第十二話 静かな朝から幕はあがる
市街を白と灰色に染めていた雪がなくなった朝だった。
王都ロンドは静かな朝を迎えていた。王都を東西に流れるテリシア川沿いの市場では、漁師や卸の商人が白い息を吐いて慌ただしく働いているが、まだ多くの人々は床にあり喧騒とは程遠い晩冬の光景が広がっているだけであった。だが、この静けさのなかで一人の男が死んでいた。
彼の名前はアルフレッド・ウェルセック。このウェルセック王国を二十年以上統治した王であった。彼の前半生は、自らの叔父との争いに費やされた。ウェルセック王国継承戦争と呼ばれた内乱で彼は叔父にくみした王族を誅殺した。
一方で彼は臣下には寛大であった。叔父方であった貴族のほとんどを許しただけではなく、叔父側についたマナーズ公爵ヒューゴの娘を自らの妃に選び融和をはかった。貴族の中にはそれを一時のことと疑う者もいたが、彼は死ぬまで融和方針を変えなかった。
だが、彼は王になってから臣下に領地の加増を一切認めなかった。
継承戦争からアルフレッド側に立ち続けたハワード候爵デールは、階位を公爵に引き上げられたが実質的な領地は与えれなかった。そのため王派であった貴族と叔父派であった貴族の対立は表立っては見えなかったが残されたままになった。
それでも大きな争いが生じなかったのはアルフレッドが両派閥の均衡をとって上手く政治的に利用してきたからだった。二十年の平和はウェルセック王国全体の生産性や国力を大きく引き上げた。特に北方では羊毛の生産が、南方では鉄の生産が飛躍的に伸びた。
国民にとってアルフレッド王の治世は幸福なものだった。また、王宮の人々にとっても優れた彼の存在は必要不可欠なものであった。だが、その彼が死んだ。
アルフレッドの死に最初に気づいたのは初老の侍従であった。彼は王太子時代からアルフレッドに仕え継承戦争を共に駆けた戦友でもあった。彼は寝台から起き上がらぬアルフレッドに二度声をかけてから体を揺すった。そして、彼から体温が消え失せていることに気づいて黙って泣いた。
老侍従の悲しみは静かでわずかな時間であった。彼は臣下である以上に一人の戦友として王の死を悼んだ。涙を拭った老侍従はすべての感情を押し込んで、王太子アラン・ウェルセックのもとに向かった。アランは近侍とともに朝食を食べていたが、老侍従の言葉を聞くと手にしていた食器を取り落として驚いた。
「まさか……。いや、そなたが言うのだから間違いはあるまい」
アランは半ば呆然としたまま言葉を発すると、父親の寝室へと向かった。その途中で気がついたように近侍の一人に「異母弟を呼んで来てくれ」と短く伝えた。アランは父の寝室に入ると自然と背筋が伸びた。彼にとって父親は常に威厳をもったおかしがたい存在だった。アランはゆっくりと寝台に近づいてアルフレッドの顔から血の気が失われ、命という目に見えぬ何かが身体から消え去っていることを確認した。
涙は出なかった。だが、彼は恐ろしかった。
いままではアルフレッドが臣下を常に見張りおさめていた。それをいまから自分がせねばならぬ、と思うと彼は膝から崩れ落ちそうな頼り無さを感じざるを得ない。春が来ればアランが王になる。それは既定であり準備もしてきた。だが、そこにはまだ父が存命であるという前提があった。
「兄上、父上は!?」
ひどく慌てた様子で寝室に駆け込んできた弟あるヘンリー・ウェルセックを見てアランは少し安堵した。
「ヘンリー。父上が崩御された。すぐに知らせを送り、諸侯を参集させよ」
ヘンリーは異母兄の硬った声に驚きながらも頷くと静かに寝室をあとにした。ヘンリーにとって父親ははるかに遠い存在であった。アランと違い、寵姫の子として生まれたヘンリーは同じ父を持つにしても扱いが軽かった。父親と会話するのも幼い頃は儀礼として多く、成長してからは文官として政務についてのものがほとんどであった。だから、親子としての感情はわずかしかないはずだった。
なのに寝室をあとにした彼の目からは大粒の涙が流れていた。
それはヘンリー自身が驚くほどであった。彼は文官たちが控えている政務室に向かう前に自らの執務室に戻った。そこで涙を拭う。鏡には目を真っ赤にはらした自分が映っていた。
「父上……」
後ろに続く言葉が思いつかなかった。ヘンリーは何かが喉につかえたような気持ちを押し殺した。静寂は今だけで、アランが諸侯の前で王冠をいただくまで王宮は蜂の巣をつついたような喧騒に支配される。彼は文官たちを率いてアランのために式典や業務を一手に処理せねばならない。それを思うと胃が痛くなる。
それでもヘンリーはもう一度涙を拭うと執務室をあとにした。
アランはヘンリーの命令してからも寝室にいた。
彼は思う。この国に必要なのは強い王である、と。それは亡くなったアルフレッドがそうであったということもがるが、貴族の中にはかつての継承戦争の名残をまだ引きずっているものも少なくない。そのなかにはヘンリーを押したてて権勢を手に入れようとする者もいるかもしれない。だが、アラン自身が有無を言わさぬ威光を示せばそのような輩も押し黙るに違いない。
幸いなことにヘンリーは、王位に執着などなく文官として過ごしたいと考えている。アランはこの異母弟に反逆者となって欲しくはない。そのためにもヘンリーを焚きつけようとする者が現れるより早く彼を臣籍降下させるべきだと考えていた。
父は何も言ってはくれない。
だが、生前からヘンリーが王領である。東のコペント、西のスウィッチ、南のノッチ・バラ、北のダラムのいずれかを所領とすることで公爵とする案は了承されていた。これを推し進めるのが王として最初の仕事になるに違いない。
アランは、父の亡骸に頭を下げると寝室をあとにした。
老侍従がアランに声をかける。
「老骨は殿下が登極されるのを見て王宮を去りたいと存じます」
この男が常にアルフレッドとともにあったことをアランは知っている。彼はアルフレッドの影だった。
「去ってどうする?」
「故郷のあるヘッドフォードに帰ろうと思います」
ヘッドフォードは王都ロンドから北西に徒歩で二日ほどの位置にある街道の町である。北と西からの街道が交わる要衝で知られている。
「俺には仕えてくれぬのか?」
「殿下、陛下と共に戦場を駆け、政争の坩堝を覗いた私も歳には勝てません。ここが引き際なのです。それに私のように口うるさい老人がいては殿下の近侍が難儀しましょう」
老侍従は目線だけでアランの近侍を差すと苦笑した。彼の瞳の動きだけで近侍たちは身を正し、後ろに下がった。
「わかった。これまで父によく尽くしてくれた。礼を言う」
アランが頭を下げると老侍従はにこりともせず「非才がどれほどのことができたか。今となってはわかりません」と謙遜を口にした。
「いくばくかの金銭を下賜する旨をヘンリーに伝えておく」
「ヘンリー様……」
老侍従はヘンリーの名前を聞くと少しだけ表情をかたくした。
「殿下。どうかヘンリー様と仲違いなどされませぬようにお願い申し上げます。陛下は親族との争いで地獄を見ました。それを殿下にもヘンリー様にも見て欲しくはありません」
「無用な心配だ。ヘンリーには王位を求める大望がない。それに俺は異母弟を信用している」
「身のほどを超えたことを申しました」
老侍従はそのまま頭を下げると部屋をあとにした。
彼の後姿を見てアランはアルフレッドとその影が消えたのだと改めて気づいた。