隠す。
ズルリと手から拳銃が滑り落ち、銃口が地面に叩きつけられる。
ワナワナと震えた手を固く握りしめる。
表情の見えないまま、麗はツカツカと座り込む蒼汰の目の前にまで近づいた。
「藤ノ宮――」
蒼汰の呼びかけ。
それに対する返事は、重い拳だった。
頬に受けた衝撃が蒼汰を地面に張り倒す。
背中から地面に倒れた蒼汰。
追い打ちをかけるように、麗が蒼汰の体に馬乗りになる。
「何であなたが、そんなことを言うの!?」
それまでに見せなかった剣幕。
警戒心を露わにしていた表情から、怒りと悲しみの混同した顔つきに変わった麗。
突然の様子の変化。
なぜこうなったのか、蒼汰にはよく分からなかった。
『妹』、その言葉を聞いた途端に豹変した麗。
とても大切な存在の名前を出したことが、麗の心を踏みにじった。
精一杯歯を噛み締め、皮の剥がれかけた拳を再び振り上げる。
「この!!」
振り上げた麗の拳。
それが2度3度蒼汰に顔に吸い込まれていく。
「私だって、あんなことしたくなかったのに!!」
麗の激情が加速していく。
「私のこと何も分かっていないくせに!!」
蒼汰の理解が及ばない想いが、打撃として蒼汰を打つ。
「理解しようともしないくせに!!」
繰り返される麗の拳打。
蒼汰は抵抗することも、避けることもしなかった。
ただひたすら、彼女の気持ちを受け止め続ける。
感情よりも論理的な考え方を優先していた麗。
今はその面影もすっかり消え失せ、涙と共に感情を乗せた拳を蒼汰に打ち付ける。
鈍い衝撃は脳を揺らし、徐々に意識が薄くなる。
朦朧とする中、蒼汰はずっと麗の慟哭を聞き続けた。
蒼汰の言葉がなくなった後でも、麗の熱は止まらない。
「あなたは何も知らない! 知らないからそんなことを言えるのよ!! みんな知らないから、何もかも知らないから!!!」
取り乱し続けた麗の拳から、休憩を欲するように力が抜けていく。
激しい呼吸で言葉がなくなり、蒼汰と麗の間に沈黙が流れた。
「……私は」
一息つき、麗が沈黙を破る。
「分かって欲しかっただもん……」
弱気に呟く麗。
俯き、蒼汰と自分の血の付いた拳を見つめる。
この時代の麗は蒼汰を知らない。
初対面の人と口論し、殴り倒し、心の声を感情と共に吐き出した。
情緒不安定と言っても差支えのない麗。
それもあるが、同時に蒼汰が本気で自分を救いたいという気持ちでいることに感づき、初対面ながらこの人に頼りたいという想いが浮上した。
だからだろう、このように麗が気持ちをさらけ出したのは。
蒼汰はそんな彼女を引いたりせず、ようやく発せられるようになった口から絞り出す。
「……僕は分かってあげたいと思ってるよ。だから藤ノ宮に手を差し伸べて……」
「――全然分かってない! 私の気持ちに寄り添わない御託なんて並べないでよ!!」
再び麗が拳を固める。
殴られながら、蒼汰は彼女の言葉を噛み砕いていた。
蒼汰はどうしても麗を救いたかった。
その気持ちを表しても、麗はそれに難色を示す。
そして彼女から出た言葉が、気持ちに寄り添うということ。
そうか、ようやく分かった。
彼女の自分を救ってほしいという想いは、蒼汰も知っての通りである。
だから蒼汰は手を差し伸べようとした。
だが、蒼汰のやり方は間違っていたのだ。
蒼汰は麗を救いたいという気持ちを前面に出し、彼女に訴えかけた。
それは蒼汰の真心である。
だが真心が強すぎるあまり、蒼汰が一方的に彼女を救い出そうとする意見を押しつけた。
しかし、麗の望みはそうではなかった。
「私は! そんなふうに助けて欲しいだなんて言ってない!! 私の気持ちなんて知らないくせに、勝手な妄想を押しつけないでよ!!!」
彼女は共感して欲しかったのだ。
外から手助けをしてくれるよりも、中から心を支えてくれることを渇望していた。
不幸を取り払ってくれるよりも、寄り添って話を聞き、同情して抱きしめてくれる存在を欲していた。
誰よりも冷静に振舞い、ファルネスホルン最高評議会のために尽くした麗。
彼女は日本支部から来た大天使補佐監査官以前に、ごく普通の女の子なのである。
蒼汰はまだ分かっていないが、麗の悲しみが共感を求める気持ちを増幅させていた。
ただの我儘、そう言うこともできるかもしれない。
だが麗の願いが我儘という言葉で言い尽くせないほど、彼女は遠慮のない境遇を味わってきたのだ。
(そうか……そういうことか……)
ここにきてようやく気が付けた。
少し遅かったが、麗の気持ちを理解することができた。
蒼汰が気を失うその瞬間まで、麗は涙を溜めた瞳で拳を振り上げ続けた。