第四話 最低の領主
「改めて、ご挨拶をします。ウェイク子爵を継ぎましたエドワード・ウェイクです。南からお越し成られたあなた方を歓迎します」
エドワードは人好きする笑顔で挨拶をすると、マリエル・オルセオロに手を差し出した。彼女はその手を握ると「こちらこそ、光栄です」と、商用の笑みを彼に向けた。マリエルが握ったエドワードの手は、ひどく荒れており貴人のものとは思えなかった。
「まさか、子爵が自ら陣頭に立たれているとは思わず失礼をいたしました」
マリエルはゆっくりと彼の手を離すと頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ。あのように立派な馬車に乗せてもらって嬉しかった。自分で言うのもなんですが、俺は貧乏なんです。いや、ウェイク家はというべきかな」
エドワードは苦笑いを浮かべると頬をかいた。確かに彼の身なりは農夫ならかなり良いものになるが、貴族としてはありえない格好であった。絹どころか羅紗でもない麻の衣服に、腰布は色染めされた紐を束ねた簡素なものだ。マリエルはこのような貴族にあったことはない。
「それは飢饉かなにかで?」
「いえ、ずっとそうなのです。ウェイク子爵家を創設したアーサーは、民を一番大切にせよ、と言い残されたので俺も父もそれに従ってきたのです。着飾って絹の服を着るくらいなら民の負担を減らす努力をする。権威を示すために華美な馬車に乗るくらいなら、水車の一台でも直すほうがよほどいい」
エドワードは誇らしそうに語った。
ウェイク子爵家では、農村での税は収穫の十分の一。麦を挽くための水車の使用料は、引いた麦の十五分の一。パンを焼くためのかまどは無税だという。他の貴族が知れば驚くに違いない。収穫の半分をとる貴族も少なくない。だが、それには外敵が来た際に貴族が守るという対価としての意味合いも込められている。
「しかし、それではご領地を守るのも大変ではないですか?」
「それが容易なのです。俺の領地はこの国でも最北端。訪れるだけでも難儀な場所だ。そのうえめぼしい産業はなく民も領主も貧しい。そうなると野盗にもうまみがない。奪おうにもものがないのだから」
エドワードはそう言うといかにも愉快だというように微笑んだ。
「生きてゆくのが精一杯な土地というわけですね」
「そう。君たち商人からも魅力がない土地と言えるだろう。なんせ、この土地は夏が短いかわりに冬だけはたっぷりとある。南のバーナード女男爵の領地はまだ雪がすくないから羊を育てることが出来るが、ここでは冬は雪に閉じ込められる。とてもではないが多くの羊を越冬させることはできない」
確かにこの地は厳しいのだろう。マリエルは、この彼と交易を始めるにしても小麦と引き換えるべき商品がないことを理解した。マリエルが商う商品の最大は小麦である。ウェルセック王国と海を挟んだ南側にあるベルジカ王国は平地が多く、気候も温暖だ。そのため、大陸にある国家でも小麦の生産は群を抜いている。
小麦は人が生活するかぎり必須とする商品である。とくに寒さや耕地面積が少ない地域では喉から手が出るほど欲しいものだ。これを販売するだけでも儲けは出る。だが、小麦を運んできた荷駄や船をからで戻すというのはあまりにもったいない。
なにか別のものを積んで帰りたい、と思うのは商人の常である。
「入口でお話をするのもなんですので、どうぞ奥へ」
ウェイク子爵の城館は、外から見たときも立派だとは思えなかったが、中はさらにみすぼらしかった。床に敷かれた絨毯は長いあいだ交換されていないらしく、すっかり平たくなっている。梁や壁には修復のあとが見られるが、どうにもやっつけで直したように見える。もしかすると専門の職人ではない人間が見まねで手を入れたのかもしれない。
椅子は木目がむき出しで、革や綿を入れた布で覆われてもいない。
「年季の入った城館ですね」
マリエルが言うと、エドワードは卑下する様子もなく「老朽化がひどいんだ。雨漏りは日常だし、雪の日は、重みで柱が折れるんじゃないか、と心配になるくらいだ」と、答えた。
煤で汚れた暖炉の横には木桶に山と積まれた乾燥させた泥炭が入っている。寒い時期はこれを燃料にするのだろう。いままで見てきた貴族の中で彼が一番貧しい、とマリエルは断言できる。
「年貢をあげたりということは考えないのですか?」
「子供のころはよく思ったよ。でも、民がいての領主だから」
本当に彼は善良なのだろう。マリエルはそれは人間としては美点だと思う。
「どうでしょう、子爵。私どもと交易をいたしませんか? 小麦や葡萄酒、香辛料なんでもご用意いたします」
「マーリンさん、それはいいお話だろう。だけど、この地では無理だ。領主でさえこの有様だ。領民はもっと貧しい。白いパンを食べたい。香辛料の効いた肉料理を食べたい。そう思う者もいるだろうが、先立つものがない。なにより、売れるものがここにはないんだ」
「そこにある泥炭などはどうでしょう?」
「泥炭を?」
エドワードは木桶を一瞥すると少し難しい顔をした。
「なにか問題がありますか? 掘られているところ見る限り、この地域にはかなり埋まっているように思えたのですが」
「いえ、言うより感じてもらったほうがいいと思ったんだ」
エドワードはそういうと大きな声で初老の家臣を呼びおせた。エドワードが命令すると彼は黙って頷くと部屋から消えていった。
「一体どういうことですか?」
「彼には泥炭でベーコンを焼くように伝えた。すぐに戻ってくる」
マリエルが首をかしげていると、粗末な木皿にこんがりと焼き色のついたベーコンをもった男が戻ってきた。皿が目の前に置かれると、ぷーんと何とも言えない匂いがした。にかわを煮詰めた匂いとも鉛の鉱石を火にかけた匂いでもない。
「どうぞ、召し上がれ」
エドワードにうながされて、マリエルは持っていた小刀で肉を一口大に切り分けた。それを口に入れると、ひどく鼻に抜ける匂いでむせそうになった。初老の家臣がすぐに水の入った杯を手渡してくれた。彼女はそれを勢いよく飲むと大きく息を吐いた。
「これは、ひどい」
「そう、泥炭は暖炉にくべるくらいなら我慢できる。だが、煮炊きに使えばこのありさまだ。匂いがひどくて食欲も失せてしまう。正直、薪のかわりに売るには向いてない」
「暖を取るのがいいところ、というわけですね」
マリエルが覇気のない声を出すとエドワードは心底から申し訳なさそうな顔をした。
「そういうことだ。だが、これのおかげで冬を越せているのでそこまで悪くは言えないけどね。薪や木炭が手に入る地域では、人気は出ないだろうさ。すまない、君には無駄足だったかもしれない」
「いいえ、そんなことはありません。新しい商材というものはなかなか見つかるものではありません。ですが、こうやって知ったことがどこかで役に立つということは必ずあるものです」
マリエルはとっておきの笑顔を作ってみせると彼はひどく安心した顔をした。
「ありがとう。しかし、商人とは大変なものだ。販路を拡大するためにはこのような僻地まで出向かなければならない」
「それを苦にするようでは商人とは言えません。それにどこに隠れた商品があるかわかりませんので」
「わかった。このままここに逗留をするなら、屋敷に部屋を用意しよう」
ここまで街の様子を見てきたが、大きな宿があるようには思われなかった。マリエルは、頭の中でそろばんを弾くと、エドワードに丁寧にお礼を述べた。
「子爵。街の中を歩いてもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない。何もない街だが皆、気のいいものばかりだ」
エドワードの微笑みに微笑みで返礼をするとマリエルは従者であるエミールを連れて城館をあとにした。
城館は小高い丘の上にあり、そこからは石畳の道がゆっくりと市街へと伸びている。その道に沿うようにこじんまりとした家が並んでいる。どれも屋根が針のように尖っており、冬の雪がすぐに落ちるように考えられているらしかった。
「なにか気に入りませんか?」
「どうして、そんなこと聞くの? エミール」
石畳を歩きながらマリエルは振り返らずに言った。背後を歩くエミールは少しのあいだ沈黙をすると口を開いた。
「……面白くない、という顔をされていました」
表情を偽るのには自信があるつもりだったが、従者に見破られていたことにマリエルは驚いた。
「ええ、面白くないわ。ここには何もないのだもの。小麦や葡萄酒を持ってきても空荷で帰らざるを得ない。こんな面白くないことはない」
彼女が不満を漏らす。
「そうですか。仕方ありません」
短く答えたエミールにマリエルは肩を落とした。だが、大事なところで気が利かないのはいつもどおりの彼であると、思い直してマリエルは小さなため息を吐いた。
「面白くないのは商売のことじゃないわ。あの子爵よ」
「子爵がですか? 民に優しい好人物に見えましたが」
エミールが首をかしげる。
「税金は安いし、民とともに労働する親しさもある。確かにそう見えるわね」
「はい、まことに珍しい気質だと言えます」
「仕える相手を変えるなら構わないわよ。ただ、断言するわ。子爵家はいずれ破滅します」
マリエルはそう断言すると振り返った。後ろではエミールが驚いた顔をしていた。
「なぜですか?」
「領地経営が不健全すぎます。領民への慈悲は良いことですが、それは余裕がある者が行うことです。税を安くして収入が少ない子爵家に財産があるはずもない。確かにいまは平和です。でも、飢饉が起きれば? 戦が起これば? とてもではないけど子爵はその負担に耐えられない」
飢饉は蔵の中にどれだけ金があるかで耐えられるか決まる。足りないものは外から買うしかないのだ。
戦争ならなおさらだ。金が掛かる。千人の兵を養うだけでも月に百五十枚の金貨を必要とする。マリエルが聞く限りウェイク子爵家に入る税収では百人の兵士を揃えるだけでも困窮するに違いない。
「それでも民が彼を見張さぬでしょう」
「いいえ、民が最初に彼を捨てるわ。彼らはずっとこの安い税で慣れている。ほかの領地ではもっと高い税を課されているとは思っていない。だから、飢饉が起きれば彼らは言うでしょう。俺たちは税を払ってきた。俺たちを救ってくれ。炊き出しをしてくれ。寒さをしのげるようにしてくれ、とね。それを彼はみたせるかしら?」
税は貴族が私腹を肥やすためだけにあるものではない。民を飢餓から守るための必要な食料を買う代金や領地を守るために必要な武力を養う資金でもあるのだ。それらは平時には分からない。しかし、有事が起きれば、金の有無が生死を分ける。
短期的な領民の幸せのために、長期的な問題に意識がおよんでいない。
マリエルの目から見てエドワード個人は、快活な性質の持ち主で嫌う理由はない。だが領主としては最低なのである。
彼が悪政とは言わない。むしろ、民からは善政というべきものである。領主は民とともに泥にまみれ、荒野を開き、井戸を掘り、種を蒔いている。それでいて税は、収穫の十分の一のみ。他の領主が、水車やかまどにかけている税もほとんどない。
彼は領地についても正確に理解をしている。この地の貧しさ。小麦が採れない気候。家畜が越冬できないという事実。だが。理解しているそれだけの領主だ。その先がないのだ。
「それで、お嬢様は彼をお見捨てになるのですか?」
「そうね。このままの彼が経営をしていても誰も豊かにならない。むしろ、何か起きて子爵がいなくなる方が、長期的にはいいのかもね。なぜなら、民を守るための領主にその力がないから」
マリエルはもどかしかった。
「分かりました。明日にはここを離れるといたしましょう」
「エミール。私が誰か言ってみなさい」
彼は無表情のまま答えた。
「お嬢様は、ベルジカ王国のオルセオロ侯爵とウェルセック王アルフレッド様の妹であられるルフスリュス様の長女にしてオルセオロ侯爵公認オルセオロ商会全権交渉人。すべての商談を金と権力と美貌でまとめあげるマリエル・オルセオロ様です」
「違うわよ。エミール、今の私はオルセオロ侯爵公認オルセオロ商会全権交渉人マーリン・アシュリーなの。へっぽこ領主に新しい富と領民の長期的な幸せ与えたうえで、商会の新しい利益を稼ぎ出すくらい容易なことよ」
マリエルが誇らしげに胸を張る。それをエミールはただ黙って見ていた。