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第二話 身分交換には向かない夜

 すべてが終わったあとマリエル・オルセオロが案内されたのはバーナード女男爵バーバラの城館の中でももっとも豪華な客間であった。床に敷かれた毛織物の絨毯は足音さえ消してしまうほどに柔らかく、底冷えする初春の寒さを見事に遮断していた。


「素晴らしい絨毯ね」


 マリエルが口を開くと、部屋まで案内してきた侍女がやや怯えた様子で視線を向けた。


「恐縮です。王女殿下からそのようなお言葉を頂けて我が主もお慶びになると思います」


 侍女が顔をしたに下げたまま答える。濃い茶髪に隠されて彼女の瞳は見えない。だが、見えずとも彼女の表情はマリエルには判りきっていた。逆臣オルセオロ侯爵の娘。あるいはウェルセック王アルフレッドの妹ルフスリュスの娘。このことを知った人間はほぼ彼女を恐れる。ごくまれにバーバラのように恐れない者もいるが、ほとんどの人間は彼女のようにマリエルと目線さえ合わそうとしない。


「そう。なら良かったわ。あと私は王女殿下ではないわ」


 あえて不満げにマリエルが答えると侍女は一瞬、肩を震わせた。同時に彼女の大きな胸が揺れてそれもマリエルを不愉快にさせた。自らの胸元に目線を下げるとそこには貧相な丘陵があるだけである。母の胸を思い出してもこの点では、期待できそうにない。どうして、年頃は変わらない彼女と自分でこれほどにも差があるのか。彼女は小さく、だが深い溜息をついた。


「では、私は失礼いたします。なにかあればお呼び下さい」


 侍女は逃げ出すようにきびすを返すと部屋から出ようとしていた。


「お待ちなさい。少し、お話をしましょう」


 マリエルは消えようとする彼女の影を呼び戻すと、客間に据え付けられた椅子を指差した。侍女は「私などが恐れ多い」、と消え入りそうな声を出したがマリエルは無視した。ぎこちない動きで侍女が席につくのを確かめてから彼女も椅子に座った。


「あなたには興味があったの」


 マリエルが言うと侍女は居心地が悪そうに「めっそうもない。私なんて」、と大仰に首を横に振った。このとき、マリエルは初めて彼女の顔を見た。多少、眉はふといが整った顔に紫陽花あじさいのように青い眼を彼女は素直に美しいと思った。


「あなたもマリーと呼ばれているそうね」

「めっそうもないことです」

「私もマリーと呼ばれているの。あなたの名前を教えてちょうだい」

「めっそうもないことです!」


 この娘は「めっそうもないことです」、としか言えないのかとマリエルは怒るよりも呆れていた。とはいえ、このような反応はよくあることである。身分というものは否応なく人と人の間に境界をつくる。それ自体には良い悪いもない。だが、一方的に拒絶されるのは良い気分はしない。


「あなたのお名前は?」


 マリエルは少しだけ語調を強めて尋ねる。侍女はようやく自分が何を訊かれているのか気づいたらしく「マーリン・アシュリーです」と固い声で答えた。


「マーリンいえマリー、あなたのことは晩餐のときによくバーバラ様から聞かされたわ」

「主から……。それは一体どのような」


 怯えたような目でマーリンはマリエルを見た。彼女からはマリエルがひどく大きく威圧的に感じられた。実際には二人の体格はほぼ変わらない。張り出した胸の分だけマーリンのほうが大きいくらいである。


「あなたが実に忠義者で良い侍女であるか。そのくせ、針仕事だけはからっきしであること。そして、あなたが何度もバーバラ様が用意した縁談を断っていることとか」


 商談のあと晩餐があった。


 今宵の晩餐はバーバラの機嫌もあってか、マリエルから見ても豪華な晩餐であった。雑穀の粥ではなく、小麦の白く柔らかいパン。冬前に塩漬けにした豚肉ではなく、朝とれたばかりの鴨肉がたっぷりの香辛料で味付けされた焼き物。水で薄めることなく血のような濃さで出される葡萄酒。どれもが最高のものであることは見ただけでわかる内容であった。


 この晩餐の席、少し深酔ふかよいしたバーバラは、マーリンに対しての不満を口にした。


「マリーはよくつくしてくれている。だから、私も良い嫁ぎ先を紹介するのに彼女の口からでるのは常に、めっそうもない。断るばかりで理由を言わない。あのまま、年老いていかれては雇い主としての沽券にかかわるわ」


 貴族の侍女の多くは、その賃金から持参金を用意して嫁ぐものである。嫁ぎ先によっては雇い主が持参金に色をつけることも少なくない。当然、持参金が多ければ多いほど良縁に恵まれる。もうすぐ十八になるマーリンは、十五、六で結婚することが多いこの時代からみれば適齢期を超えつつあると言えた。


 バーバラとしては、マーリンのような気のつく侍女を手放すのは辛いが、いつまでも手元に残していては「バーナード家は持参金も与えない」、と言われない誹謗を受けかねない。


「では、私が彼女の胸の内を訊いてみましょうか?」


 マリエルは杯を持ったままぐったりとしているバーバラに言った。


「あら、あなたのような高貴な方にお願いしていいのかしら」

「同じマリーのよしみです。私がバーバラ様の悩みの種を取り除いて差し上げましょう」


 片手で胸元を押さえるとマリエルは気取った口調で言った。バーバラは「あなたには何もかも助けてもらってばかりね」、と微笑むと杯を煽った。


「それは……、主には申し訳ないと思っているのです。ですが」


 マーリンは消え入りそうな声で答えると伏し目がちに「私は主のようになりたいのです」そう言って彼女は顔を真っ赤にした。この意外な回答にマリエルは絶句した。


 バーナード女男爵バーバラは、ウェルセック王国の正式な男爵である。


 しかし、彼女は生まれ持っての貴族ではない。生まれは小さな商家で裕福な家ではなかった。それが、行儀見習いを兼ねてユーグ子爵の侍女となった。子爵は彼女の機転の良さを好み、読み書きや詩作、音楽などを教えた。このまま数年もすれば彼女は、いくばくかの持参金をもってかなり良い家に嫁ぐことが可能であった。しかし、彼女の父が商売に失敗し大きな負債を負ったことで運命は大きく変わる。


 負債は彼女の貯めてきた持参金だけでは到底補えず、ユーグ子爵がかなりの部分を肩代わりしたほどであった。この借金は子爵のもとで数十年働き続けても返せるものではなく、バーバラと子爵は数度に渡って話し合った。


 それは、バーバラが高級娼婦となるか否か、というものであった。高級娼婦は、一般的な娼婦とことなり一般人は相手にしない。貴族あるいは裕福な商人などの婚外婦として付き合い。多額の援助を受ける者の事を言う。娼婦と大きく異なることは、容貌が恵まれているだけではなく教養が重要となったことである。そして、幸いなことか不幸なことか彼女はそのいずれも持ち合わせていた。


 ユーグ子爵は、「私はこんなことをさせるためにお前に読み書きを教えたわけではない」、と繰り返したが、彼女が家族を養う道は他になく最後は認めざるを得なかった。こうして、ユーグ子爵の後ろ盾で客を取り出した。数年後、彼女は子爵への借金を返し終わった。


 それは彼女が、多くの人びとが知る高級娼婦となった、ということであもあった。彼女には多くの後援者ができていたが、その中でももっとも熱を上げたのがのちに彼女の伴侶となるバーナード男爵ユリアンであった。ユリアンは鉄の心臓を持っていたらしく、周囲の反対を物ともせずバーバラに繰り返し結婚を迫り、最後は根負けしたバーバラが結婚を受けたのであった。


 二人の結婚生活は十年に及んだが、ユリアンが流行病で亡くなったことで唐突に終わりを迎える。ユリアンとバーバラの間には五歳になる男の子がいたが、幼少ということもあり爵位と財産の相続はまだ行われていない。いまは、ユーグ子爵が後見人となり、バーバラが男爵を預かっている。そのため、人々はバーバラをバーナード男爵夫人ではなくバーナード女男爵と呼んでいる。


 このバーバラの立身は、貧しい平民女性にとっては夢物語が現実にあるという一例を示した。だが、彼女のような幸運は綺羅星のようなものであり、高級娼婦の最後は良くないものが多い。


「えっ……、あなた高級娼婦になりたいの?」


 少し顔を赤らめたマリエルは声をひそめてきいた。


「あ、いえ、そうではないのです」


 マーリンはマリエルが察したことを理解したらしく耳まで真っ赤にして大きく手を振った。そして、恥ずかしそうに「ただ、貴族に憧れているのです。主は私の事を思って富商や豪農を紹介してくれるのですが、私は貧しくても貴族に連なる方の家に嫁ぎたいのです」、と言った。


「それは……やめたほうがいいわ」


 マリエルはマーリンの夢を壊す忍なさを感じた。だが、貴族といっても様々である。一つは、爵位を持つ貴族である。彼らは人々が思い描く典型的な貴族である。城館や城で暮らし、多くの領地や家臣を抱えている。二つは、貴族の血脈に連なる者である。彼らは数こそ多いが爵位を継げる幸運に恵まれるものは少ない。多くは爵位もちの貴族の庶子や分家で、本家からろくを与えられるかわりに戦争となれば駆り出されることが多い。自立して宮仕えや別の貴族や王族のもとで騎士となるものもいる。だが、これらの職は見た目ほど華やかではなく実入りも多くない。


 マリエルはこれまで多くのそういう男性を見てきた。


 ひとえに言えることは、爵位持ち貴族は相手にも相応の格を求めるということと、爵位を持たない貴族は常に金を求めている、という事実である。それゆえにバーバラの存在はおとぎ話のような立身と言える。


 もし、マーリンが貴族と結婚できるとしても、それは後者であり、間違っても爵位持ちの貴族のもとに嫁げる可能性はない。少女の淡い夢を否定するのはマリエルにとってはたやすいことだ。だが、それは同じマリーの愛称を持つ身としてはしたくない。少し考え込んでマリエルはマーリンに一つの提案をした。


「マリー。身分を交換しましょう。あなたは私のフリをして貴族社会というものが、思い描くようなものか一度ためしてみるの。そのあいだ私は、あなたとして過ごしているから」


 幸いなことにウェルセック王国は、マリエルの生まれたベルジカ王国の隣国とはいえ海を挟んでおり、彼女の顔を知っている相手はわずかである。数ヶ月程度なら特に問題も起きないに違いない。彼女はそう考えた。


 マーリンは、マリエルがした提案があまりに突拍子もないこともあり、しばらくのあいだ口を開けたままポカンとしていた。それでもゆっくりと言葉の意味が分かったらしく、目に輝きを灯して正面をむいた。


「めっそうもないことです、とは言わないみたいね。よかったわ」

「本当によろしいのですか? 私のようなものがマリエル様のフリをするなど」

「同じマリーのよしみ、構わないわ。ただ、一つだけ約束をしてちょうだい」


 マリエルは人差し指を垂直に立てて微笑む。マーリンはそれをおっかなびっくりという表情でみた。


「どんなことがあっても私の品位を守りなさい」

「……品位ですか。もし、私がマリエル様の品位を損なうようなことがあればどうなりますか?」


 そうね、とマリエルは明るい声をだすと立てた指をゆっくりと動かす。そして、マーリンの豊かな胸元に指を向けた。


「昔、借金のカタに相手の肉を求めた戯曲を観たことがあるの。だから、私は身分のカタにあなたの心臓をもらうわ。品位のない貴族は死んでいるのと同じなのですから」


 マーリンは「品位のない貴族は死んでいるのと同じ……」とマリエルの言葉を小さく復唱した。そして、意を決したように頷くとマリエルに言った。


「マリエル様。お話、お受けいたします。私に貴族の有り様を学ばせてください。この心臓に誓ってマリエル様の品位を守ることをお誓い致します」

「マリー。ならば、私のこともマリーと呼びさない。なぜならあなたは私。私はあなたなのですから」

「はい、マリー。もうひとりの私。いえ、高貴な私」


 それは子供じみた遊びだった。だが、このときからマリーの手は血に汚れることになる。

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