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第十一話 春の前に

 ウェルセック王国の南方にある王都ロンドでは雪が消えはじめても王国の北端にあるウェイク子爵領はいまだに冬の中にあった。大人たちは雪かきに追われ、子供たちはそれを手伝いながら遊んでいる。その声を遠くに聞きながらマリエル・オルセオロは寝台で上半身だけおこして書類に目を通していた。


 彼女がひらいた醸造所はぞく襲撃しゅげきこそあったが、順調に製造を続けていた。夏場から秋にかけて周辺から買付けた薪や大麦は十分な量がある。この冬場に仕込んで春先からまた南方へ売り出すのだ。マリエルの算段では経費を除いて金貨五千枚の利益が出るに違いない。


 彼女が口元を緩めていると寝室の扉が軽い調子で叩かれた。


「どうぞ。昼食ならスープだけでいいわ。黒パンは硬すぎてあごが疲れるのよ」

「食事はきちんと取るべきだ。固いパンもスープにひたしておけば柔らかくなるだろう」


 近侍のエミール・ミーラだと思い込んでいた彼女は、扉から現れた男性を見て驚いた。灰色の瞳をした彼はみすぼらしいとは言わないが貴族としては粗末な衣服に身を包んでいるが、このウェイク領を統治するエドワード・ウェイク子爵であった。彼は少し前に起こった襲撃事件からときおりふらりとマリエルのもとに訪れるようになった。


「これはエドワード様。お見苦しいところへようこそ」


 マリエルが寝台からおりようとするとエドワードはそれを手で制した。


「構わないよ。けが人にもてなされては困る」

「なら、お越しにならなければ良いのです。こちらも寝巻きで殿方、それも子爵様とお会いするというのは、いささか恥ずかしいですから」


 掛け布団を顔の中ほどまで持ち上げてマリエルがわざとらしいじらいを見せると、エドワードはひどく狼狽ろうばいした。マリエルは思う。エドワードはひどく素直だ。


「そ、それは悪いことをした。出直すとしよう」


 慌てて踵を返そうとするエドワードの姿にマリエルは微笑むとその背中に声をかけた。


「冗談です。すでに衣服のなかまで覗かれたエドワード様にいまさらなにを見られても困りません」

「傷の手当てをしただけで、下心ややましいことはしていない!」


 背中が一瞬大きく揺れたあとエドワードは、ひどく赤い顔で振り返るとマリエルを見た。彼女はさきほどの恥じらいなど忘れたように涼しい顔で微笑んでいた。マリエルは部屋の片隅に置かれた椅子を指差して「どうぞ、お座りください」と言った。


 エドワードは苦虫をつぶしたように顔をしかめると椅子を寝台の横に運ぶと勢いよく座った。


「その様子だと随分と調子が良さそうだね」

「はい、おかげさまで。傷も随分と小さくなりました。ご覧になりますか?」


 マリエルが寝巻きに指をかけるとエドワードは叫ぶように「見ない!」と大声を出した。彼と会話をするようになってマリエルにはわかったことがある。この若い領主はまれに見る善人であるということである。領民に対する税の安さや自ら泥炭を掘り起こす、といった彼の行動はすべて民のため、という優しさから出ていてそこに「よく見られたい」とか「統治のため」という打算がないのである。


 賊に醸造所が襲われた際も彼は配下の兵士よりも早く駆けつけた。ただ領民を救う。それだけが彼の行動原理だった。少なくともこれまでの彼を見ている限り私利私欲によってなにかしたということがない。マリエルにとってそれが不思議で仕方がない。どうしてそこまで領民のために行動できるのか理解できない。


「それは残念です。柔肌をお見せすることでお礼にするつもりだったのですが」

「お礼? 俺は君になにか礼を言われることをしただろうか?」

「賊から助けていただきました」


 マリエルが言うとエドワードは少しだけ暗い表情を見せた。


「いや、俺は君を助けていない。君は傷をった。本当なら君や醸造所が襲われる前に助けれなければならないんだ」


 このときマリエルにはようやく彼が頻繁ひんぱんに彼女のもとを訪れるのかが分かった。同時に彼女はひどく彼が傲慢ごうまんだと感じた。


「子爵様は神にもなったおつもりですか?」


 きつい調子でマリエルが言うと浮かない表情をしていたエドワードが顔を上げる。


「……そんなことはない。だが、領主は民を守るものだ。でも君は傷ついた。醸造所の人々にもけが人が出た。それは俺がいたらないからだ」

「それが傲慢だというのです。賊がいつ来るか、誰が襲われるか、お偉い子爵様にはお分かりになるのですか? 命が助かって喜ぶ人間に怪我をさせてすまないと謝ることが、どれほど残酷ざんこくなことかご理解されていますか?」


 マリエルはエドワードに顔を近づけて怒りをあらわにした。


「それでも俺は民を守ることが仕事だ。だから……」

「では、ご質問します。例えば、子爵様のご領地で飢饉ききんが起きたとしましょう。それはひどい飢饉でなにもしなければ領民の半数が餓死します。子爵が税を免除しても蔵を開いてほどこそうにも焼け石に水です。どうされますか?」


 マリエルの質問に彼はすこし黙り込むと静かに答えた。


「周辺の領主から食料を購入する。飢饉がこの領地だけならなんとかなるだろう」

「残念なことに周辺の領主は子爵様が嫌いで食料を売ってくれませんでした。どうされますか?」


 ここまで聞いてエドワードは彼女の質問がどこから来たものか理解した。これは十数年前に実際におこったことだ。南方のある国で大規模な飢饉があった。その国は周辺国から蛮族ばんぞくとして嫌われおり、食料を買い入れることができなかった。そこで国の王はある決断をした。


 豊かな西の国に攻め入り、食料を略奪する。それが王の示した答えだった。

 王は西の国を疾風しっぷうのように略奪りゃくだつし、飢え死にするはずだった国民を救った。だが、王の侵攻によって西の国では多くの人が死んだ。民を救うために他国の民を殺す。それは悪事といえるだろう。だが、それによって生きながらえた人がいる。


「俺は探す」

「食料を売ってくれる国をですか?」


 エドワードはマリエルの質問に首を左右に振るとじっと彼女を見た。


「俺が探すのは商人だ。それも君のような商人だ」

「私のような?」


 マリエルは彼の灰色の瞳に写る自分の顔を見ながら訊ねた。


「ああ、君はこのウェイクに新たな産業を与えてくれた。醸造所からあがる税を見て気づいたんだ。きっと君が来なければこの領地はいつか破綻はたんしただろう。戦火でも不作でもなんでもいい。金がかかることが起これば子爵家は終わっていた。

 そして、俺は南の国の王のように自分の民を守るために他国を犯すような勇気はない。きっと俺は倒れていく民を呆然ぼうせんと眺めているだけだ。だから、誰も傷つけずにこの領地を救った君のような商人を探すだろう」


 彼は一気にまくしたてるとマリエルに頭を下げた。


「な、なんですか。急に。子爵様、おやめください」

「いや、ずっと君には礼を言いたかった。だが、賊の件があって言えずにいた。だから、いま言わせて欲しい。俺は君に救われた。だが、俺は君を救えなかった。本当にすまない」

「お顔をあげてください。私は商人です。利益があるからここに醸造所を作り、人々を雇っているに過ぎません。子爵に税を納めるのも密造ととがめられぬように、という単純な理由です」


 マリエルは焦っていた。彼女にとってオルセオロ商会での商いは利益を得るための行いである。だから、誰かを救うという意思はほとんどない。羊毛を買い占めたときは領主であるバーナード男爵バーバラは助けたが、それさえ安く羊毛を手に入れる手段に過ぎない。だから、彼のように真面目に礼を述べられる覚えはない。


「俺よりも君の方がはるかに領主であるべきなのかもしれない。ちなみに君はさきほどの話を聞いたときにどう思ったんだ?」


 南の国の話は何度も聞かされていた。


「私は南の国王ではなく西の国がすぐに食料を出せばいい、と思っていました。飢饉のせいで兵が動いたのなら、食料を与えてしまえばいい。南の国王のまえにこれでもかと麦の山を積み上げて「これでお前たちの国は飢えずに済むだろう」と言えば良かった。でも……それは違っていました。だから私にもわからないのです」


 マリエルは自らの手を強く握り締めた。


 醸造所を襲った賊は言ったのだ。


『俺たちは分け与えてもらいたいわけじゃない。ただ欲しいんだ!』


 賊にまともな職を与えてやる。金もやる。そう言ったマリエルに賊はそう言って槍を振るった。彼女には持たない者の気持ちがわからなかった。だが、いまはすこしわかる気がした。


「君でさえわからぬことがあるのか」


 エドワードはひどく驚いた顔をした。それがあまりに間抜けに見えてマリエルは笑った。


「私でもわからぬことくらいあります。子爵様は私を魔法の鏡とか洋燈ランプと思っておられませんか?」

「いや、すまない。だが、それに近いものだと思っていたかもしれない。他に知らないものがあるのか?」


 知らぬことなど山ほどある、とマリエルは思ったがそれを口にすることはしなかった。どうせなら、エドワードが驚くようなことを言ってやりたかったからだ。すこし思案して彼女は薄い唇をそっと動かした。


「ありました」

「それはなんだ?」


 エドワードが好奇心にかられてマリエルに近づく。彼女はその彼の耳元でささやいた。


「私は多くを知っていますが、恋だけは知りません。子爵様がご存知なら教えていただけますか?」


 彼女が口を閉ざすとエドワードは目を白黒させた。


「俺は、いや、なんというか。そうだ! 今日は君も話しすぎて疲れただろう。もう休んだほうがいい」


 今度こそ踵を返す彼を見てマリエルは言った。


「君というのは味気あじけありません。次からマリーと呼んでください」


 その声が聞こえたのか聞こえなかったのかエドワードは急いで部屋から出ていった。その姿があまりにも面白くてマリエルは微笑んだ。

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