珈琲恋歌
「ねぇ。いつもの喫茶店へ行かない?」
彼女はとても良い笑顔で俺に問いかける。
「あぁそうだな。やっぱりあの喫茶店の珈琲を飲まないと締まらないしな」
電車で遠出をし、デートを楽しんだ俺達。
最早定番となっているのは、デートの最後は珈琲で締めるというもの。
時刻は夕方。
混み始める前に席を確保しなければ、落ち着いて今日を振り返る事もできない。
「じゃあ決まりっ。早く行こうよ!」
彼女が俺の左手を掴み、指を絡めて先を急ぐ。
そんな彼女に合わせて、俺も小走りで走りだした。
中学一年生から現在高校三年生になるまで、通い続けている馴染みの喫茶店。
珈琲の味が分かる年代ではないけど、俺はここの珈琲がお気に入りだ。
そんな喫茶店に初めて連れてきた女の子である彼女に紹介してから、もう数年が経つ。
彼女が笑顔で珈琲を美味しいと言ってくれて、嬉しくて。
俺は彼女に惚れてしまった。
だからだろうか、彼女とここの珈琲は俺の中では最早セットになってしまった。
「申し訳ありません。あいにく満席となってしまっていて」
喫茶店の馴染みのマスターが深々と頭を下げた。
「そんな、顔を上げてください! 満席なら仕方がないですよ」
彼女が慌ててマスターへと声をかける。
しかし、彼は顔を上げなかった。
「いえ……今日あなた達を出迎えられないのは私としても」
「マスター」
マスターが言おうとした事を遮って、更に俺は話を続ける。
「もしマスターが俺達を気遣ってくれるならさ」
彼女も俺のことを見ている。
「珈琲とカフェラテをテイクアウトさせて貰えないかな?」
俺のそんな提案に――
「喜んで」
柔和な笑みと言葉でマスターは答えてくれた。
「ねぇねぇ! 良くマスターがテイクアウト作ってくれたね!」
「まぁ、長いこと通っているから融通きかせてくれたんだよきっと」
彼女と連れ立って、夕日の中をゆっくりと歩く。
自分と彼女の手にはタンブラー。
片方は流れ星の絵。もう片方は夜の草原に佇む少女の絵。
対にすると一つの絵になるタンブラーだった。
これはマスターが店の奥から出してきたもの。
ちなみに俺のは珈琲。彼女のはカフェラテだ。
「だって、あのマスターって、テイクアウトだけは絶対にしてくれなかったじゃない」
「あー、お前も随分食い下がってたよな? そういえばあの時も満席だったっけ」
「そうそう。でも"そこだけは私のこだわりですから"の一点張り。まぁ私も無理言ってるの分かってたから悪いのは私なんだけど」
照れ笑いをしながらカフェラテを啜る。
「その理由がデートの最後はここのカフェラテだから! だもんな。マスター嬉しそうな顔と困った顔で俺としては笑ったけどな」
「だって……良いじゃない……もうっ!」
そんな他愛も無い会話をしながら、近くの公園へと入りベンチへと腰掛ける。
「今日も楽しかったね」
「そうだな。いつも楽しいけどさ……今日はまた一段と楽しかったよ」
遠く沈みゆく夕日を眺めながら今日一日を振り返る。
「別方向の電車に乗っちゃったりね」
「あれはお前が早くしないと電車出ちゃうとか言って、勝手に走りだすから」
「いやー……あるよね?」
「もっと冷静にな」
「はい」
素直な彼女に思わず口の端しが上がる。
「でも、海に着いてゲジゲジ見た時に小走りに逃げ出したの可愛かったよ?」
「うわー! それは忘れてくれ……生理的に受けつけないんだよあれは……」
「私は大丈夫だったけど」
「世の中の女性全員が平気でないことを祈るわ」
あれはもう気持ち悪いとかそんな尺度では測れん。
岩の影に集団とか……うっぷ。
「あー。思い出してる思い出してる。そんなあなたが可愛いと思う私も大分おかしいかもね」
「男に可愛いとかいうな」
「不貞腐れたって事実は変わりませんよー」
男子たるもの可愛いと言われて簡単に喜べん。主にプライド的な話で。
「その後に笑い過ぎて転びそうになった私を助けてくれたのは……格好よかったけどね」
「汚名返上出来て恐悦至極ですお姫様?」
「苦しゅうないぞ王子? ――これからも私を守ると……」
そこで会話が止まる。
彼女がゆっくりと顔を伏せた。
「今日が終わるな」
「……うん」
そう今日が終わる。
二人が一緒にいられる時間が――終わるのだ。
「私さ……もう日本にいられないんだ」
「は?」
「だからっ……もうすぐ海外に行くの。親の転勤で」
「意味が分からん。つーか分かりたくない」
「真面目に聞いて」
「いやだ」
「お願いだからっ」
「いやだ! 真面目に聞いたら……本当だって理解しちまうよ」
「……お願い」
「もうすぐって……いつだよ?」
「一ヶ月後――」
そして今日が、彼女が告げた一ヶ月後である最終日。
海が好きな彼女と一緒に海を見に行った。
そうして、いつもの通り最後にあの喫茶店の珈琲を飲んだ。
だから……もう終わりなのだ。
「ねぇ……別れようか」
「……」
「私はあなたのことが好き」
「俺もお前のことが好きだ」
「でもさ……ちょっと遠いよ。私……遠距離恋愛なんて自信……無いよ」
「確かにな。俺がここでどんな言葉をかけても、この先連絡を取り続けても……何の保証にもならない」
「信じてるが、信じたいに変わるなんて私には耐えられない」
「そうか」
「うん」
「……じゃあさ、最後の日までいつもと変わらない俺達でいよう? それぐらいは良いよな」
「うん!」
夕日が沈み、暗闇の帳が降り始める。
「ねぇ」
「ん?」
顔を伏せていた彼女が、ゆっくりと顔をあげる。
その頬は少し赤くて、目尻には……。
「結局今日まで出来なかったんだけど……キスしよう? 駄目かな……」
「駄目な訳あるか……良いのか?」
「その確認は……ちょっと嫌かな。私はあなたと……その……」
もじもじし始めた彼女の顎に片手を添えて、もう一方の手は彼女の右手を握って、俺はゆっくりと彼女の唇へ触れた。
「ん……ぁ」
触れていた唇を離して彼女を見れば、彼女はゆっくりと自分の唇へ手をやって何かを確認していた。
「えへへ……やっとキス……出来たね」
そうして彼女の目尻から、静かに涙が零れ落ちた。
「いや……まぁ。ずっとしたかったのを我慢していた俺の理性を賞賛してくれ」
「うわぁ。台無しだよぉ」
泣き笑いで答える彼女。
「だってさ。綺麗なままで送った方が良いと思ったんだ。ファーストキスだと思ったし」
「勝手に決めないで欲しいなー」
「え」
「うふふふふ」
うわぁ女の子ってコワイワー。
「この話を掘り下げると、とーってもあなたが傷つくことになるんだけど……どうする?」
「ヤメヨウカ、コノハナシ」
「それが懸命だねー」
いや、物凄い衝撃を受けているんだが……まぁこの際、落ち込むのは見送ってからでも遅くは無い。
だから、もう一度だけ。
彼女の唇にキスをした。
「……ッ、はぁ」
「なぁ……このまま」
ここにずっといよう。
その一言は。
「……ありがとう」
彼女の涙に濡れた笑顔の前に、永遠に言えないままで――
「それじゃ……ばいばい」
繋いでいた彼女の手が離れて、ゆっくりと俺の元を去っていった。
夜の公園。
俺はまだベンチに座っていた。
「もう……飛行機に乗ったよな」
横においていた一つしか無いタンブラーを手にとって、珈琲を飲む。
大好きな珈琲。
タンブラーに入っているはずなのに。
とても冷めたくて、美味しくなかった。
「マスター。このタンブラー返しにきたよ」
数日後、馴染みの喫茶店へと足を運んだ。
あの日に返せなかったのは……まぁ察して欲しいところだ。
「そうですか。珈琲は飲んでいかれますか?」
「ん……一杯貰うよ」
いつものように珈琲を入れて、渡してくれるマスター。
一口啜って、あの時の味がしないことに涙が流れそうになる。
「そういえば、もう片方のタンブラーはどうしました?」
「え。あれはあいつが持って行きましたけど。返しに来てないんですか?」
「ほぅ……そういうことですか」
マスターは少しだけ考えて、返したタンブラーを渡してくる。
「マスター?」
「これはあなたが持っていなくてはならない」
「でも……」
「これは二つで一つのタンブラー。片方が欠けてしまっては意味が無いのですよ」
俺はタンブラーを受け取り、鞄の中へとしまった。
「マスター……。俺が女の子だったら、惚れてしまいそうですよ」
「冗談が言える程度には前向きになれたようですね」
そうして、男二人で笑い合うのだった。
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
「えぇ。このお店は変わりませんね」
「以前にもご利用頂いたお客様ですか?」
「もう五年程前になりますが、ここの珈琲が好きだったの。だから日本に帰ってきたら必ず来たかったんです」
「それはありがとうございます。カウンター席でもよろしいでしょうか?」
「えぇ」
「それではご案内致しします」
私は店員の案内でカウンター席に座った。
何もかも懐かしいこのお店。
珈琲の匂いも昔のままだ。
唯一違うのは、彼が隣にいないこと。
あの日から五年。一切連絡をしていない。
連絡したら未練が残ってしまうから。忘れられないから。
「まぁ、結局五年経っても引きずってここに来てしまったわけだけど」
女性としてよろしくない部類だと自覚はある。
向こうにいた時も色々な男性に声をかけられたけど、彼を忘れられなくてみんな断ってしまった。
あぁそういえば、今日はこれを返す為にも来たんだった。
すっかり彼のことばかり考えていて忘れていた。
周りを見回すが、あのマスターはいない。
そんなにお年でもなかったと思うけど……。
「店員さん。これをマスターに渡しておいてくれない?」
先ほどの店員さんへ声をかける。
「マスターにですか? そうですね今は買い出しに行ってしまっているので代わりに渡しておきます」
「よろしくお願いします」
そうして私は、夜の草原に佇む少女の絵が入ったタンブラーを手渡した。
少しの間、私は手渡したタンブラーの事を考えていた。
あれを返すということは、彼との思い出に区切りをつけるということ。
そのことに。
「あれ……?」
テーブルが濡れていく。
そうか……思っていた以上に、考えていた以上に、まだ私……は……っ!
「う……ぁ」
駄目だ。こんなところで声を出して泣いちゃ……駄目だ。
化粧室へ向かう為に、席を立とうとした私の前に。
夜の草原に佇む少女の絵が入ったタンブラーが置かれた。
「……え?」
そういえば私まだ注文してないのに……。
フタが開いて出されたそれは――カフェラテ。
マスターは不在だって……。
私はカウンターの向こうにいる珈琲を作っていた店員を見る。
「やっと顔を上げたか。つーか来るの遅いわ。ちょっと俺の方が音をあげそうだったよ」
そこにいたのは、幼さが多少無くなっていたけど、間違いなく彼だった。
「どう……して?」
混乱している私に対して、彼は笑顔で答える。
「そりゃ簡単だよ」
ますます混乱する私。
「だってオレさ――」
「別れるなんて一言も言ってないぜ?」
当たり前のことだと言わんばかりの彼の言葉を、頭の中でしばし反芻する。
あぁ、そうか……え? それで五年も待ってたの? この人正気?
「一番参ったのはさ海外とは言われてたけど、どこに行くかすら聞いてなかったことだよな」
「うん……言ってない」
「だから連絡先知ってるのはお前だけで、俺は待つだけだったってこと」
「でも!」
涙声しか出ない私を制して彼が言う。
「遠距離は無理……だろ? それでもさ……お前は付き合ってないとしてもだ。友人として五年間全く連絡がないのは……相当きつかったぜ」
「だって、だってぇ。一回でも! 何でもない事であったとしても……連絡したらもう……」
耐えられなかっただろう間違いなく。直ぐにでも日本に帰ると言い出していたに違いない。
「だからさ」
「えっ?」
カフェラテが入ったタンブラーの横に、流れ星の絵の入ったタンブラーが置かれる。
「五年前から、五年経ってもあなたのことが好きです。よかったら……もう一度、俺と付き合ってくれませんか?」
その二つのタンブラーがやっと一つになった今日。
私は彼にこう返すのでした。
「はいっ……」
そして――私は。
そして――俺は。
そっと唇を重ねた。
†終†