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いつもと少し違う朝に  作者: 中島 遼
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北の山 2

 重い疲労が萌を押し潰すように襲い、そして翌日が一瞬にしてやってきた。

 「ほとんど寝た気がしないや」

 高津も萌と同じ気分だったのか、ぶつぶつ言いながら小川で顔を洗っている。

 「さっき、テントに入ったばっかりの様な気がするものね」

 とは言え、周囲が明るく景色が明瞭なのは間違いない。

 (……あーあ、最悪)

 頭の重さが全くとれていない。まるで、徹夜で深夜放送を見た翌日の授業中みたいな疲れ方だ。

 「でも、急がなきゃ」

 高津が自分に言い聞かせるかのように呟いた。

 「敵が来るの?」

 心配そうな萌に、彼はわずかに笑った。

 「いや、それは問題ない。何か脅迫観念に囚われちゃった感じになってるのかな」

 「急がないと、間に合わないから……だろ?」

 先頭を歩く村山が振り向いた。

 「朝一番、『声』がそう言ったよ。だから高津もそう思うんじゃないか?」

 「……多分」

 少々自信なげな声で高津は返事をし、そして前を歩く萌の肩を叩く。

 「だけど、ペースが速いと思ったら言ってくれよ。男の足と違うだろうから」

 「ありがと」

 実際、昨日に比べてかなり道は険しく、道程は遠く感じられた。例えば沢に沿って登る途中で滝に出くわすと、滝の左右の山腹に道を探してエスケープする。

 しかし、これが意外に遠回りになり、萌の神経をすり減らす一因となった。

 「わっ!」

 後ろの高津が声を上げた。萌が払った木の枝が顔に当たったらしい。

 「ごめん、大丈夫?」

 そのとき彼らは三時間以上藪の中を歩いていた。もちろん道どころか踏み跡すらない。とにかく一番場慣れしてそうな村山の跡をひたすらついていき、木と木が密で通れない時など、村山と高津の二人に支えてもらって隙間をかいくぐるというような真似までした。

 (足が動かない……)

 とりたてて疲れているようには感じなかったが、身体が思うように動かない。自分の意志よりも足がついてくるのが遅いのだ。

 (何でこんな目に遭わなきゃいけないんだろ)

 本当なら今頃は学校で授業を受けているはずだ。

 嫌いな数学だったが、仮にそれが六限まで続いたとしても、萌はそっちを選ぶだろう。

 (……ちょっと休みたいな)

 そう萌が思った時だった。

 「……しばらくは楽ができそうだ」

 「え?」

 タイムリーな村山の声に前方を見ると、確かに藪の切れ目から歩きやすそうな河原がかなりの長さで続いている。

 「見晴らしが良くなる前に、ちょっと木陰で休憩しようか」

 「藪の中は俺、嫌だな」

 「あの岩辺りなんかどうだろう?」

 低木が主体とはいえ、藪の中は暗くじめじめしている。萌は河原に出た途端、眩しさに目を細めた。

 ここからしばらくは村山の言う通り、昨日のハイキングコース並のペースで進めそうだ。

 見上げると、太陽が柔らかな日差しをやや前方右上の方から投げかけている。

 (ってことは、あたしたちは東に向いているんだ)

 自分がどこにいるのかと言うことを、萌は休憩のたびに村山に説明してもらっていたが、それでも少し歩くと何がなんだかわからなくなる。

 特にあの藪などは、地図とコンパスがあっても萌が道案内をすれば、五分以内に道に迷えるだろう。

 「あっ!」

 と、その時突然、高津が顔色を変えた。

 「どうしたの?」

 「誰かいる」

 村山と萌は慌てて立ち上がった。

 「敵か? 味方か?」

 「……多分、両方とも」

 萌はリュックを掴んで高津の袖を引いた。

 「ともかく隠れようよ、どこにいるって?」

 しかし高津は妙な顔をして首を振る。

 「待って、ちょっと変な感じなんだ」

 高津は右手で前方を指さした。

 「ほら、あそこに何か人のようなものが見えない?」

 言われてみれば、近視ぎみの萌の目にも、河原に沿って緩やかに左カーブを描く道の遠くの岩陰に、頭のようなものが見えた。

 「彼は微かに青い。そして、角の向こうに同じくらい印象の薄い赤が一つある」

 村山が険しい顔つきのままリュックを背負った。

 「確かにおかしいな。あんな角度で頭が見えるなんて」

 言われてみれば、わずかに覗くそれは地面から二十センチくらい上辺りだ。

 「とりあえず俺が行ってみるから、お前たちはここで待ってろ」

 「一人で行ったら駄目だって」

 いずれにしても危険ではないかと萌は思ったが、男二人が歩き始めたので慌てて後についた。

 一人で残る方がもっと怖い。

 現場から百メートルほどの距離になったので、三人は足音を立てないようにゆっくりと近づく。

 だが、そんな心配は無意味だった。

 (あ!)

 近づくにつれ、全貌がはっきりしてきた。倒れた男の周りに黒っぽい染みが広がっている。そしてその側にも人が三人ほど倒れていて……

 「きゃっ!」

 萌は慌てて口を押さえて目を閉じた。そこには昨日経験したのと同じ、身の毛のよだつような光景が展開された跡があったのだ。

 「村山さん!」

 高津の声と、村山が走り行く足音。

 「しっかりしてくださいっ!」

 村山の声が何度か飛んだ。順番に倒れた男たちに声をかけているらしい。

 だが、しばらくすると静かになり、何かさわさわという衣擦れの音だけが耳に残る。

 「村山さんっ! そいつは駄目だっ!」

 突然、慌てたような高津の声が響いた。

 (何?)

 状況が読めないので、萌も仕方なしに少しずつ目を開ける。血やそう言ったものを見なくてすむように、焦点を村山の背に合わせながら。

 「村山さん、お願いだからこっちの、この人を診てください」

 必死で別の男を指さす高津を見ずに、村山は自分の前に仰向けに倒れた男の首筋に手を伸ばす。

 萌はぎくりとした。高津がそこまで言うからには、そいつはきっと赤いのだ。

 しかし村山は声が聞こえないかのように、その男の襟のボタンを一つ外した。

 「村山さん、青いのはこっちで、そいつは赤いんです!」

 と、その時だった。その声に何かを触発されたかのように、倒れていた男がいきなりかっと目を開いたのだ。

 「なっ!」

 村山が驚きの声を上げるのと、上半身を起こした男の手が彼の喉頸にかかるのが同時だった。

 「村山さんっ!」

 高津が一足跳びに死体を越えて、村山の側に来る。

 「ぐえっ!」

 だが、高津が行動に移るより前に、男は大量の血を吐いてそのまま地面に突っ伏した。

 その背にはナイフが深々と刺さっている。

 「どうして……」

 村山がしりもちをついたまま、呆然とした表情で呟く。

 「それはこの男が赤いから。さっきから危ないって言ってたでしょ?」

 「そう言う意味じゃない。脈があんなに弱かったのに、赤いって言葉を聞いた途端にどうして起きあがったんだろうって」

 その声がわずかに擦れる。

 「どうしてそんなことができるんだろう? どうしてそうまでして俺を殺したかったんだろう……」

 「それがわかれば『声』なんてものに頼らなくてもいいんだよ」

 高津が少し震える声で言った。

 「それよりこっちの人を助けてよ。この人は青いんです。早くしないと死んでしまう……」

 だが、その声に村山は苦しげに首を振る。

 「済まない。さっきその人を確認したけど、俺には何もできない」

 「え?」

 村山はたった今死んだ「赤かった」男を見やった。

 「彼なら最初に見た時、何とかなるのではと一瞬思った。結局はどうしようもなかったけれど。そしてそれ以上にその人には何もできない。輸液も何もないんだ。今すぐ病院に連れて行けば、万に一つは助かる可能性もあるけど……」

 高津が頭を抱えて座り込んだ。それを見て、萌もようやく我に返って二人の側に歩み寄る。

 「高津君」

 萌は目を逸らしたかった周りの風景に強いて目をやった。

 倒れている男たちは全ておそろいのトレーナーを着ている。うつ伏せに倒れた男の背中を見ると、そこには大学のロゴマークとワンダーフォーゲルという文字が見えた。

 何が四人に起こったのかを考えると、足がすくみそうになる。一刻も早く、この場所から離れたいという気持でいっぱいだ。

 「ねえ、先に行こ?」

 萌の口からはそんな言葉がこぼれ出た。

 それほど自分の命が惜しいのか、それほど死体の側にいるのが怖いのかと言われれば頷くしかない。

 「ああ」

 村山がゆっくりと立ち上がる。

 「神尾さんの言う通りだ。それしかできることがない」

 「見殺しにするんですか!」

 高津は萌でなく、村山に鋭い視線を向けた。

 「死に水を取ることはできるが、それは俺たちの寿命も縮めることになる」

 彼は努めて冷たい声を出そうとでもしているように抑揚なく喋った。

 萌は足が震えているのを隠すように、高津の後ろに立った。

 (……そう、急がなきゃいけない)

 高津の気持ちもわからないでもないが、萌には他者に優しさを注ぐ余裕はない。

 「でも……」

 「彼はショック状態で、出血も1000……いや1500mlは優に越えている」

 血溜まりを見ながら、村山は小さな溜息をついた。

 「……俺には何もできない」

 高津は唇を噛んだ。

 「わかった」

 しかし村山の顔だって暗い。村山の言葉は萌に正々堂々と逃げる根拠を与えてくれたが、本人には後ろめたさがあるのだろう。

 (ぐずぐずしている時間なんてないのに)

 ようやく高津はリュックを肩に担ぎ、うつむいた。

 「ガキみたいなこと言ってごめん」

 村山はただ首を振り、先に立って歩き出す。高津はしばらくの間寡黙になった。

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