スラム街
「――水と氷を! あとタオルに飲み水もだ!」
世話しなく響き渡る声。
担架によって搬送されたヘスティア、幸奈、エーデルワイスが病床に寝かされる。
東京都の中心から外れた場所に位置する廃墟街。
その街の大通りを塞ぐビルの向こうに広がるスラム街。
蒼汰一行はスラム住民の好意もあり、こうしてスラム街へと招待されたのである。
水分補給用の水に、体温を下げるための濡れタオル。
現在彼女たちにできる処置は、その程度である。
ここには十分な医療器具もなければ、薬の備蓄も簡素なものである。
彼女たちが横になるシミの付いたベッドが、この医療院の貧相さを醸し出している。
「――申し訳ありません、私共にできることはこのくらいです」
力不足を痛感する医療院長が、蒼汰に頭を下げる。
「いえ、こうしてベッドの上で横になれるだけでも安心できます。本当にありがとうございました」
謙遜でもなく、心の底からの感謝を述べる。
タイムマシンに放置してしまっては、敵意ある人間の魔の手が伸びるかもしれない。
こうして友好的な人々に囲まれているのなら、その心配もない。
「彼女たちの体調不良の原因が特定できたわけではないですから、経過観察していくことになります」
「はい、よろしくお願いします」
蒼汰は医療院長に一礼し、医療院を出る。
外の環境も医療院とさほど変わらない。
生暖かい横風が前髪を揺らし、蒼汰は太陽が姿を見せない灰色の空を見上げる。
(2033年の頃には見なかったな、こんな空)
淀んだ空色など、天気が悪い日であれば珍しくもない。
だがこの世界のこの時間軸において、この陰鬱とした天候はスラムの人々の心の色を映し出しているように思えて仕方がなかった。
ところどころ半壊し、復旧も進まずに放置された建物が散在。
耐震性もなさそうな小屋が乱立し、経済的にも苦しい状況が見て取れる。
それでも活気ある住民がスラムに蔓延っていた。
たとえ誰もが心に曇りを持っていたとしても、彼らは彼らなりに懸命に生きている。
では、麗はどうなのだろう。
彼女は多分、彼らのような強さを持っていない。
後藤を目にして怯えだした麗の姿は、鮮明に蒼汰の頭に刻まれている。
普段見せる冷静さの裏に、トラウマに縛られた弱さがあるのだ。
この時間軸の彼女を救うことが、彼女を呪縛から解き放つことができるかもしれない。
すぐに心が開放されるわけではない。
だから蒼汰は、ヘスティアや幸奈たちと共に麗に寄り添っていくつもりだ。
そのためにも、まずは麗に関する情報収集である。
レジスタンス日本支部と別組織であっても、噂くらいであれば聞き出せるかもしれない。
(誰に尋ねるべきかな……)
誰もが慌ただしく作業に集中している。
医療院の前から人々の動向を見渡す蒼汰。
そんな彼に近づく人影が1つ。
「あんたが帰国した魔法使いか?」
柔らかな声音に反応し、蒼汰が振り向いた。
「よく帰って来たなぁ、日本に」
白髪の男性が笑顔を浮かべてそこにいた。
「……はい、何とか帰って来ることができました」
蒼汰とお爺さんとの会話が始まったとたん、周囲の住民が作業を中断して集まってきた。
物珍しい帰国者が来たということで、群衆は興味津々で蒼汰に視線を送る。
「海外でも国際保安理事会との戦争が激しかっただろ?」
やっぱり海外も同じか。
国際と名の付く保安理事会なのだから、世界中に展開していてもおかしくはないか。
「そうですね、ひどいものです」
こうしている間にも、人々の集団を見つけた新たな人々が群がる。
これだけの人数だ。
麗の情報を持っている人が1人や2人はいるかもしれない。
「それで、僕が日本に帰ってきたのは、レジスタンス日本支部にいる知り合いに逢うためです」
レジスタンス日本支部。
その名前が出た瞬間、人々の表情に陰りが見え隠れしたように感じた。
「日本支部? おいおい冗談はよしてくれ、連中と関わってもロクなことがないぞ?」
「ああ、連中はこのスラムから追い出された過激派だ。スラムレジスタンスとも衝突したこともあるしな」
思い思いの言葉が響き渡る。
日本支部という言葉が、このスラムの禁句ではないかと思えるほどの反感ぶりである。
「――まあ待て、スラムの事情はこの少年には関係がないぞ」
それまで蒼汰と会話していたお爺さんが諫めにかかる。
老いを感じさせない鋭い目つきが、ヤジを飛ばす人間に向けられる。
彼の一言と目つきで、ざわめきは沈黙へと変化。
その場を支配したお爺さんは、再び表情を柔らかくして蒼汰に向き直る。
「その知り合い、名前を聞いてもいいかな?」
「――彼女の名前は、藤ノ宮麗です」
蒼汰が麗の名前を出した時、再びざわめきが噴出する。
「――藤ノ宮?」
1人が彼女の名前を呟いた。
それが周囲に伝播し、麗に関する会話が始められる。
――藤ノ宮麗って、確か黒髪の可愛らしい女の子だったよな?
――日本支部が分裂した時、あの娘は日本支部に残ってスラムには帰らなかったんだ。
――今どうしてるんだろうな?
――そんなの決まってるだろ。今でも国際保安理事会の連中を殺し回ってるさ。
――良心が壊れちまったんだ、以前のあの娘は帰ってこないな。
各々が思い思いに口を開き、様々な情報が飛び始める。
周囲の様子の変化に戸惑いを隠せない蒼汰。
蒼汰が口を開こうにも、みんなは蒼汰そっちのけで麗の話に熱が入る。
「……君は、本当に藤ノ宮麗と逢いたいと思っているのか?」
お爺さんだけが、真摯になって蒼汰に問いかける。
蒼汰の覚悟を試すような強い瞳。
それを向けられようとも、蒼汰は委縮することなく答えてみせる。
「はい」
単純明快な2文字。
お爺さんに威圧されようとも、蒼汰の決意は変わらない。
「彼女に逢えば、君は深い悲しみを覚えるかもしれない」
「逢わなければ彼女の悲しみを知ることはできません。それに藤ノ宮の背負う真実を知ったとしても、彼女を救い出したいという気持ちが強くなるだけですから」
お爺さんの出した試練に、蒼汰は即答を返した。
本来の彼女を失った麗と逢っても、救うなど困難を極めることだとお爺さんは知っている。
それでも、自分の問いにここまで強い答えを示した蒼汰になら――
「そうか……それなら、話してもいいかもしれない」
お爺さんは重い腰を上げる。
自分が成そうとしても成し遂げられなかった、麗の救済。
彼になら、蒼汰なら何とかしてくれると、お爺さんはそう思ったのだ。
「彼女は東京都の端、このスラムの向こうに位置する別の廃墟街に本陣を敷く日本支部アジトにいる」
諜報長官のブリーフィングでも聞いた場所。
「だが最近では日本支部の人間がぱったりと姿を見せていない。アジトが制圧されたという噂もあるくらいだ」
東京が壊滅し、廃墟と化したのだ。
都民も疎開し、一般人のいなくなった東京ならアジトへの徹底攻撃も可能ということか。
仮にアジトが制圧されていれば、麗はどうしているのか。
逃げ延びたか、捕らわれたか。
「だが、そこの廃墟街で起こる小規模戦闘で兵器を生成して戦う魔法少女の姿は最近でも目撃されている」
兵器を生成して戦う。
間違いなく麗の特徴である。
「まあもちろん、いつもそこにいるとは限らない」
それでも有益な情報であった。
最近その廃墟街で目撃されているのなら、そこから足取りを掴むことができるかもしれない。
「ありがとうございます。それと、彼女のことを教えていただけませんか?」
麗は自分のことを多く語らない。
彼女のことを知ることができれば、蒼汰は麗をもっとよく理解できると考えたのである。
それに、お爺さんは麗と逢えば悲しみに暮れるかもしれないと言った。
おそらく彼は麗のことをよく知っている。
だから聞いておきたいと思った。
「……彼女はレジスタンス日本支部で重宝されている娘で、前まではこのスラムに暮らしていたんだ」
お爺さんは蒼汰から視線を外す。
かつて麗がいたこのスラムを見渡し、懐かしさにふけいる。
「スラムにやって来た時から可愛らしい顔をしていたが、どこか暗い女の子だった」
思い出を思い出すように、お爺さんは回想を続ける。
「だがある時に、彼女の暗い表情は深い後悔と悲しみで覆い尽くされるようになった」
不穏な空気が流れる。
お爺さんの表情に雲がかかり、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「日本支部トップの後藤信一に壊された、私はそう思っている」
お爺さんの話はそこで終わった。
その場にいた群衆も口を塞ぎ、ヤジを飛ばしていた人も含めて、みんなが昔の彼女を悼んだ。
「……彼女に、そんな過去があったんですね」
かなり簡略化され抽象化された麗の話。
詳細は分からない。
だがそれでも、麗の過去の輪郭を掴むことができた。
「その後日本支部はこのスラムから独立し、別の廃墟街に移った。それ以来彼女はここには顔を見せていない」
再び訪れる沈黙。
麗を知る者、知らない者もみな、揃って沈黙を堅持していた。
「――これから日本支部のアジトに行ってきます」
その沈黙を打破したのは、蒼汰である。
道を開ける人々の間をすり抜け、蒼汰は早足気味に医療院の前から離れようとする。
「――お爺さん、色々と教えていただきありがとうございました」
蒼汰は背後にいるお爺さんにお礼を述べる。
「……私からもお願いするよ。彼女を助けてやってくれ」
自分が成すべきであったことを、蒼汰に託した。
お爺さんの後押しに微笑みを浮かべる蒼汰。
蒼汰は振り返り、もう一度お爺さんと視線を交わす。
「彼女を囚われにする呪縛、僕はそれを少しは理解しているつもりです」
後藤によって植え付けられたトラウマ。
義務や責務といったものが、麗を縛り上げている。
「だから残り全部を理解して、そのうえで彼女を引っ張り上げてみせますよ」
蒼汰はそのように言い切った。
お爺さんは満足そうな表情を浮かべる。
後顧の憂いはない。
蒼汰に想いを託したことは、間違いではないだろう。
「あの娘の友人と出会えたのは幸運だった。君のような知り合いがいるなど――」
――孫も隅に置けないな。
その言葉は、蒼汰の意識を釘付けにするだけの強さを持っていた。
お爺さんは告白に続き、さらなる告白を紡ぐ。
「私は藤ノ宮玄――麗の祖父だ」