はじめてのひとり暮らし
不動産屋にこの部屋を紹介されたとき、私は得体のしれない不自然さを直感した。
『裏野ハイツ』203号室。築30年の建物の壁紙や床は新築のように綺麗だった。家賃も4.9万と都内にしては手頃なうえ、生活に必要な施設は歩いていける範囲にすべて揃っている。隣の大きな建物のせいで陽当りがやや悪いこと以外は文句のつけようがないように思えた。
「でも……なんかこの部屋、おかしい気がする……」
私がつぶやくと、一緒に内見に訪れていた母は眉をひそめた。
「アンタねぇ、これだけいい部屋でまだ不満なのかい? 家賃出すのは私なんだからさ、ここにしなさいよ。ひとり暮らしの大学生にはもったいないくらいよ」
「で、でも、なんかこの部屋、イヤな感じがする」
「もしかして、自殺があったとか?」
「まさか!」不動産屋は笑った。
「そのようなことがございましたら、心理的瑕疵として、私どもはお客様にお伝えする義務がございます。でもこの部屋にそんなことはありません。前の住民も、その前の住民も、皆さん元気に引っ越されましたよ」
「そうだよ」大家の老人がやや不機嫌そうに言った。
「ウチでは建築以来30年、自殺とか、そんなことは一度もないよ。ホラー小説じゃないんだから」
「私ホラー小説大好きなんですけど、家の間取り図とか見ると、ついつい隠し部屋とか探しちゃいますよね」と母。
「んなもんないよ」と呆れたふうな大家。
「ね、ね。ここにしたほうがいいわよ。というかここにしなさいアンタ。こんないいトコ、ぼやぼやしてるととられちゃうわよ」
こうして、私は入居することになった。
『103』という表札だけがかかったドアをノックすると、ややあって、中年の女性が顔を出した。私は緊張気味に頭を下げる。
「あ、あの、私、上の203に引っ越してきたものです。ご挨拶に参りました」
「あらそうなの? どうもはじめまして」
にっこりと笑う女性に、私の緊張が少しだけ緩む。
「こっこれ、つまらないものですが……」
「あら! ありがとうございます。最近珍しいわねぇ、お若いのに。学生さん?」
「はい、今年の春から大学生で」
「もしかして、W大学?」
「えっはい」
「やっぱり! ということは頭がいいのね! 羨ましいわぁ」
「いえ、そんなことは……でもどうして?」
「いやね? たしかあなたの前に203に住んでた人も女子大学生で、W大学の学生さんだったのよ。電車一本だもんね」
「ああ、そうだったんですか」
「ひとり暮らしははじめてかしら? わからないことがあったらなんでも訊いてね? おんなのひとり暮らしは危ないから」
「え……危ないって?」
「ホラ、下着泥棒とか、変質者とか、ちょっと多いの、このへん。あなたも気をつけなさいねぇ」
「は、はい。ありがとうございます」
そのときふと視線を感じて、私は部屋の奥を見やった。するとそこには、3歳くらいだろうか、幼い男の子が身じろぎもせずにジッと立ちつくし、私を見つめていた。
「お子さんですか?」
私が声をかけると、女性は振り返り「奥引っ込んでな」と言う。男の子は静かに奥へと消えた。
「……なんだか、大人しい子ですね」
「まったくねぇ。我が子ながらちょっと心配よ。静かすぎて」
「静かといえば――」
私の頭にふとよぎったものがあった。
「私の部屋の――203の隣の202号室、どんな方が住んでるかご存知ですか? さっきご挨拶しようと思ったんですけど、ノックしても出てこなくて」
「ああ……あの部屋」
そのとき、私はたしかに女性の表情が一瞬くもったのを見た気がした。
「ちょっとわからないわね。誰かが出入りしてるの、私も見たことないのよ」
「そう……なんですか?」
「おかしいわよね、あの部屋。誰かが住んでるのは間違いないみたいなんだけど、大家さんに訊いても『個人情報だ』って教えてくれないし」
「そうなんですか……?」
「ええ、ちょっと不気味よね。でもなにか騒ぎが起こったことは無いし、案外夜勤の人で、昼間は寝てるってだけかも」
「へぇ……」そんなものか、と私は思った。
「ま、それはともかく。ご挨拶ありがとうございますね! よろしくお願いします」
「あ、いえ、こちらこそよろしくお願いします」
それからの私の新生活は順調だった。
大学で友達も何人かでき、みんなを部屋に招いて遊んだりもした。カフェでのアルバイトも始め、そうして得られた小遣いで服も買った。そうこうしているうちにはじめての彼氏もできた。同じ学部の同級生で、ラグビーサークルに入っている。彼とはすぐに深い関係になった。はじめては私の部屋だった。休日になるたびに私の部屋のベッドで繋がった。幸せだった。この部屋をはじめて見たときの得体のしれない不気味さなんて、すっかり忘れてしまうほどに。
何ごともないまま4年が経ち、私は部屋を出ていくことになった。地元で就職が決まったのだ。
ダンボール箱が積み上がった部屋で、私は最後の夜をしんみりと過ごしていた。楽しい大学生活のなにもかもがこの部屋で起こった。私は寂しさに自分の肩を抱きながら、なんとなく、ぼぅと天井を眺めていた。
玄関のチャイムが鳴って、疲れから眠りかけていた私ははね起きた。携帯電話を見ると時刻は夜10時をまわっている。夜中の訪問者に、私は嫌な予感がした。
私は玄関の覗き穴から外を見、そこに立っているのが一階に住むおばあさんだとわかってホッとした。201号室に住む彼女には、この4年間とてもお世話になっていたのだった。私は鍵を開けた。
「こんばんは、おばあさん。どうしました?」
「夜分遅くごめんなさいねぇ。どうしてもひと言、あなたにお礼を言いたくて」
「お礼?」
「これまで、ほんとうにありがとうねぇ」
「ああ、ど、どうも……」
面映さに頭をかく。
「お礼を言わなきゃならないのは私のほうで……おばあさんには、いつも助けられてましたから」
「いいえぇ。あなたがいたから、この4年間、孫もとても喜んでいたのよぉ」
「お孫さん、ですか?」
訊き返すと、おばあさんはがま口を取り出して、中からボロボロの写真を取り出した。そこには無邪気に笑うひとりの男の子と、いくらか若々しいおばあさん自身が映っている。この写真は、前にも見せてもらったことがあった。
「とにかく、ありがとうねぇ」おばあさんは頭を下げた。
「あの、私、お孫さんにお会いしたことありましたっけ?」
「いいえ、たぶん、無いんじゃないかしら」
「じゃあ、なんで?」
「孫はね、あなたのとなりに住んでるのよ」
背すじに冷たいものが走った。この4年間、日々の忙しさのためにすっかり忘れてしまっていた、202号室の住人……。
「お、お孫さんが? 知りませんでした」
「でしょうねぇ。あの子引っ込み思案だから、なかなか人と打ち解けられなくて。4年前、あなたが引っ越しの挨拶に来たときも、出られなかったって、ものすごく悔やんでいたのよ」
「そんな……そうだったんですか」
私の胸に、ちくりと痛みが走った。隣の部屋の住人――この人のお孫さんも、私と仲良くなりたいと思っていたのに、私は気づいてあげられなかったのだ。
(きっと、後悔するな……)
私の頭にそんな考えがよぎった。そして私は決めた。明日にはこの部屋を出ていくというのに、モヤモヤを残したままなのは嫌だった。
「お孫さんにご挨拶させてください」
「えっ?」目を丸くする。
「4年間、となりに住んでいたのに、一度も顔を合わさないなんて変じゃないですか。だからせめて、お別れの挨拶だけでも」
するとおばあさんは少し考え、やがてひとりうなずいた。
「……わかったわ。そうなってくれれば、孫もきっと喜ぶだろうし。じゃあ、ついてきて。ああでも――」
一度背を向けかけたおばあさんはまた振り返って、私を見て強く言う。
「――あの子を見ても、ぜったい、驚かないでちょうだいね」
私が問い返す前に、おばあさんはポケットから鍵を取りだして202号室に挿し込んだ。私も彼女についていく。
おばあさんは扉を開けると、中を覗きこんで孫の名前を呼ぶ。部屋の中は薄暗く、明るい廊下からは殆どなにも見えない。ただ扉が開いた瞬間、かすかな異臭が鼻をついた気がして、嫌な予感に体が震えた。
「あぁいた。ほら、せっかくだからお入んなさいな」
「え、は、はい」
今さらあとには引けず、私は促されるままに玄関先へと足を踏み入れた。
どうやら部屋の間取りは私の部屋とほとんど同じらしく、玄関を入ってすぐは9畳ほどのLDKだ。かなり散らかっていて足の踏み場もない。電灯はついておらず、奥の部屋への引き戸から漏れる光で、部屋中に溢れるゴミ袋の輪郭がかろうじて見えた。
(うわ……汚い)
部屋にわだかまるすえたような臭いに、私は顔をしかめる。おばあさんは躊躇なく部屋の中に踏み込み、奥へと消えた。
入り口横の流し台に積み上がった汚い皿を嫌な気分で眺めながら待っていると、しばらくあって、奥からなにか大きなものがのそりと現れる。私は、それを見た。
身長2メートルはあろうかという大男で、ひどい肥満体型のうえ、卵の腐ったような臭いを発している。頭髪はほとんどなく、顔は無数のデキモノのせいでまるで殴りつけた油粘土のように崩れていて、ほとんど片目だけしか見えていない。その目も、どこか別の方向を見たまま固まっている。豚のように潰れた鼻からは鼻水が、切り裂かれたような口の端からはよだれがダラダラと垂れ流されていて、何らかの知的障害を患っているのは明らかだった。
「う……あ……」
あまりの醜さに、私の体はすっかりすくんでしまった。こんな怪物のような人間の隣に4年も住んでいたのかと思うと、気が遠くなりそうだった。
それでもぐっとこらえ、私は精いっぱいの笑顔を浮かべて彼を見上げる。あの優しいおばあさんの孫なのだから、悪い人間のはずがない。きっと彼は病気かなにかなのだ。
「あ、こ、こんばんは!」
「あぅ〜〜〜……ぶふぅ〜〜〜〜……」男の臭い息が、私の鼻孔に侵入する。吐きそうだった。
「あ、あの、私」
いきなり腕が掴まれた。気づいた瞬間には、私はグイとつよい力で奥へ引っ張られ、床に転がされていた。激痛に、私は短い悲鳴をあげた。
「いだぁっ!?」
這いつくばったまま腕を見ると、何かガラスの破片が突き刺さっている。傷口から血が溢れ、肘を伝って、床に広がっていく。
私はショックと恐怖で真っ青になりながら玄関を振り向いた。男がドアを閉め、鍵をかける音がした。
(殺される!!)
とにかく男から離れようと、立ち上がって奥の部屋へと逃げ込んだ。目を見張った。
部屋中にずらりと並んでいたのは、何台ものディスプレイだ。ぼんやりと光を放つそれらはすべて同じものを映し出している。ダンボール箱の積み重なった、綺麗な部屋だ。
見覚えがあった。
「わたしの部屋……?」
203号室の中をありとあらゆる角度からとらえた映像がディスプレイに映っている。リビングも、寝室も、キッチンも、風呂も、トイレも。
「ひぃ……!?」
直後、私はこの部屋の中に漂う独特な臭いの正体に気がついた。
精液の臭いだ。鼻が痺れるほど濃厚な精液の臭いが、私の鼻から、口から肺に流れこみ、血液のなかに溶け込んでいく。胃が縮み上がり、熱いものが喉を競り上がり、私はその場に崩れて嘔吐した。
私の生活は、そのすべてが見られていた。
朝ベッドで起きる瞬間も。朝食を食べる瞬間も。着替える瞬間も。歯磨きやメイクをする瞬間も。トイレをしている瞬間も。風呂で体を洗う瞬間も。友達とあそんでいた瞬間も。彼氏とのセックスも。処女を失ったその瞬間も。ひとりでシテいた瞬間も。
私の4年間のすべては、あの醜い男のオカズにされていた。
「汚いわねぇ」
ふと後ろから声がしてふりむくと、そこに立っていたのはあのおばあさんだった。私は口元を拭い、彼女を睨んだ。
「このクソババアッ!! 警察に言ってやる! 通報してやるからな!」
「あら、それは困るわねぇ」
おばあさんは片手で頬を押さえた。そのとなりから、さっきの男がまた現れた。
「近寄るな、バケモノッ!」
私は近くにあった空き缶を投げつける。だが当たらない。男は床をきしませながら、ゆっくりと私に迫ってくる。その股間はあきらかに膨らんでいた。
「この子ねぇ、あなたをはじめて見たときから、ずっとあなたを犯したい犯したい、妊娠させたい妊娠させたいって言ってたの。お願いねぇ」
おばあさんは丁寧に頭をさげた。男は私のすぐ目の前に立ち、じろりと私を見下ろす。血走った視線が、私の足元から這い上がり、腰、腹、胸、顔へと上がる。目があった。
「ふ、ふざけんな……!」
震える声に、男が、にたりと笑った。
そのときだった、部屋のドアが強くノックされたのは。
「すいませーん、103号室の者ですがぁ、もう夜なので、少し静かにお願いします」
聞き覚えがある声だ。あの女性だった。
「助けてーッ! 助けてーッ!」
私はここぞとばかりに叫ぶ。すると、ドアを叩く音が激しくなった。
「ちょっと、開けてください!」
「はいはい、今出ますよぉ」おばあさんが玄関に向かう。
固まった男を見上げ、私は彼を嘲った。
「このド変態が!」
男のそばをすり抜けて、玄関へと走る。玄関は開け放たれて、明るい廊下の光を背に、女性がおばあさんと何かを話している。
「助けて! 助けてぇ!」
私は廊下に出ようと、女性の横をすり抜けようとした。
女性の腕が、私の行く手を阻んだ。
「えっ……?」
私は驚いてつい足を止めた。
「あんまり騒がしくしないでよ」
そう言い放った女性の目は冷ややかで、侮蔑的な光さえあった。
「えっ? えっ?」
「ごめんなさいねぇ、夜も遅いのに」おばあさんが頭をさげる。
「もっと静かにやらないと、周りにバレちゃいますよ」
「すいませんねぇ……」
「えっな、なんで……?」
女性はじろりと私を睨む。
「あなたがいたから、私は彼の相手をしなくてよかったのに、あなたがいなくなったら、またしなきゃいけないじゃない。一生そこにいてちょうだいよ」
「何を言って――」
言いかけたとき、私は、女性の腰に包丁がぶら下がっているのに気づいて血の気が引いた。
「――なに、それ……?」
「後始末は101の人に?」
「えぇ、えぇ。お願いします」
「そう、じゃあ、朝までには終わらせてくださいね」
「ちょっと、なに……」
女性が、強く扉を閉めた。
ふたたび暗くなった部屋で、玄関前に立つ老婆がゆっくりとふりむく。そしてこの4年間何度も見た笑顔でぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさいねぇ、あの子、あなたをじかに見て、我慢できなくなっちゃったみたいで」
「なに言って――」
言いかけたときだった。私の両肩が掴まれたのは。太く、不潔な、真っ黒な爪と、スペルマの臭いが染み付いた腕……!
「このアパートはね、この子のために私が建てたのよ」
叫ぼうとした私の口もとを、背後の男の手が押さえる。そのまま強い力で引っ張られ、私はふたたび部屋の奥へと引きずり込まれる。私の絶叫は、裏野ハイツ全員が聞いたはずだった。
数週間後。
「うわぁ、きれいな部屋!」
ひとりの少女が、203号室を見渡して言った。
「えぇ。立地も良いですし、W大学の付属高校までも電車で一本ですから、この春からの新生活には最適かと」
不動産屋が笑った。
「今なら、前の住人が残していった家具もお付けします」
「ほんとうに? でも……うーん……」
「何か気になるところでも?」
「なんか、安すぎる気がして。4.9万円ですよね? もしかして、前の住人が自殺したとか?」
「まさか!」
不動産屋は肩をすくめる。
「この部屋では、前も、その前も、そのまた前も、自殺だなんて起こっていませんよ……」
「そう? じゃあ決めた。ここにする!」少女は、快活に笑った。
「ご入居、ありがとうございます!」不動産屋は、にやりと笑った。
おわり