町北部 2
「ふう……」
鍵をかけた途端、頭に重りを乗せられたような疲労を感じ、そのままベッドに倒れ込む。
(次ぎに目が覚めたら、今までのは全部夢で、あたしはきっと自分の布団の中でさわやかに起きるんだ……)
目を閉じる。深い闇に落ちていきそうな疲れ。しかし、身体はくたくたなのに意識は冴え冴えとして眠たいのに寝られない。
瞼は熱く、長時間目をつむっていることができず、萌は仕方なしに暗い天井を見つめた。
(たまんない……)
頭の中には色々な疑問や思い出したくないような場面が交錯する。父や妹の妙は無事なのか、仲の良い級友は……
(第一、敵って何よ)
組織的に彼ら二人を殺そうとしている……いや、彼らだけでなく、変化しなかった全ての人間を抹殺しようとしている彼らは何だろう?
「りそかりと……」
不意に彼女の母の顔をした化け物の台詞が頭に浮かぶ。
(りそかりとって何だろ?)
考えたがわかろうはずもない。思考はとりとめもなくあちこちを行き来する。
(高津君の力も変)
救われたのだから文句を言う筋ではないが、それにしても奇妙だ。
もう一度反復する母の言葉。
(……りそかりとだと大変ですから……)
「うーん」
萌は寝返りを打った。頭が重い。
(でも、村山さんも変)
二人の話を信じるに足る根拠とは何だろう。人の話を聞くだけ聞いて、自分のことになると思わせぶりな態度に出る。
情報が少ないと言いながら、彼らの話だけでかなりの類推をするのは何故か。何か敵について知っているのか。
(考えてみれば、村山さんが大丈夫って言うのは、高津君が大丈夫って言ったから信じたまでよね。)
そう考えると村山を本当に信じていいのかも疑わしくなってくる。
(……彼は青い)
しかし、青いというのが単に敵に支配されていないだけというのなら、彼が悪人であることもあり得る。
(何か奴らとの裏取引を考えてたりして……)
重い頭を振る。
(ああ、人間不信)
萌は諦めて寝ようと努めた。だがどうしても眠ることができない。
(冷蔵庫に何かあるって言ってたっけ)
喉は渇いている。何か飲めば自然と落ち着くのではないか。
萌は起きあがり、そっと部屋を出た。
「ん?」
暗い階段を上がり、言われた通りにキッチンに入ろうとした萌は何となく立ち止まった。廊下の突き当たりにある奥の部屋のドアが風に揺れたその時、中に何か得たいの知れない塊が見えたような気がしたのだ。
(気のせい……よね)
萌は頭を一つ振ってキッチンに入り、冷蔵庫にあるウーロン茶のペットボトルを取りだした。
(白い塊……まるで人のような)
何故か心が騒ぐ。
見てはならないものを見てしまったような不安。
萌は開きかけたペットボトルの蓋を再び閉めてテーブルに置いた。
(村山さんは入るなと言った)
その言葉がなければ、逆に不信感を抱くことはなかったかもしれない。
(簡単に信用はできない)
母ですら、一皮剥いたら殺人鬼に変貌したのだ。ましてや見も知らぬ他人なら……
萌は奥の部屋に向かって歩き出した。
(何もないなら隠すことはないはず……)
そっとドアを開け、萌は目をこらした。何か大きな塊が部屋の中程に横たわっている。
道路から入ってくる街灯の光がぼんやりと照らし出すそれは……
「ひっ!」
声を上げ、慌てて口を押さえる。朝から見慣れているはずなのに、何度見ても醜悪な死体。
旅人を泊めて寝首を掻く山姥の昔話を突然思い出す。
天井の梁から意味もなくぶらさがるロープの向こう。
柔らかな街灯の白い光の下、おびただしい血液の染みすら影のように暗い。
顔はセミロングの髪で半ば覆われているが、見た限りでは若い女のようだ。
そして、その横には紛れもなく、彼女の命を奪った包丁が落ちて……
「プライベートだから入るなって言ったのに」
突然後ろから聞こえた声に、萌は心臓をつかまれたような恐怖を感じて跳び上がった。
怖くて動くことも、ましてや振り向くこともできない。
「……困ったもんだ」
村山は萌の背後から吐き捨てるように声を出した。
「見ての通り、俺が殺した」
村山の声は乾いていたが、幾分震えを帯びているような気がする。萌は不意に怖さを感じなくなって後ろを振り返った。
暗闇の中、村山と高津の陰がある。
「朝、予定通りに出張に行くから今日はいつもより遅く出るって言った途端、突然俺に包丁を突きつけてきて……何がなんだか分からないままもみ合って、気が付いたら死んでた」
彼は前へ足を踏み出し、そして萌の脇を通って死体の側に屈んだ。
「……その辺りの記憶は曖昧なんだけど、刺した事だけははっきり覚えてる」
街灯の光に照らされた横顔が苦痛に歪んだ気がした。
「きっと夢だと思って、シャワー浴びて。でも死体はいつまで経ってもそのまんまだし、夢も一向に覚めないから、仕方なしに後を追うことにした」
萌は首を振った。
「ごめんなさい。もうそれ以上は……」
村山の手が死体に触れるように動き、そして一瞬後に元の位置に戻る。
「でも、その瞬間、頭に子供の声が響いたんだ。助けてあげて……って。それができるのは俺だけだって。それで外を見たら君たちが立ちつくしてるのが見えた」
村山は立ち上がって左腕をあげ、つり革を握るように首つり用の縄を持った。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
擦れるような声で萌は詫びた。何故疑ったりなどしたのだろう。
相手の背中を見続けることができずに、萌は思わず下を向いた。
「君が悪いわけじゃない。もっと早くに伝えるべきだったのに、俺に意気地がなくて言えなかっただけだ」
彼の声には怒りはない。
「でも言ってよかった……すっきりした」
高津の手が萌の肩に置かれた。
「俺は今日、どうしても寝付けなかった。そしたら君が二階に上がる音が聞こえたんだ」
「え……」
「で、俺も何か飲もうと思って起きあがったら、村山さんも寝られずにいたらしくて、二人してキッチンに行くことにしたんだ。ところが、上に上がったら君が奥の部屋に進んでいるのが見えた。でもね、止めようとした俺を村山さんが逆に押さえたんだ、答えは早い方がいいって」
その説明が萌を庇ってのことだとはわかった。
「ごめんなさい……」
萌は村山を信じなかったことに対して、もう一度謝った。