第七話 血だらけマリー
マリエル・オルセオロはベルジカ王国のオルセオロ侯爵ルキウスの娘として生まれた。そして、オルセオロ商会で働くようになった。彼女にとって世の中は契約という一つの決まり事によって成り立っているものだった。例えば、小麦が欲しいならそれにふさわしい金を支払えばいい。それはとても簡単な理屈で感情が入り込む余地はなかった。
だから、彼女は金銭の力を信じていた。
およそ高貴と呼ばれる王侯貴族も神に仕える人々でさえ貨幣の輝きには膝を折る。逆説的に考えれば、金を持っているからこそ人々に尊崇されるのではないか、とさえマリエルは思っていた。だが、世界は単純ではなかった。ときとして、ただの暴力だけが価値を示す場合もある。
彼女がそれに気づいたのは、自らの脇腹に槍がつきたったときだった。
「俺たちは分け与えてもらいたいわけじゃない。ただ欲しいんだ!」
夏用の短衣にあて布だらけの外套を身につけた男は吐き捨てるように言った。彼は賊であった。だが、最初からそうだったわけではない。彼はウェルセック王国北部の農夫の息子として生まれた。彼には八人の兄妹がいたが、成人まで育ったのは半分の四人であった。天候の悪さによる飢饉で死んだ妹。流行病であっというまに死んでいった兄。彼にとって世界は理不尽なものだった。決まった規則はなく、善悪など意味を成さない。
それでも、彼は望んでいた。
家族と無事に冬を越えたい。
少しでも豊かになりたい。
それはささやかで誰もが願うことだった。だが、彼がそれを現実にするためには様々なものが足りなかった。貧しい地域では生産できる食料や製品にはどうしても限界があった。ただ、彼にもできる方法があるとすれば、暴力で奪うことだけだった。それは賊となったほかのものも一緒だったに違いない。
武器を握り自分が手を汚せば家族が冬を超えられる。誰も欠けることもなくまた春を迎えられる。ならば、仕方ない。昔からあったことだ、そう自分を励まして彼らは賊になった。
最初は抵抗があった。しかし、二度、三度と繰り返すうちに慣れた。命乞いをする者の叫びも、すべてを奪い尽くされ空になった屋敷が燃える熱さも、そして、心の底で叫んでいた自分の良心の呵責にさえ彼らは慣れたのだった。
だから、彼には目の前の少女が自分たちに提示した内容が理解できなかった。
醸造所の主を名乗る少女は銀貨の入った袋を彼らの示して言った。
「貧しさから武器を取ったのなら私のもとで働きなさい。ここにある銀貨を支度金として冬を越し、春に拓かれる農園で大麦をつくり、それを原材料に酒を造るのです」
彼女は良い服を着ていた。それは彼がいくら働いても買えぬものだ。麻や毛織物しか買えない彼にはマリエルがそれだけで憎かった。死んだ妹は絹や木綿を身につけることさえできなかった。
この世界には生まれながら全てを持っているものがいる。彼には彼女がその象徴に見えた。
罪人であるお前たちを雇ってやろう。冬を越えるための金もやろう。それは善なのだろう。だが、それは持つ者だけが行える善だ。賊である彼にはその善こそが理不尽さなのである。持たないから悪をなした。賊として、財貨や食料を奪った。
そんなことをせずに済むならどれほど良かっただろう。自分よりも貧しいものを助けるそんな生き方をしたかった。だが、現実は異なる。持たぬものにはできないのだ。自分だけで精一杯なのだ。
「あんたは分かっていない。俺たちは奪うんだ。仕事をください。お恵みをください、と媚びへつらいに来たわけじゃない」
彼が言ったときマリエルは驚いた。彼女は決して彼らを侮蔑したわけではない。金をやるから帰れ、と言いたかったわけではない。ただ、貧しくて金がないなら稼ぐために労働という対価を支払えばいい、という彼女の決まり事を口にしただけである。
賊という法に触れる行為を行えば、いまだけは満たされる。だが、いつかは領主によって討伐される。賊など割に合わない。少し考えれば分かることだ。マリエルがそう思うことでさえ、彼にとっては傲慢なのだ。
賊となった彼らにとっていまを満たすことが大切なのだ。
だから、マリエルと彼らは相容れなかった。
「なぜです。どうして自分から袋の紐を閉じるのです」
彼女の問は彼らを苛立たせるだけだった。
「俺たちは分け与えてもらいたいわけじゃない。ただ欲しいんだ!」
彼は槍を目の前に立ちふさがっていた少女に突き立てた。穂先は彼女の柔らかい腹を簡単に貫いた。強者と戦ったときのような手応えもなくマリエルは崩れ落ちた。手にしていた革袋は地面に落ちて銀貨があたりに散らばった。
彼女の背後では、醸造所の職人や若い商人が驚きの声をあげ、次の瞬間には怒りの表情で手にした棒や蒸留の際に使う長い火かき棒を振り上げていた。賊と職人たちはただ策もなくぶつかりあった。彼らはもはや善悪もなかった。怒りだけがあるだけだった。
街のはずれで起こったこの騒ぎはすぐに街を領地とするウェイク子爵エドワードの知るところとなった。
「いそげ」
短く言ったエドワードは鎧を身にまとうこともなく騎乗すると、槍を握り締めた。旗下の兵は多くない。ウェイクの城館には五十人ほどの臣下が詰めているだけに過ぎない。彼に合わせて馬に乗った者は家宰を含めて十人に満たなかった。それでも彼は良しとした。
エドワードは漆黒の愛馬をひと蹴りすると、風のように加速した。城館から街の目抜き通りを一気に駆け下りる。石畳が馬の蹄鉄とぶつかって独特の高い音を立てる。醸造所のある街外れに向かうにしたがって石畳は姿を消して、土を踏み固めたみすぼらしい道に変わる。それに反して男たちが争う声や剣や棒がぶつかり合う激しい音が聞こえる。
エドワードは鐙に立って醸造所をうかがうがどちらが優勢なのかはわからなかった。
数打の槍を地面と水平に構えると彼は思いっきり馬を加速させた。そして、醸造所を囲んでいた賊の最後方のひとりを一気に突いた。どっとそのまま所内に駒を進めると男たちの視線が、すべてエドワードに注がれた。
賊たちは表情を曇らせ、職人たちは歓声をあげた。
「俺はウェイク子爵エドワード。すぐに武器を捨てれば命は助けよう。だが、そうでないときは……」
言葉を遮るように槍を振るってきた賊をエドワードは、草を刈るような容易さで沈めた。敵の首筋を刺した槍をくるりと引き抜くとエドワードはさらにその横の男を突いた。彼の動きに賊の一部は逃げ出し始めたが、エドワードたちが少数と見て突っ込んでくる賊も少なくなかった。
それをエドワードは躊躇なく地面に沈めた。
賊が抵抗らしい抵抗を終えたとき彼は、醸造所の入口で倒れている少女を見つけた。彼女の傍らには近侍の青年がいるが、彼は呆然とした表情で傷口を押さえていた。エドワードは馬から飛び降りると少女に駆け寄った。
顔を見てエドワードはそれがマリーと名乗っていたオルセオロ商会の少女だと気づいた。彼女の絹でできた長衣は血で赤黒く染まっていた。彼は近侍の青年を押しのけると、彼女が生きているのか手を取った。脈はある。彼は棒立ちになっている青年に叫んだ。
「何をしている! 布と湯を用意しろ。彼女を殺す気か」
青年は叩かれたような顔をしたがすぐに正気に戻ったように駆け出した。視線を下ろすとマリエルが蒼白な顔を色のまま目を開けていた。
「大丈夫だ。君は助かる!」
「……そう。職人たちは?」
かすれる声で彼女は職人たちの心配をした。エドワードはあたりを見渡した。職人と思われる男たちの中には頭から血を出している者もいる。それでも彼女以上の負傷者はいないように見えた。
「皆、無事だ。それよりも君だ」
「賊は?」
彼女は身を起こそうと身をよじったがエドワードはそれを制した。
「賊は片付けた。誰も君を襲わない」
マリエルはそうではない、という風に頭を振るうともう一度、起きようとした。エドワードが仕方なくたすけおこすと彼女は倒れている賊を見た。しばらくの沈黙のあと彼女は「死んだのね」と本当に小さな声でささやいた。
「見ただろ。もう敵はいない。だから、落ち着いて」
エドワードが声をかけると彼女はそのまま彼の腕の中に倒れた。
「……いま、死んだら血だらけマリーと言われそうね」
そう言って彼女は気を失った。
次にマリエルが目を覚ましたとき、ひどい喉の渇きと腹部の痛みで彼女は死んでいたほうが楽だったと思った。
「……最低の気持ちね」
天井を仰いだまま彼女は呟いた。その声に気づいたのか二つの気配が動いた。一つは慌ただしく彼女に近づくと「申し訳ございません。お嬢様。私がついていながら」とすがりつくように言った。それが近侍のエミール・ミーラのものだとマリエルにはすぐわかった。
刺されたのは別にエミールのせいではないことは彼女には分かっていた。それどころか彼の静止を振り切って賊を商談で退けられると思い込んでいた自分が悪いとさえ思っていたが、マリエルは「ほんとよ。死んでしまったらどうするのよ」と、つっけんどんに言った。
「彼のせいじゃないだろ。マリー、君はどうしてあんな無茶をしたんだ」
帰ってきたのはエミールの謝罪ではなく若い男性の怒りに満ちた声だった。視線を動かすと灰色の瞳を細めたエドワードがいた。
「お金があれば争わずに済むと思ったの」
それはエドワードにはすぐには理解できなかった。金銭というものは争いのもとにはなることがあってもおさめる材料にはならない。だが、目の前にいる少女は彼とは別の理屈を持っているのではないか、と気づいてエドワードは驚いた。
「マリー、君は馬鹿なのか?」
「そうかもしれないわ。だって私はあの人と商談さえできなかったのだから」
マリエルは唇を噛んだ。
彼女は悔しかった。どんなことでも自分と財力があれば解決できる。そういう自負があった。だけど、それは商人同士、貴族同士といった同じ枠の中でのことだった。その枠からはみ出したとき自分は相手にもしてもらえなかった。
それどころか自分は何も分かっていなかったと気づかされた。
「彼らに同情するのは構わない。だけど、マリー。彼らはそれさえも傲慢だと感じるはずだ」
「エドワード様は、彼らを殺したとき同情しましたか?」
目をふしたまま彼女は訊ねた。
「した。だけど、殺す。そうしなければ領民が傷つく。領主は領民を守るのが義務だ」
「賊が領民であってもですか?」
「そうだ」
エドワードが断言したとき、マリエルは顔をあげて彼を見た。彼の表情には曇りがなかった。
「エドワード様は、人でなしです」
「だから、貴族なんだ。もし、賊さえも救いたいなら……」
そこまで言ってエドワードは口を閉ざした。
「詮無きことを申しました。お忘れください」
マリエルはそう言うと精一杯のつくりわらいを彼に向けたあと目を閉じた。