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第三話 春の風と出会い

 乾いた風がマリエル・オルセオロの頬をでる。


 北国であるウェルセックの春は、マリエルの育ったベルジカの春と違う。太陽はどこかひかえめで快晴であってもどこか肌寒い。そのせいか草木も遠慮がちな小さな花を咲かせている。ベルジカでは、春を迎えると目が覚めたようにアカシアが黄色い花をつける。水辺では黄水仙きずいせんが大きな顔で咲き誇る。おかげでマリエルにとって春とは明るい黄色という印象が強い。


 だが、このウェルセックでは紫色のあざみの花がまばらに見えるくらいだ。あとはゴツゴツとした岩肌に背の低い雑草が這いつくばるように広がっている。春容しゅんようとしてはいささか寂しいものだとマリエルは思った。


「お嬢様。この丘を越えればウェイク子爵領に入ります」


 御者台からの声は抑揚に乏しい。彼女の従者であるエミール・ミーラはいつもそうだ。彼が何かに驚嘆きょうたんしたり、悲鳴をあげる姿をマリエルは見たことがない。笑う姿はたまに見かけるが、それは帳簿と金庫の中身がぴったりとあっていたときだ。


「あなたのお嬢様はいまごろ王都ロンドに着く頃よ。ここにいるのはオルセオロ侯爵公認オルセオロ商会全権交渉人()()()()()()()()()()だったと思うのだけど」


 マリエルが楽しそうに言うと、エミールは「つまらぬ遊びを思いつかれたものです」と、いつもの調子で答えた。馬車の中にいる彼女には御者台にいる彼の顔は見えないが、だいたいの表情は予想できた。神経質な細い目をしているか、ただでさえ細い目をさらに細めているか、そのどちらかだ。


「いいじゃない。高貴な身分に憧れる乙女の夢を叶えたのよ。悪いことをしているわけではないわ。むしろ、良いことをしたといっていいのじゃないかしら?」

分不相応ぶんふそうおうな行いをすれば必ず悪いことが起きます」

「そうかしら? 何かをなすためには投資がいる。私たちもつい先日、バーバラ様に投資をしたところじゃない。あれだって金額的に言えばかなりのものだわ」


 彼女はバーバラ・バーナード女男爵の領内からとれる羊毛をすべて買取る契約を結んだ。それは、大商会であっても気後れしそうになる金額であった。だが、羊毛が染色され、織物と変われば、より大きな利益が彼女の手元に転がり込むこととなる。


「あれはきちんと相手のことを調べた結果、釣り合いの取れる商談でありました。ですが、お嬢様とあのマーリンという娘の契約は、最初から不渡ふわたりになることが目に見えています。損が決まった商売など正気の沙汰ではありません」

「あら、エミールはマリーを随分ずいぶんと安く見積みつもったのね」


 マリエルは勝ったように微笑んだ。


「正しい見積もりをしたのです。僭越せんえつながらお嬢様の見積もりは贔屓ひいきが過ぎます」

「誰かに贔屓されることも商品価値の一つだと思うわ。エミールは真面目すぎてだめね。商品に付加価値を与えて値を引き上げないと」

「物に正しい値を付けることが正しい商売です。お嬢様のいう方法は良くてはったり。悪くて詐欺さぎです」


 出来が同じ金細工であっても、名工のものと無名のものでは値は変わる。質は変わらないのにそれを作った人間によって評価が変わるのである。マリエルはそれを良しとする。だが、生真面目なエミールからすれば、品質が等しいなら値段という評価も同じにすべきである、と思うのである。


「それを言い出せば貴族や王族なんてものも同じよ。皆が価値があると思っているから偉そうにもできるし、それにともなう義務や責務が生まれる。人間としての能力があろうとなかろうとね」


 マリエルがそう答えたところで馬車は丘の頂上にたどり着いた。丘の向こうには、青々とした北海が見えた。海岸線までの僅かな土地には、背の低い草木が生い茂り、黒い泥地が飛び石のように点在している。街道はそれらを迂回するようにくねくねと曲がってその先に見えるウェイクの町へと続いている。


「ウェイクは貧しい地域と聞いておりましたが、確かにそのようですね」


 エミールは遠くに見える町とその周辺に広がる田畑から、そう結論した。この北辺の町には大きな産業はない。気候に恵まれないこの地では小麦の栽培は難しく、また冬の寒さと狭い草原は大規模な養羊にも向かない。海は荒々しく、底が見えないほど深い。これでは漁業も期待できそうにない。


「いいところじゃない。きっといい商売ができるわ」


 自信満々に胸を張るマリエルとは反対に、エミールにはこの地は旨味のない場所に感じられた。


「同じ風景でも、お嬢様の目には私と違うものが写っているようですね」

「そうかしら?」


 首をかしげるマリエルにエミールは、言いようのない不安を感じた。彼は幼少の頃からマリエルを見てきた。彼女の感性は常人のそれと異なることがある。それがうまくいくこともあるが、それによって不利益をこうむることも少なくない。


「エミール、あれは何をしているのかしら?」


 御者台に身を乗り出したマリエルが指さした方を見れば、数十人の大人や子供が沼地でなにやら作業をしている。大人たちは沼から泥を掘り出し、子供たちはそれを木枠きわくに塗りこんでいる。


「なんでしょう。開墾というわけでもないですね」


 それは二人にとって初めて見る光景であった。子供たちは木枠にたっぷりと泥がおさめられると、それを地面にひっくり返していく。そうすると地面には格子模様こうしもようをした泥の塊ができている。


「馬車をあちらへ向けてちょうだい」


 マリエルの指示に、エミールは手綱を引いて答えた。街道からそれた馬車が近づくと作業をしていた人々が驚いた顔を向けた。彼女の乗る馬車は控え目に言っても上等じょうとうなものであり、このような貧しい地域ではめったにみない代物しろものであった。


「これは何をしていらっしゃるの?」


 馬車が動きをとめると、マリエルは好奇心で目を輝かせて訊ねた。人々はこの得体の知れない少女にどう答えていいのかわからないようで、困惑した顔をひとりの青年に向けた。青年はこの集団の長なのか、他の大人たちよりも仕立ての良い服を着ていた。だが、そのそですそには真っ黒な泥がこびりついている。


「泥炭を採っているのです」

「でいたん?」

「燃える泥です。よくわからないのですが、この泥を掘り返して乾かすとよく燃えるのです」


 青年はそう言うと汗を袖で拭った。その拍子に額に泥が着いたのを見てマリエルは笑った。そして、持っていた手巾しゅきんで彼についた泥を拭った。青年はひどく驚いた顔をしたあと、照れくさそうに微笑んだ。


「薪でも木炭でもないこの泥が燃えるのですか。不思議ですね」


 マリエルはしゃがむと白い指で泥炭を触った。それは腐葉土をさらに腐らせたような独特の匂いと粘度があった。


「あなたは高貴な方と見えるのですが、どのような要件でしょうか?」


 青年は灰色の瞳でマリエルに訊ねた。


「申し遅れました。私は南のベルジカに本拠地を置くオルセオロ商会全権交渉人でマーリン・アシュリーと申します。この地へは新しい商談を求めて参りました。この地は昨年、爵位を継がれたウェイク子爵の領地と聞いております。新しい子爵様は私どものお話を聞いてくれるでしょうか?」


 マリエルは服の裾を両手で掴むと、ここが宮廷であるかのように頭を下げた。周囲の大人たちが息をついた。それほどに彼女の立ち居振る舞いは優雅に見えた。


「……それならば、子爵の城館まで案内しましょう」


 そういうと、青年は手にしていたくわを近くにいた男に手渡した。


「悪いが、俺はこの人たちを城館まで案内してくる。皆は作業を続けてくれ」


 人々は青年の言葉を聞くと「分かりました」と、答えると作業に戻っていた。青年は彼らの後ろ姿を見送るとマリエルの方をむいた。そして、ひどく申し訳なさそうな顔をした。


「申し訳ないのですが、俺は皆と徒歩かちで来たのでできれば馬車に乗せてもらえませんか?」

「構いませんよ。あなたがいなければ私たちは城館の場所さえ分からないのですから」


 マリエルが応じると青年は「やった」と、喜色を浮かべた。


「豪華な馬車だと思っていたのです。うちみたいな貧しい土地では子爵の馬車だってこれよりも粗末だ。噂に聞く大商会となれば、こんな王侯みたいな馬車に乗れるかと思うと羨ましい限りだ」

「いえいえ、商売ははったりも重要なのです。私のような小娘でも馬車に乗れる。自分たちも取引をすれば利益をあげることができるかも知れない、そう相手に思ってもらうところから商談は始まるのです」


 マリエルが馬車の扉を開けると青年は、感嘆の声をあげながら乗り込んだ。


「マーリンさんは商人として長いのですか? 私とそう変わらない年頃のように見えるのですが」

「そうですね。それは難しい質問です。私が商いを始めたのはここ三年です。ですが、それ以前から父たちが商売をしている姿を見てきたので、それを含めるともっと長いことになりますね」


 青年は感心したように目を大きくすると「羨ましいものです」と苦い顔をした。


「俺は少し前に親の跡を継いだのです。だけど、泥炭掘りでさえ皆に教わってはじめてできるくらいだ。ずっとこの土地に住んでた割には何も知らなかったと感じるばかりだ。マーリンさんは立派ですね」

「いえ、私もまだまだです。実はよく失敗するのです。つい先日も勝手に商談を決めてしまってそこにいるエミールに怒られたのです。見積もりが甘い、と」


 御者台を指さしたマリエルが舌を出して頭をかくと、青年は少し安心したような顔をした。


 馬車は街道を抜けて市街に入ったのか、石畳のうえを走る硬い振動がした。青年はすぐに御者台にいるエミールに道を説明した。彼の説明は的確だったらしくエミールは、黙って頷いた。滑るように街の中を進んだ馬車は、二、三回方向を変えるとゆっくりと止まった。


「どうやら、着いたみたいだ」


 青年はそう言って馬車からおりると、城館の扉に手をかけた。ウェイク子爵の城館はマリエルが考えていたよりも貧弱で簡素なものであった。外敵の侵入を阻む壁は大人の背程度しかなく、門も鉄で覆われておらず木目がむきだしになっている。二、三人いる警備の者もどこか気が抜けており、マリエルたちを見ても驚くだけで武器を向けるようなこともしない。


 それだけの領地が平和と言えるのかもしれないが、危機意識がないのではないか、とマリエルは思わずにいられなかった。


「これが、ウェイク子爵の城館……?」

「王都にある商館のほうがまだはるかに堅固ですね」


 いつのまにか後ろにいたエミールが呟く。それはマリエルにしても同意であったが、子爵がいまの言葉を聞けば気を悪くしたにちがいない。


「マーリンさん、こっちです」

「え、いいのですか?」


 ずけずけと城館に上がり込む青年に困惑した顔でマリエルが訊ねる。青年は少し悪戯な顔すると言った。


「ええ、構いません。ここは俺の城館ですから。改めて、ご挨拶をします。ウェイク子爵を継ぎましたエドワード・ウェイクです。南からお越し成られたあなた方を歓迎します」


 エドワードは満面の笑みで彼女たちを迎えた。

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