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第九話 夢の終わりに

 マーリン・アシュリーの生家は地元では比較的恵まれた酪農家であった。人よりも牛や羊が多い家で彼女は多少の読み書きを習い、十二歳のときにバーナード男爵家に行儀見習いを兼ねて奉公に出た。このとき彼女は気乗りではなかった。


 バーナード男爵ユリアンと言えば、高級娼婦を正妻に迎えたことで有名であった。そのためマーリンはユリアンがひどく好色な人間だと思っていた。だが、実際にあったユリアンは気さくな人格者じんかくしゃであった。さらに驚いたのは彼の妻バーバラであった。彼女は読み書きだけではなく算術や音楽、演劇にも詳しくおおよそ教養人と呼ばれる人々が持つものをすべて持ち合わせていた。伝聞から見たバーバラと現実の彼女の違いにマーリンは噂が当てにならないことを知った。


 バーナード男爵家の夫婦は、偏見に慣れているのか困惑するマーリンに苦笑いで言った。


「僕は世間で言われているようにろくでなしだよ。なんせバーバラの話術や教養に惚れ込んで親類縁者の反対を押し切って結婚してしまった。男爵家の当主がやるようなことではない」

「そうなのよ。出会ったころの男爵様は演劇に夢中でとにかく私を誘うのよ。おかげで私は知りたくもない歌劇や演劇の勉強をすることになって、しまいには台本の十や二十を暗記することになったの。徹夜に次ぐ徹夜で意識朦朧としながら観劇をすると男爵様からの感想と質問の嵐」


 呆れるような顔でバーバラが言うとユリアンは頬をかいて苦い微笑みを作った。


「あのときは君が演劇が好きなのだと思い込んでいたんだ。君を誘う口実にも良かったしね。だが、驚いたよ。バーバラは実はそんなに演劇が好きではなく、僕に合わせるために一夜漬けをしていた、と知ったときは」

「一年半よ。この人はずっと気づかないの。私も仕事と思って耐えていたのだけど、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまって言ったの。私はこのところ寝る時間もないの。どうしてかおわかりかしら? そしたらこの人なんて言ったと思う」


 マーリンが分からないと言うとバーバラはひどく嬉しそうな顔をした。


「許せないな。誰が君の夜を奪っているんだ。私はもう呆れるを通り越して笑ってしまったわ」

「あのときほど焦ったことはなかった。バーバラが何に笑っているのかが分からない」


 このような調子でバーナード男爵家の夫婦は仲睦まじく、マーリンにとってはときに「惚気のろけられるのでしたらあとにしてくださいませ」と言わなければならないほどだった。このような二人を見ている間にマーリンはバーバラまでとは言わないが、貴族と言われる人と結婚したいと思うようになった。だが、彼女が男爵家に勤めるようになって四年後の冬、ユリアンが流行病にかかった。バーバラもマーリンも必死に看護したがユリアンは春を迎える前に死んだ。


 このときのバーバラの悲しみようは愛の深さだけ絶望も深かった。目を離せば彼女はユリアンを追って死んでしまうのではないか、と不安になるほどだった。だが、悲しんでもいられない事態が迫っていた。第一に親類縁者が男爵の後釜に座ろうと家督を譲るようにバーバラに迫ったのだった。


 ユリアンとバーバラの間にはアムレンという息子がいたが、まだ三歳に満たなかった。とても領地を経営できるような年ではない。しかし、親類に男爵位を譲ればそれを返してもらえる保証はない。そうなればアムレンは嫡子ちゃくしでありながら無位無官の士になりかねない。バーバラはこのとき様々な手段を用いて爵位を守った。


 最終的に夫妻と交流のあったユーグ子爵ウェインが後見となることで十二年間男爵位をバーバラが預かることになった。それでも異議を唱える親族がいたが、ユーグ子爵とバーバラは兵を用いて黙らせた。すべてはユリアンの忘れ形見であるアムレンのためであった。


 このような騒ぎのなかでマーリンは、家内の奥向きを一手に仕切ることに忙しく結婚のことなど考える余裕はなかった。そんななか最後に残った問題である領地からあがる羊毛の売り先が決まった。家中の混乱をついてロッヂデール織物組合に買い叩かれていた羊毛が、オルセオロ商会に流れることになったのだ。


 男爵家の実入りが大きく改善されたことでバーバラにしても婚期を逃しつつある侍女の嫁ぎ先を考えたくなったのだ。それはマーリンにとっても考えなくてはならぬことであった。希望を言えばバーバラのように貴族にもとに嫁ぎたい。だが、貴族というものを彼女はあまり知らない。


 このような状況で、貴族の中の貴族というべきマリエル・オルセオロの提案はマーリンにとって渡りに船であった。貴族であるマリエルと平民であるマーリンは身分を交換したのだ。マーリンはマリエルを演じ、マリエルはマーリンとふんする。


 マーリンにとってマリエルに成り代わってからの日々は夢のような日々であった。天蓋付きの寝台で眠り、絹や綿の衣類を身に付ける。食事は最上級のものが提供される。


 また、季節折々に開かれる貴族の晩餐ばんさんは、マーリンに貴族がいかなるものか知らせるに十分であった。貴族と言っても本家と分家、嫡男ちゃくなん庶子しょしでは明らかな差があった。領地からの収入の多くは本家のもとにはいるが、分家にはほとんど入らない。庶子は家の外で何らかの仕事をすることが求められ、近衛このえや宮中官吏になるものが多い。だが、それらの収入はマーリンが思っているほど良くはないようだった。


 それゆえに彼らは豪商や豪農と言われる裕福な人々から嫁を貰いたいと考えているようだった。


 だが、それは打算がものをいう結婚であり、マーリンが思うものではなかった。ユリアンとバーバラの結婚は人の世にあってひどく珍しい例外であった。マーリンは現実を見たような気がしたが、同時に新たな疑問が芽生えていた。


 ――貴族よりもうえにいる王族は愛によって結婚するのだろうか。それとも。


 この国において比類なき権力を持つ王族ははたしてどういう恋愛観を持っているのか。ただ、王家を残すということに終始して家柄だけを重視するのか。権力の後ろで深い愛情があるのか。それを見たい。そう思うようになってから彼女は少しだけ変わった。


 マリエルを演じるのではなくマーリンという人間が王族である、という姿勢で過ごすようになったのだ。

 その変化はマーリンのお目付け役となっていた近侍のハロルド・マルコーンから見ても明らかだった。それまでのマーリンはマリエルの真似をするのに必死であった。何かがあれば「マリエル様ならどのように対応されたでしょう」とか「今のでよかったのでしょうか?」と問いかけることが多かった。それが無くなったのだ。


 おびえがなくなり、自信に満ちた威厳のようなものが彼女には生まれていた。


 ハロルドはマーリンという女性を見直した。貴族に嫁ぎたいという夢見がちな女性を彼は多く知っている。彼女らはいつかどこかで白馬に乗った王子様がやってくると夢想むそうしている。だが、現実はそうではない。王子はそこらをふらふらしていないし、ただの村娘にうつつを抜かすこともしない。彼らにとって町や村にいる女性は統治する民であり、愛するものではない。


 もし、彼女らが王子の愛を望むのならそれにふさわしい行動をおこすべきなのだ。


 そういう意味ではマーリンは正しい。あまりに身分に開きがあるというのにそれを埋めようと努力している。だから、ハロルドはマリエルが北端の町で重傷を負ったと聞いたときにマーリンを政治的な影武者にすることを思いついた。これまでのような商会絡みの貴族や豪商が相手ではない。本当のウェルセック王国の王族が現れる場で彼女を使うのである。


「あなたには雪が溶けるころからこの国の王子二人――アラン・ウェルセック様とヘンリー・ウェルセック様に会ってもらいます。そして、王位が確実にアラン様に継承されるか判断してください」


 ハロルドが言うとマーリンは少し驚いた表情をしたあとに「どんなことがあっても私の品位を守りなさい」というマリエルの言葉を小さな声でささやいた。


「分かりました。やってみせます」

「これまでよりもはるかに難しいですよ。仕草や所作ひとつをとっても完璧でなければなりません。少しの失敗がオルセオロ商会どころかお嬢様の命運に関わります。そして、我々にも。それでもやりますか?」

「はい、私はマリーです。マリエル様と同じマリー。やってのけます。それがあの方の品位を守ることになると信じます。そして、私の品位もそこにあると信じます」

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