塔
塔
その塔は、天まで届くほどの高さがあるという。
誰も決して頂上までは辿り着けないように、そのような高さに作ったということだ。
村で私が少年の頃より、宿命の敵と定めてきた男が作った白い塔である。その男は、私がまだ家督を継ぐでもなく、ふらふらと遊び呆けている時に、たった一人で村を出て行った。いま思えば彼は、あの若さで自身の将来を見据え、何を為し、また何を為さざるべきかを見極めていたのだろう。私が何となく村で怠惰な青年期をやり過ごしていた間に、早熟な彼は着実に、そして終に、その唯一無二の白い塔を完成させて、満足し急逝したらしい。
あの男が、この世界に残していった塔。私はそれを、彼からの私に対する挑戦と捉えた。
あの男の死後、さらに月日が流れ、早くも私の壮年期が終わろうか、という時になって初めて、あまりに無為な自分の人生に焦燥を感じた私は、彼の塔を目指して、ようやく村を出る決心をした。
私は、遠路はるばると、どこまでも旅を続けねばならなかった。近隣の村々を通り過ぎてから、国境を跨いで他国に分け入り、山を越えて森を抜けると草原だった。その果てしない草原を行くと、まったく人に出会うことはなくなった。草原は、いつしか荒野に変わり、やがて砂漠になった。
長い旅路の果て、ある夜明けの空に私は、地上から垂直に真上へ伸びて、暁の明星の遥か下あたりで消えている一筋の白い線を見とめた。青紫色から薄桃色に移り変わってゆくその東南の空に、ただ一つ、ぎらりと輝いている明星と、ただ一筋、空から地上に注がれているような白い光。その魔術のような一筋の光線に、不覚にも私は胸を打たれ、興奮で目が潤んだ。涙の中に白い一筋の光が滲んで流れている。
しかし、その感動は、ようやく白い塔の在りかを突きとめた旅の苦労が報われた安堵感と、美しい朝焼けに消えゆく明星の、儚い輝きのせいだと思った。決して、あの男の塔が、息を呑むほどに壮麗に、天高くそびえていたからではない、と思った。
そこから私は日々、地図ではなくて、遥か遠くに見える塔を目指しながら砂漠を歩いた。
白い糸のように見える塔が、だんだん近づいてくる。糸は紐のようになり、縄から綱のように変わって見え、やがて、なるほど白い巨大な塔であった。途方もない高さの円筒形で、宮殿の柱に見られるような装飾の類は一切なく、平坦な壁面には、所々に窓であろうか、小さな穴が開いているのが見えるだけ。ただ、その高さは想像を絶する。
――たとえ天まで届くほどの高さであっても、たいしたことはあるまい。
と私は思った。私には密かに、あらゆる面であの男を上回っている、という何の根拠もない自負がある。あの男が、生涯を懸けて築き上げたという塔らしいが、ものの数ではない。訳もなく登り切って征服してみせよう、と私は思っていた。
そして、何もない砂漠の真ん中に、その白い塔はただ立っていた。
私の他には誰もいない。そこだけ時間が止まっていて、現実世界から完全に取り残されているような感覚がある。世界に比肩し得るものもない、天まで届く塔なのだから、さぞかし大業な景勝地のようになっていて、大勢の見物人などもいるものと私は想像していた。しかし、そこは亡国の廃墟か、忘れ去られた古代の遺跡のようだった。
私は、その塔の前に立ち、夕陽に照り映えて黄金色に輝き、天空高く伸びている壁面を見上げていた。不覚にも私はまた、その光景に感激し、身震いさえした。しかし、これも、神木のように荘厳とした塔の威容に感動した訳ではなく、ついに敵と対峙したという武者震いに過ぎない、と私は思いたかった。
――決して誰の手にも届かぬような、天まで高い塔を作っただと?
たしかに塔は、日没の朱に染まった低い雲を突き抜け、黄昏の空にそそり立ち、天にも届かんばかりで、その先端は霞んで見えない。しかし、噂から想像していたものを超越してはいないと思ったし、所詮は人間の作った塔だな、と私は落胆していたのだ。それと同時に、全生涯を懸けて、これほどの塔しか作れなかった男を、宿命の敵としていた自分自身をさえ、私は軽蔑したくなっていた。
それでも私は、巨大な洞穴のような入口から、塔の暗い内部へと入っていった。
塔の外壁には、ほんのわずか、小さな窓が点々とあるだけなので、中はほとんど真っ暗だった。だが、ぼんやりと立っているうちに私の眼は暗闇に慣れてきて、塔の内部は、ただの広大な空洞であることが分かった。塔の底辺の広さは、村が一つすっぽり納まるくらいはあるだろうか。砂漠そのままである底の地面は、半分くらいまで見えているようだが、それから先は夜のように暗いだけ。塔の外観には、ほとんど装飾は見られなかったが、それは内部もまた同じで、何の趣向を凝らしたところもなく、長方形に削り出した砂岩を積み上げた壁が、頭上の丸い闇へと、ただ続いているだけだった。
――こんな面白くも何ともない塔を、人生を賭けて作るなんて……。
私は、その塔の、ただ高さのみを追求し、まったく遊び心の欠片もないような造作に呆れていた。そして、余裕の感じられない切羽詰まった顔で懸命に塔を作っているあの男を想像し、その威厳のなさ、姑息な虚栄心を嘲笑さえしていた。
なんとなく入口の左右を見渡してみても、塔を登るための階段はなかった。
遠く闇に沈んでいる壁のどこかに階段はあるのだろうが、まったく見当がつかない。しかたなく、私は右の方へ壁伝いに歩き始めた。
薄暗い中を、右手に冷たく硬い岩の壁を感じながら、私はただ砂の上を歩いた。夜の渚を歩くような心地良さなどはどこにもない。頬や首筋を撫でる潮風も吹かなければ、耳に響いてくる潮騒の気配もないのだ。砂漠の熱波さえ途絶えて、ひんやりと冷えてはいるが淀んだ空気で息苦しい。自分の踏みしめる砂の音しか聞こえない。
――なぜあの男は、登ろうとする者の気持を、まったく考えなかったのか?
私は腹が立ってきた。気持よく挑戦できるように、「さあ登ってみろ」と、なぜ入口の近くに堂々と、荘厳な階段の一段目を作らなかったのか。疑問だった。「この巨大さ、高さを見よ」とばかりに、塔の内部は明るく陽光に満ち溢れ、遥か頭上に伸びる内壁の頂点は霞み、視力の限界に阻まれて見えない。そのような光の演出、雄大な景観によって、登ろうとする者が圧倒され、己の小ささを痛感しつつも奮い立たされるように、なぜこの塔を作れなかったのか。
塔の壮大さも何も感じられぬ薄闇の中を、まさか入口の反対側あたりにある階段まで、ただ壁伝いに歩けということなのか。なぜそんな挑戦者を、うんざりさせるような手段を使ったのだ。せめて、もう少し内部が明るく、階段の位置が遠くに見渡せれば、塔の底を回り道せずとも済むのだ。つまらない。やはり、あの男の卑怯さ加減に思いやられ、彼に対する幻滅と、この塔への挑戦そのものに、私は意欲を失いそうだった。
壁伝いに薄暗い砂の上を所在なく歩きながら、故郷の海岸の、潮の香りでも思い出そうとしていた私は不意に、何か他の臭いを嗅いだ。新鮮ではない。古びた腐臭だった。
その辺りで私は、白骨死体を見つけた。その人間は、高い所から落下したのか、肉体がちぎれて粉々に砕けた散ったあとに、白骨化して相当に時間が経っている。あの男を宿命の敵と定めて、この塔に挑戦しようとする者は、私の他にも何人かいたようだ。
私はしばらく、その白骨を見下ろしながら、不覚にも死の恐怖を禁じえなかった。
はたして、入口があったところの、ちょうど反対側と思われる塔の内壁に、階段の一段目があった。
壁の穴に、木の板を差し込んで作ってある螺旋階段が、緩やかに壁を伝いながら頭上の巨大な空洞の彼方へと続いている。空洞は、夕暮れ時のように上空にいくほど暗くなっているから、小さな階段は地上から百段くらいまでしか見えない。木の階段は、手摺などないただの板で、梯子よりは大きく頑丈に、しっかりと作られてはいるが、人がすれ違うことは難しそうである。下手をすると、外側の人が落ちてしまうだろう。
――登っている時に、もし降りて来る人がいたら困るな。
私は、人気のまったくない静寂な塔の中でそんな、およそあり得ないことを想像していた。また、あの白骨死体の死と、これから塔を登ろうとしている私との間には、どれくらいの時間の隔たりがあるのか、とも考えていた。なぜ落下したのか。疲れて少しよろめいたときに階段の板を踏み外して落ちたのか。そのように、わずかの油断あるいは疲労によってでも簡単に落下することがあるように、あの男は、わざと小さな階段を作ったのか。なぜ、壁と同じように、長方形に削り出した大きな砂岩を積み上げた強固で、横幅も広い石段作りにしなかったのか? 彼の悪意に、私は疑心暗鬼になってきた。
しかし私は、その無造作な木の階段を登り始めた。
軋む板の階段を踏み締めながら、ひたすらに頂上を希望した。天に向かって口を開けている薄闇の空洞に、私の足音だけが響いている。私は壁に寄り添うようにしながら、ただ黙々と塔を登り続けた。いつしか、そこでは、影から逆に浮かび上がってきたような人間の黒い形だけが、塔を登っているのだった。
思ったとおりに、いくらその塔を登ってみても何の変化もない。
下を見ると、薄暗く透けて見えていた塔の底が今では暗黒の空洞で、その彼方へ螺旋階段が百段くらい降りていて、その先は見えない。空洞は、深い水の底を見ているかのように、徐々に透明感が失われていって、視界の向こうに沈んでいる。上を見ても、それは上下逆さまに同じである。上も下も混同され、まさに眩惑する。そのうち上でも下でも、どっちでもいいような気がしてくる。その塔を登っていると、上下なんて意味が無いかのように思われてくるのだった。
――このように目眩に誘い込んで、階段から足を踏み外させようという魂胆なのだ。
私は右手で壁を伝い、足の裏で、しっかりと階段の板を捉えるようにして登っていった。
壁には所々、小さな窓が開いているには開いてるが、階段に立つ人の背よりかなり高いところにあるので、壁を少しよじ登らないかぎり窓から外を見ることはできない。単調な階段の登りに退屈していたから、塔の外を見たくて仕方がない。しかし、壁をよじ登ろうとする者が足を滑らせ、落下することを期待しているあの男の顔が浮かんだ。私は、外の眺望を見るというような気晴らしなどしなくとも、集中してこの塔を登り続けてみせる、と改めて決心した。
――登っても登っても何の光明もなく、頂上に辿り着くのは何年先のことになるのか。
それでも塔なのだから、頂上は必ずあるはずだし、人間の作ったものなのだから、それを人間が登り切るのは不可能なことではないはずだ、と私は確信している。
けれども、人間はすぐに飽きるものである。いつまでも、ただの繰り返しには耐えられない。私は自分の人生を振り返ってみて、人間というものについて、そういう結論を持っていたので困惑してもいた。この階段の単調な連続に完全に飽きてしまい、そしてそこに油断が生まれ、ほんのちょっとでも足を踏み外したとしたら……。
――そもそも、この階段の板の一段でも壁の穴から外れたら、どうなるのか?
ただ一段だけ、作為的な階段の欠陥、つまりあの男の卑怯な仕掛けが一つでもあれば、そこで私の挑戦は終わりである。頂上までは誰も辿りつけない塔だけが残ることになる。しかし、あの男は、そこまで卑劣な、人間の屑だろうか。いや、これ程の世界に二つとない空前絶後の塔を作り上げた男が、そんな非人道的な手段を使って、宿敵の登頂を阻もうなどとするはずがない。私は、その点においては、あの男に対して全幅の信頼を寄せていた。
――頂上まで、あとどれくらい時間が掛かり、はたして私に残された寿命で足りるのか。
私には、あの男ように全てを捨て去り、生涯を懸けて築き上げるようなものは何もなかった。また、安心して生活の糧を得られるような田畑もなければ、堅実に養っていくべき妻子もない。これからの残りの人生で、何か他の人にはできないような偉業を成し遂げることでしか生きる意義の持ちようがないな、と思った。だから私は、あの男と同じように一人で旅立ち、彼が築いた誰も踏破したことのない塔の頂上を目指してきた。
私は一人で生きている。私の残りの人生は、すべてこの挑戦に費やして構わないのだ。とにかく、命あるかぎり、あの男が生涯を懸けて作った塔の征服に満身するしかない。
このことが、はたして前人未踏の偉業と成り得るのかどうかは分からない。私にとっては最高峰であっても、所詮、世界からは完全に忘却されているような塔を制覇して、それが何だというのか。だが、やがて、あの宿敵のことも、私の挑戦が人々に語り継がれることがあるのか、この塔が不滅のものであるのかどうかも、もうどうでもよくなった。これは、死んでこの世にはもういない或る人間の作った塔を、今は生きている私という人間が、ただ登っているだけのことなのだ。
そうして百年、私は登り続けた。
その百年の間に私は、いくつかの夢を見た。
螺旋階段を登り続けると、頂上が見えてくる。塔の先端が空に、ぽっかり口を開けている。階段は、あと数段で終わる。しかし、あと一歩というところで、頂上は消えてなくなり、そこは村の見慣れた、少年の頃から遊んでいた草原であった。
こんな夢も見た。頂上まで、あと一歩というところで、この塔の頂上と、その入口が全く同じであることに気づく。もう一度初めから、そして、いつまでも私は、これを繰り返すのか……。
頂上に片足を掛けたところで、後ろ足を階段で滑らせて私は転び落下する。軽率に足を踏み外して、百年を落ちていく夢。落ちながら私は、どうして、あの時、最後の階段を踏み外したのか、そのことばかり考えるしかない。このまま為す術なく、ただ百年、落ちて行かなければならないのか、と悔いる。まあ、これも仕方がない、と、私の考えは夢の中を巡り巡った。
そして、夢の向こうに、やはり塔の頂上は存在していた。
私は本来、自分が四足歩行の動物だったことを、ふと思い起こしたかのように、階段の最後の何段かは手をついて四本足で、しっかりと確実に頂上へと這い上がった。
真っ白く強烈な光に、眼が眩むというより、瞳が焼けてしまいそうなほどだった。百年の間に眼が退化してしまったかのようで、色彩をまったく感じない。もう白い光の他には、ほとんど何も見えなかった。
――しまった、やはりあの男の塔を登ることなんかには何の意味もなかった。
薄眼を開けて仰ぎ見ると、遥か上空から、地上で見るのと全く同じ太陽の光が、下界へと差していた。