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第一話 私が誰か言ってごらんなさい

 アドルフ・バイロンは怒っていた。


 本来ならば声を荒らげて怒鳴り散らしているところであったが、それを堪えられたのは目の前に座る女性が貴族であることと自分がロッヂデールの織物組合を背負う組合長であったからである。


「バーバラ様。もう一度だけ仰っていただけますか?」


 耳が赤くなるほどの怒りを表に出さぬように彼はゆっくりと言葉を吐いた。


「ええ、何度でも申しましょう。組合には羊毛をいっさい売らない」


 目の前の女性――バーナード女男爵バーバラは退屈そうに肘掛に右手をついくと抑揚のない声で言った。彼女の三日月を描くような瞳は、彼を冷たくてらす。アドルフにはそれが気に食わない。例年通りであれば、彼女は少しでも羊毛の値を釣り上げようと、必死に猫のような甘ったるい声を出していた。だが今年は様子が違う。


 交渉が始まる前から拒絶をあらわにしたのである。


「正気ですか? 羊毛の取引がなければ貴女の領民はまともに冬を越すことなどできませんよ。羊毛は寒さを和らげてくれるでしょう。だが、空腹まで和らげることはない」

「そうね、組合長。バーナード領は冬は雪に閉じられ地味も悪い。養羊以外ほとんど産業がない、と言っていいでしょう。領民は嫌でも羊に関わる仕事をしている。そこで私が羊毛の取引と中止すれば、領民はことごとく飢えるでしょうね」


 バーバラはアドルフを睨みつける。だが、彼には彼女の思惑が手に取るように分かった。要は金が欲しいのである。こちらを脅すことで少しでも高く売りつけようという浅ましい魂胆が彼女にはある。アドルフは彼女の底の浅い考えを笑いたくなった。


 羊毛はそのままでは価値はない。洗浄し、染色して初めて価値が生まれるのである。だが、羊毛の洗浄や染色には大量の水と湯を沸かすための薪、そして専門の技能を持った職人が必要である。それらがこのバーナード領にはない。つまり、彼女は羊毛を嫌でも売らざるを得ない。


「そこまで分かっておいでなら……」


 お売りなさい、という言葉がアドルフの喉まででかかった。しかし、バーバラはそれよりも早く言った。

「ですが、あなたはそれをいいことに羊毛を買い叩き続ける。銅貨十枚であなたが買った羊毛が製品となる頃には百倍にちかい銀貨一枚に変わる。私の領民はずっと粗末な銅貨を糧にしなければならない。あなたはどうです。羊よりも肥え太り、まるで豚のようではありませんか」


 アドルフはとっさに膨れ上がった腹を押さえた。だが、彼に溜め込まれた分厚い肉は張り詰めたままであった。体型をこけにされたアドルフは吹き出しそうな怒りを皮肉にかえた。


「きついご冗談を。ですが、売らずにどうするのです。娼婦なら売る季節を選ぶこともありませんが、羊毛は春に売らなければ価格をおとしますよ」


 少し表情を固くしただけでバーバラは、怒気を見せることはしなかった。かわりに彼女の口から出た言葉はアドルフを困惑させるのに十分であった。


「ご心配いただいてありがたいのですが、バーナード領から出る羊毛はすべて買い手が付いております」


 口を開けたまま目を白黒させるアドルフを尻目に彼女はさらに続ける。


「花のえさかりは一瞬です。商売の世界では刹那のようなのでしょうね。さて、これでお話することはもうありません。おかえり頂けるかしらアドルフ組合長」


 優雅な動きで彼女が戸口を指差すと部屋の片隅に控えていた侍女が扉を開けた。アドルフは視線だけ一度戸口を見たあと、すぐにバーバラを睨みつけた。


「羊毛を買ったのは、一体どこのどいつだ! 組合から圧力をかけてやる。そいつがどこへ羊毛を持ち込もうと洗浄すらしてやるものか!」


 ロッヂデール織物組合は彼らが住むウェルセック王国最大の織物組合である。織物工房はあまたあれど組合に所属しない工房はほとんどない。ましてやバーナード領から出荷されるすべての羊毛となれば一つの二つの工房で処理できるものではない。


「まー、大きい声ですこと。でも、もう契約は結んでしまいましたの」


 耳を押さえたバーバラは呆れたようにアドルフを見た。


「いまからでも遅くない。そいつは破棄して、羊毛はいままでどおり組合に売っていただこう!」


 彼は肩を怒らせて彼女に近づくと、威嚇するように怖い顔をした。


「私から売って差し上げましょうか?」


 戸口から場違いに明るい少女の声がした。声の主はゆっくりとふたりの前に立つと、長衣の裾をあげて優雅に頭を下げた。腰ほどに切り揃えられた明るい金髪がふわりと流れる。開かれた瞳は淡い青色を爛々と輝かせている。人形のよう小さい唇は淡く赤い。


 その姿をバーバラは愉快なものを見るように喜び、アドルフはいぶかしげにこの可愛らしい乱入者をみた。


「羊毛は私が買い占めました。もし、組合が羊毛を欲されるのであれば売って差し上げます。これでいかがです?」


 少女は得意げに言うと、鮮やかに微笑んだ。


「馬鹿を言うな! お前のような小娘に払えるような額ではない。バーバラ様と一緒になって俺を担ごうという腹だろうがそうはいくか」


 怒りまかせにアドルフは握り締めた拳を少女に向けた。振るわれた拳は少女のか弱い身体を打つはずだった。だが、拳は少女に触れることもなかった。


「お嬢様に拳を振るうのはおよしください」


 アドルフの拳は少女を追うようにやってきた青年によって止められていた。青年は何を考えているかわからないほど無表情であったが、アドルフの腕を握る力には容赦がなかった。万力まんりきで絞めるような力をくわえられアドルフはあまりの痛さに呻きをあげる。


「エミール。やめなさい。お話ができなくなるでしょ」

「申し訳ありません。お嬢様」


 エミールと呼ばれた青年――エミール・ミーラは、少女の声を聞くと掴んでいた腕をぱっと離した。アドルフは慌てて腕を押さえたが、握られた箇所は真っ赤になっていた。


「なんなんだ、お前は!」

「私? そうね、エミール。私が誰か言ってごらんなさい」


 少女は彼を指差すと楽しそうに笑った。


「……お嬢様は、オルセオロ商会の全権交渉人です」


 少し考えたあとエミールは無表情のまま答えた。彼の様子を見ていた少女は呆れたような、疲れたような表情をすると「だめね。エミールじゃ」と呟やいて頭を左右に振る。そして、戸口に向かってもう一度、同じ問いを発した。


「私が誰か言ってごらんなさい!」


「はい、お嬢様はベルジカ王国のオルセオロ侯爵とウェルセック王アルフレッド様の妹であられるルフスリュス様の長女にしてオルセオロ侯爵公認オルセオロ商会全権交渉人。すべての商談を金と権力と美貌でまとめあげるマリエル・オルセオロ様でございます」


 戸にもたれかかるように長髪の青年が立っていた。彼は一切よどみなく口上をのべると髪をかきあげて微笑んだ。白い歯が光る。エミールと違いこちらは表情豊かな青年であった。


「どこかの誰かさんと違い完璧だわ、ハロルド」

「お褒めに頂き、このハロルド・マルコーン恐縮の極みでございます」


 青年は舞台役者のような大仰な身振りでひざまずいてみせる。それを見たマリエルははしゃぐように手を叩いた。その表情は年頃の少女そのものであった。一方、アドルフの表情は強張っていた。彼の脳裏では王妹、オルセオロ侯爵、といった言葉が反芻されていた。


「と、いうことなのよ、組合長。私としては例年通りにあなたに買っていただきたかったのだけどここまで高貴な方との契約となれば断れないの。だって彼女は本物なのですから」


 バーバラは、今まで見せたこともない笑顔を彼に向けるとささやいた。


 アドルフは口を半開きにすると夢遊病者のようにふらふらと部屋から消えていった。彼が退場すると部屋の中は笑い声にあふれた。誰よりも声が大きかったのはバーバラであった。


「痛快だわ! こんなに楽しいのは久しぶり。本当に貴女は最高よ」


 マリエルを捕まえると彼女は何度もその頬に口づけをした。


「バーバラ様に喜んでいただけたならこちらも出てきた甲斐があったというものです」


 すました顔でマリエルはバーバラに微笑む。

 彼女の所属するオルセオロ商会は、ウェルセック王国から南方に海を渡ったベルジカ王国に本拠地を置く大商会である。小麦と羊毛の交易が富を生むと考えた五代オルセオロ侯爵アウレリウスが公認し開いた商会は多くの権益と船を持つことで有名である。だが、それと同じく有名なことがある。それは『逆臣ルキウス・オルセオロ侯爵』の商会という悪名である。


 いまから二十年前、マリエルの父であるオルセオロ侯爵ルキウスは自らの主であるベルジカ王ルードウィヒを殺した。そして、自らに都合がいい者を王に据え付けた。人々は畏敬と嫌悪を込めて逆臣と彼を呼ぶのである。結果として、商会の印象は良くない。だが、悪名はそれで別の効果もあった。


「オルセオロ商会は商敵に容赦しない」

「ちょっかいを出した商会が、潰されたらしい」

「奴らは必ず報復を行う。商会の船を襲った海賊が家族もろとも皆殺しにされたらしい」


 悪評から生まれたこのような流言は、対立する商会や海賊から商会を守るのに一役を買っている。アドルフが慌てたのもこのような噂話を聞いていたためである。


「でも、本当に大丈夫なの? この領地からあがる羊毛をすべてを加工できるのはロッヂデール織物組合くらいのものよ。他にダイロ織物組合やトライフ織物組合もあるけど圧倒的に規模が小さいわよ」


 自身の艶のある赤毛をいじりながらバーバラが尋ねる。その姿はもうすぐ四十に手が届くとは思えぬほど色気があった。


「買った羊毛はウェルセック国内で加工はしません」

「加工はしない?」


 バーバラが聞き返すと、マリエルは怪しげに微笑むと「毛織物と羊毛では関税が驚く程に違うのです」と楽しそうに言った。


「先ほどバーバラ様が仰ったとおり羊毛は加工する、しないで大きく値を変えます。例えば、ウェルセックを出る前の羊毛ひと束が銅貨十といたしましょう。これをベルジカ王国に持ち込むと、港では徴税官によって商品の一割の税をかけられます。すると羊毛の値段はどうなりますか?」


「一割だから銅貨一枚が税として上乗せされるので銅貨十一枚だわ」

「では、羊毛ひと束で作られる織物が銀貨一枚ならどうでしょう」


 マリエルは人差し指を立ててみせる。


「銀貨一枚は銅貨千枚ですから同じ一割で銅貨百枚。……ということは銅貨九十九枚もお得になるのね」


 心底驚いたという様子でバーバラが目を見開く。それを見たマリエルは得意げに胸を張ってみせた。


「そうです。ですがバーバラ様、これは浅ましいほど欲の深い商人の浅知恵とお笑いください。とても侯女と呼ばれる人間が考えるには、さもしいことですから」


 悪戯げにマリエルは片目を閉じた。それを彼女の二人の従者は、一人は苦りきった顔で、もう一人は笑って見ていた。バーバラはこの高貴な商人を守銭奴とは思わなかった。だが、彼女の伴侶となる人間はさぞ度量と心臓が強くなければ務まらぬだろうと、まだ見ぬ誰かに同情を覚えたのだった。

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