北の山 1
庭はそのまま山道に繋がっていたので、彼らは難なく北の山に入ることができた。
それでも村山は隣近所の目を恐れ、通常の道を通らずに、木々の間に隠れている獣道のようなきついルートを選んだ。
夜と言うこともあったが、そのため時間がかかる割には先に進めない。
もちろん、表通りから峠に向かって伸びる車道を使うつもりは端から彼にはなかったようだ。
「そういえば、村山さんちには車はないの?」
「あるのはあるよ。でも、俺が奴らなら、絶対に検問所を設けて封鎖する」
「確かに俺たちの町は、隣町に行きにくいもんな」
電車は南西の方に通ってはいるが、主にバスが発達した盆地だ。
北に行くには東真川を渡って東隣の町から抜けるか、今、彼らが向かっている北の山を越えるルートしかない。
陸の孤島だとよく父親が出張のたびに文句を言っていたことを思い出す。
「ふうっ」
萌は汗をぬぐった。萌が来ているのは婦人用のチノパンにトレーナー。それに薄手のジャンパーだ。
多分、亡くなった村山の妻のものだと推察はできたが、制服のプリーツスカートで山を越えるよりは黙って着た方がましだとは思う。
「暑っ」
漠然と山は涼しいと思っていたが、歩きづめの行程ではそんな気温を感じる余裕はない。
「この辺りはまだ俺のテリトリーだから夜でも先へ進めないこともないが、君たちはどうだ? まだ歩けるか?」
村山がラジオのイヤホンを外して、萌たちに尋ねた。
リュックの中に一応携帯電話も入っていたが、電源の問題があるのでもっぱら彼はラジオで情報収集をしている。
「あたしは平気」
「俺も」
ジーンズとウィンドブレーカー姿の高津も頷く。
すらりとした彼は村山と体格が似ているため、服を借りても特に違和感はない。
「なら、もう一時間ほど頑張ってくれ。そこにテントを張るのにちょうど良い場所があるから」
村山は音によってようやく存在がわかる眼下の小さな川の先を指さして、これからの進路の説明をした。彼の家続きの彼らが越えようとしている山は小さく、どちらかと言えば丘のようだったが、これを降りた所に、高さが八百メートル程度の山がもう一つそびえ立っている。
どうやら村山は、その二つの山の間の谷の位置に今夜の野営地点を決めたようだった。
(町にはあたしたち以外にも、逃げてる人がいるんだろうけど)
グラウンドで惨殺された級友のことを思い、萌は唇を噛んだ。不幸のどん底にいるような気分だが、本当は誰よりも運がよかったのかもしれない。
(少なくともあたしは、どうしたらいいのか悩まなくて済んでる)
計画的に物事を行うのは何よりも苦手だった。
そういう面倒なことを村山や高津が自らやってくれているので、萌は黙ってついていくだけでいい。
(……妙はどうしてるかな)
妹や父のことは皆目わからない。
(無事でいてくれればいいんだけど)
思いはしたが、自分の事だけで精一杯だ。それ以上のことを思い悩む気力すら今はなくて……
「この辺でいいかな」
村山が高津を見つめた。
「どうだ?」
「今のところは大丈夫みたい。気配は全く感じられない」
落ち着いた高津の声に、村山はようやく荷物を地面に降ろした。
「村山さんの方はどうです? 何かラジオは言ってますか?」
「いや、別段変わった事は何もない」
比較的に周りからはわかりにくい場所に、彼らは簡易テントを張った。
「疲れたろ?」
高津が隣にいた萌に声をかけてきた。
「大丈夫」
運動音痴ではあったが、スタミナはあるので意外にも身体はしゃんとしている。
ただ、腰を下ろすと頭が重く、心がひどく疲労しているのがわかった。
(ふうっ)
寒くはなかったが身震いがした。風は穏やかだったが、揺れる木々の音や川のせせらぎは心理的圧迫感を駆り立てる。
何か話でもしないとおかしくなりそうだ。
「ねえ、りそかりと、って覚えてる?」
自分から人に話しかけることなどなかった萌だったのに、そうも言ってられなくて高津に問う。
「……何それ?」
「あたしの家で……あの女が電話で話してたの、覚えてない?」
村山はああ言ったが、それでも萌はあれが母親だと認めることはできなかった。
「ごめん、多分、あの時は君の……家の人は真っ赤だったから、そればっかり気になってて話の内容、あまり聞いてなかったんだ」
「何だったかな、あたしたちが『りそかりと』だったら、逃げられると大変だからどうだとか」
「逃げられると大変?」
反応したのは村山だった。
「どういう意味かな?」
高津が首をかしげた。
「自分たちの支配下に異端者が混じってるのが生理的に嫌で、そんな変な名前つけたとか」
「それとも、君の持つ妙な力を恐れているか……少なくとも彼らはそういう可能性を加味しながら君を追っていたのだから」
確かに村山の分析が確かなら、敵は高津が変な力を持っていることを前提に追いかけてきた。
その力を持っていなかったら、偶然逃げられる可能性もあるはずの追い方で。
それだけ高津を脅威に思っているということなのかもしれない。
「そもそも、その能力の出現時期が、彼らの異常と時を同じくしている点も妙だしね」
高津は首をすくめた。
「でも、周りが敵じゃなかったら誰も赤くないから、俺、きっとわかんないまま今まで過ごしてたってこともありえる」
萌は高津を覗き込む。
「じゃあ、前はみんな青かった?」
「……それは」
萌は両手を打った。
「だったら村山さんが言う通り、同時に力が沸いたんだと思うよ。あいつらにしか働かない力なんだし」
高津は村山を斜交いに見る。
「そう言う村山さんも、俺から見たら普通じゃないように見える」
「ま、確かに俺自身も昨日から特殊な力が目覚めたらしいことは否定できない。幻聴でないならテレパシ-能力が備わったわけだし」
「そのテレパシーなんですけど」
高津が目の前を飛ぶ蚊を追い払いながら言った。
「相手と会話することはできないんですか?」
「それができれば一番いいんだけどね。俺も試みてはいるんだが、残念ながら受信機能のみの一方通行だ」
村山が済まなさそうな声を出した。
「俺に分かるのは方向と距離くらいで」
「それだけわかったら凄いと思うよ」
萌は慌ててフォローする。
「で、あとどれくらいでその子に会えるの?」
我ながらせっかちな問いだとは思うが、最も知りたい情報の一つだから仕方がない。
「直線距離にしたら、今まで歩いた距離の三倍くらいだとは思うが、明日はこの高い方の山を登らなければならないから、もう少しかかるだろう。それに今歩いた山道はほとんどハイキングコース並だったけど、明日からは道なき道を進まなきゃならない」
彼はポケットから地図を出し、懐中電灯の明かりをつけた。
辺りが急に暖かく感じられ、萌は何となくほっこりする。光がこれほど懐かしく感じられるとは驚きだ。
「『声』はこの山の反対側の中腹から聞こえる。つまり、沢に沿って上り下りをすればいい。楽に歩ける西側の道路沿いの道を使うよりはずっと安全だと思う」
高津は頷いた。もちろん萌だって、いつ何時敵が現れるかもしれない舗装道路、あるいはその側近くを歩くのは嫌だ。
「すると二日近くはかかるのかな」
「何事もなければ、そんなとこだな。普通の山道でも一時間で三百メートルぐらいしか進めないものだし」
「今は声、聞こえる?」
「いや。……随分前に、お休みって聞こえたから向こうは寝てる」
言いながら村山は伸びをした。
「さ、俺たちも寝よう。明日は夜明けとともにここを引き払うから」
村山が再び懐中電灯を消すと、前にも増して闇が濃くなった。